ヨハネの母マリア 使徒言行録12章6節-17節 2021年12月5日 待降節2週目 礼拝説教

6 さてヘロデが彼を引き出すことを目論見続けていた時、その夜、ペトロは二人の兵士の間で眠りながら、二つの鎖で繋がれながら、看守たちも扉の前で牢獄を守り続けていた。 7 そして見よ、主の天使が立った。そして光が獄舎の中を照らした。さてペトロの横からつついて、彼は彼を起こした。曰く、「あなたは急いで起き上がれ」。そして彼の鎖が手から落ちた。 8 さて天使は彼に向かって言った。「あなたは自身を帯で締めよ。そしてあなたはあなたの草履(の紐)を縛れ」。さて彼はそのようにした。そして彼は彼に言う。「あなたはあなたの外套で自身をくるめ。そしてあなたは私に従え」。 9 そして出て行って、彼は従い続けた。そして彼は天使を通して起こっていることが真実であるということを知らなかった。さて彼は彼が幻を見ているのだと思い続けていた。 10 さて第一と第二の衛所を通り過ぎて、彼らは町の中へと導く鉄の門に来た、そしてそれはそれ自身で彼らのために開いたのだが。そして出て行って、彼らは一つの路地を通った。そして天使はすぐに彼から離れた。 11 そしてペトロは彼自身の中で生起して、彼は言った。「今私は知った、真実に主が彼の天使を派遣したということを、そして彼が私をヘロデの手から、またユダヤ人の民の思惑の全てから救った(ということを)」。 

 ゼベダイの子ヤコブが殺されたころ、ペトロも逮捕され牢獄に入れられました。ヘロデは次の朝にはペトロを民の面前に引き出し、公開処刑をしようと目論んでいます。「その夜」とは、わたしたちの感覚で言えば「前夜」ですが、夕から一日が始まるのですから、「同日の夜」とも言えます。死刑になることが分かっている直前、奇跡が起こります。またもや「天使」がペトロの脱獄を手伝うのです(5章17節以下)。

 ここでいう「天使」が誰なのかということについては5章を読んだ時に推測を申し上げました。ナザレ派に共感する獄舎内部の者、すなわち兵士か、看守であろうと思います。詳しすぎる描写がそのことを裏打ちしています。たとえば、「四人一組の兵士四組」(4節)、「看守たちも扉の前で」「二つの鎖」「二人の兵士の間」(6節)、「第一と第二の衛所」「町の中へと導く鉄の門」「一つの路地」(10節)などの言葉づかいに、内部の者がペトロを救出したことがうかがい知れます。この勇気ある行為の代償は高く、看守たちはペトロの脱獄の責任を負って処刑されてしまいます(19節)。

 救出劇はペトロにとって意外なことがらだったようです。彼は幻を見ているのだと思い込んでいました(9節)。10章でペトロは昼寝をしながら幻を見ています。同じように夜眠りながら幻を見ているのだと思ったわけです。あるいは「天使」の言葉がイエスの言葉を思い出させたからかもしれません。「あなたは私に従いなさい」は、ペトロの召命の言葉と単語レベルで完璧に同じです(マルコ1章17節)。ガリラヤ湖で言われたイエスからの命令や、弟子になった瞬間を、ペトロは片時も忘れたことはありません。夢に見ることも何回もあったことでしょう。イエスに従っているかのような夢見心地で、ペトロは「天使」の後ろをついていきます。

看守しか知らない通用口を通り、エルサレムの町へと抜ける裏道を小走りに駆け抜け、やっと知っている場所に出ました。その時「天使」は姿を消します。一人になったその時、ペトロの心の中に生じるものがありました。それは自分自身でした。ペトロが自分自身になったというのです。「今私は知った、真実に主が彼の天使を派遣したということを、そして彼が私をヘロデの手から、またユダヤ人の民の思惑の全てから救った(ということを)」。神無しには生きていけないということを初めて思い知ったという意味の言葉です。若い時には自分の行きたいところに自力で行けたけれども、他者がいて身支度のことまでいちいち指図されなければ何もできなくなったのです(8節)。しかし逆に、「天使」の指図に従っておけば、国家権力の縛りからも解放されます。神に委ねればわたしたちを縛り付けるものは何もありません。わたしたちをイエス・キリストの愛から引き離すものも何もありません。神は「彼の天使」(11節)なる者を(具体的に誰なのかは神が選定することですが)、必ず苦しむ信徒に遣わして解放してくださいます。

福音書のペトロは、かなりそそっかしい人物として描かれていました。使徒言行録のペトロは、悔い改め反省する人物として描かれています。彼は教会の創立者です。その権威主義はアナニヤとサフィラ夫妻の急死において嫌らしく作用しました。その一方で、権威主義や民族主義が、徐々に薄まっていきます。ステファノ、フィリポ系列の信徒との交わりがペトロを悔い改めさせていきました。そして二回にわたる「天使」による脱獄・解放です。自分だけでは生きられないし、様々な人と交わりを持った方が自分の人生が豊かになるということを、ペトロは知ります。それこそ真に自分らしい自分、人間らしい生き方なのです。神と、隣人に頼るという生き方です。

