ラケルの息子 創世記30章14-24節 2019年5月26日礼拝説教

レアのチームと、ラケルのチームは出産数を競っていました。先週までのところでは6対2でレアチームが数に優っています。レアが4人(ルベン・シメオン・レビ・ユダ)、ラケルの侍女ビルハが2人(ダン・ナフタリ)、レアの侍女ジルパが2人(ガド・アシェル)という順番と内訳です。

ここまでの物語には特徴があります。レアの出産の時だけ、ヤハウェの神が介入することです(29章31節)。ビルハとジルパの出産に神は関与しません。出産競争はラケルが開始した、罪深い人間同士の醜い行為です。もちろん背景に家父長制があります。争わなくても良いところで争い合うように仕向けられているということも、人間が作った欠けのある社会制度の問題です。つまり、神は姉妹が子どもの有無や多寡によって争うことを望んでいません。

そして本日の箇所で再びレアの出産に神が介入します(17節)。さらにラケルの出産の時にも介入します(22節)。これはレア以外の女性では初めてです。こうして物語は、レアとラケルが対等の存在であることを示しています。レアとラケルの子孫、どちらもヤコブの子孫として「主流」とみなされます。そしてレビとユダの誕生が一つの頂点だったように、ヨセフの誕生がもう一つの頂点、物語の目標であることをも示しています。

レアチーム、ラケルチーム、レアチームと出産が交互に繰り返されました。ここでラケルチームの出産が期待されるところで、物語はひとひねりを入れます。レアがもう一度3人の子どもを生むということ、しかもそのうちの一人が女の子(唯一の!)だったということです。この顛末はユーモアを込めて語られます。子どもが新たな展開を導入するという点におかしみがあります。

小麦の収穫の頃(5-6月)、レアの長男ルベンが恋なすびを野で見つけ母レアのところに持ってきたというのです。恋なすびは媚薬の一つと考えられていました。レアとラケルは全く口を聞かない関係ではありません。お互いの天幕も近かったと思います。そうでなければラケルはルベンの恋なすびを見ることはなかったでしょう。ルベンがラケルに見せびらかしたと思います。子どもはそういうことをしますから。ラケルはルベンの恋なすびを見て、自分の出産に役立てようと考えたのでしょう。レアに頭を下げて頼むのです。「どうかあなたの息子の恋なすびの中から、私のために与えてください」(14節)。

「あなたがわたしの夫を取ることは小さいことか。そして同様にわたしの息子の恋なすびを取ることは(小さいことか)」(15節)。「わたしの夫」という言葉はレアからヤコブを指してしか用いられません(29章32・34節、30章18節)。「わたしの妻」という言葉は、ヤコブからラケルを指してしか用いられません(29章21節)。ここにレアの魂の飢え渇きがあります。レアはヤコブを配偶者と呼ぶけれども、ヤコブはラケルを配偶者と呼びます。動詞「取る(ラカハ)」は、男性が女性を「取る」場合には「娶る」という意味になります。レアは、ラケルとヤコブが両性の合意に基づいて結婚し向き合う関係であることを羨んでいます。このことは決して小さなことがらではありません。それに比べてルベンの恋なすびは小さなものです。ラケルが欲しければ自分で野から好きなだけ取ればよろしい。何をこんなことのために深々と頭を下げているのかと、風刺を込めて笑いながらレアは軽口を叩いたのでしょう。小さな子どもがラケルを奇妙な行動に駆り立てています。

ラケルも釣られて笑います。二人の間に和解がもたらされるきっかけです。「それでは、あなたの息子の恋なすびの代わりに、彼があなたと共に寝るように」(15節)。ラケルは4人のローテーションの自分の番をレアに譲ります。それは自分自身の妊娠の可能性を低くします。ラケルの譲る態度は悔い改めです。今までの経緯をおさらいしましょう。ラケルはビルハに自分の代わりに生ませ、それに対してレアが報復してジルパに生ませ、こうして姉妹の関係は悪化したのでした。それを小さな子どもの無邪気な行動が好転させます。

「そしてヤコブが野から来た、夕方に。そしてレアが彼に会うために出た。そして彼女は言った。『わたしのところにあなたは入りなさい。なぜならわたしは確かにあなたを雇った(サカル)のだから、わたしの息子の恋なすびで』」(16節)。結婚の日、目の悪いレアは夕方父ラバンに手を取られてヤコブの天幕に行きました(29章23節)。今度は自分でヤコブを呼び止めます。「あなたはラケルとの結婚という報酬(サカル)を得るために14年間父のために働きました。わたしはそのあなたを、ルベンの摘んだ恋なすびをラケルに支払うことで今晩だけ雇った(サカル)のです」。ヤコブもにやりと笑ってレアの手を取ってレアの天幕に行きます。

この姉妹の和解の途上に神が介入します。「そして神はレア(の声)に聞き入った/レアに譲った。そして彼女は妊娠した。そして彼女はヤコブのために五番目の息子を生んだ」(17節)。神はレアの妹ラケルに対するユーモラスな切り返しを聞きました。また、夫ヤコブに対するユーモラスな雇用契約締結の宣言に聞き入りました。こうしてレアは久しぶりに妊娠し出産をします。レアは複雑な経緯で思いがけず出産することになったので、次のように言いました。「『神がわたしの報酬を与えた。それはわたしの夫のためにわたしの侍女をわたしが与えたこと(への報酬なのだが)』。そして彼女は彼の名前をイサカルと呼んだ」(18節)。

「そしてレアは再び妊娠した。レアはヤコブのために六番目の息子を生んだ。そしてレアは言った。『神がわたしに良い贈り物を贈った。この時わたしの夫は私を尊敬する。なぜならわたしが彼のために六人の息子を生んだのだから』。そして彼女は彼の名前をゼブルンと名付けた」(19-20節)。

この名付けにレアの本心が込められています。ガドとアシェルの名付けは軽めでした。神への言及がないからです。レアが結婚の時からずっと求