12 考えることもして、彼はマルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に来た、そこに相当数の者たちが集まり続け、かつ祈り続けていたのだが。 13 さて彼が門の扉を叩くと、ロデという名の召使が注意深く聞くために来た。 14 そしてペトロの声を認識して、喜びにより彼女は門を開けなかった。さて走りながら、ペトロが門の前に立っていると、彼女は知らせた。 15 さて彼らは彼女に向かって言った。「あなたは気が触れている」。さて彼女はそのように持っていることを主張し続けた。さて彼らは彼の天使がいるのだと言い続けた。 16 さてペトロは叩くことを依然としてし続けていた。さて(彼らは)開けて、彼らは彼を見た。そして彼らは驚いた。 17 さて彼らに手で静まるように合図をして、彼は彼らに説明した、いかに主が彼を牢獄から導き出したかを。それから彼は言った。「あなたたちはヤコブと兄弟たちにこれらのことを知らせよ」。そして出て行って、彼は別の場所へと行った。

 自分自身になったペトロは少し考え込みます。「イエスの母マリア」(1章14節)の「家の教会」に行くべきか、それとも「ヨハネの母マリア」(12節)の「家の教会」に行くべきかについて迷います。イエスの母マリアとは、クリスマス物語でお馴染みのマリアです。この女性は「主(イエス)の兄弟ヤコブ」の母親でもあります。エルサレム教会の最高指導者ヤコブは、母親マリアの主宰する「家の教会」に通っていた(または同居していた)はずです。エルサレム教会にはこの時、大まかに二つの家の教会があり、二人のマリアがそれぞれ主宰していたと思われます。それだから両者を区別するためにイエスの母マリアとヨハネの母マリアと呼び分けていたわけです。二人は民族派と国際派の二大潮流を代表しています。ペトロの転向やアンティオキアからの支援により、一時壊滅状態だった国際派の教会も復調してきたのでしょう。

 ペトロはどちらの教会に行くべきかを自分の頭でよく考えて、ヨハネの母マリアの家に向かいます。このヨハネはマルコと呼ばれていました。サウロ/パウロと同様に二つの名前を生まれながらに持っていた男性です。ヨハネ/マルコは、これから後バルナバとサウロと行動を共にし、特にバルナバに心酔して一緒にキプロス島への伝道旅行に同伴していきます(24節、13章5節)。つまり、アンティオキアから献金を届けたバルナバとサウロは(11章30節)、この時ヨハネの母マリアの家の教会に居たということです。二人も相当数の人々の一員となり、ペトロの無事の釈放を祈り続けていました(12節)。ヨハネ/マルコは、マルコによる福音書を書いた人物です。新約聖書文学の二大巨頭は、多くの手紙を遺したパウロと、福音書という文学分野を創始したマルコです。この時は脇役の二人が、共にペトロのために祈っていました。

かなり広い大邸宅であることが伺われます。大勢の人が集まることができたということや、召使ロデを雇っていること、さらに門から家までの距離があるように読めるからです。マリアは資産家のようです。そしてマリアの夫については何も言及されていないので、「やもめ」であるかもしれません。彼女はエルサレムにずっと住んでいた人です。そしてペンテコステの後にナザレ派に加わり、頭角を現し、「やもめ」という肩書・職務をもって教会に仕えていたのでしょう。息子のヨハネ/マルコはエルサレムに居ながらギリシャ語を駆使できるインテリです。夫亡き後の家業については息子にゆずり、彼女は自分の広い家を提供し、資産をつぎ込んで教会を支えます。もしかするとマリアも、6章に登場するステファノたちを担いでいった「やもめ」の一人だったのかもしれません。そうであれば筋金入りの国際派です。それだからバルナバとサウロもこの家に居候できたのでしょう。

 13-16節はユーモラスな情景です。キリスト者であろうロデは、ペトロの声を聞き分けました。しかし彼女はペトロを中に入れずに、家に戻り「ペトロが立っている」ということだけを主張します。教会の者たちは彼女の証言を信じません。主の復活を、女性たちの証言によっては信じない弟子たちの姿と同じです(ルカ24章11節)。著者はこの仕掛けによりペトロの「復活」を語っています。ペトロは紆余曲折の末やっと自分自身になったのです。

祈り会メンバーは「ペトロではなく、せいぜい彼の天使だろう」とだけ言います。ここにも仕掛けがあります。ペトロが「彼(神)の天使」によって救い出されたことを知らない、信じようとしない彼らを著者は揶揄しています。祈っていることがらが現に今実現したということを信じようとしていないという逆立ちがここにあります。凄い祈り会です。著者ルカは、パウロとマルコの両者を暗に陰に批判しています。

 付け加えて、資産家であるマリアが牢獄の看守にお金を積んでペトロの脱獄を頼んでいたという可能性もあります。すなわちマリアが「彼の天使」を任命した人物だということです。彼女は、ペトロを伴わずに「彼の天使」だけがマリア宅に来るかもしれないとも予想していたのです。さまざまな憶測や懐疑をはらみながら彼らが門を開くと、ペトロだけが立っていました。ロデは正しかったのです。そして、国際派に理解を示したペトロを救い出したいというマリアの祈りが知恵と力によって実ったのです。彼女はゼベダイの子ヤコブの時には動きませんでした。ヤコブが民族派だからです。それだからこそペトロは、ヨハネの母マリアにのみ挨拶をして、おそらく国際派の諸教会(バルナバ系列、フィリポ系列)に居候をする逃亡の旅に出ます。

 今日の小さな生き方の提案は、祈るということです。祈ることは行動することを伴うことがあります。祈ることしかできないという場合もありますが、祈ることと、その祈りの実現のために動くことも同時にできる場合があります。祈ることと働くことは両立します。さらに、祈られていることを知ることも大事です。それは自分が何者かを知る第一歩です。教会という交わりは、祈りの家と呼ばれるべきです。祈ること、祈られること、祈り合うこと、その祈りの実現を驚き喜ぶこと。神はさまざまな人物や事物を通して、わたしたちの祈りを実現させてくださいます。神の救いを待ち望みましょう。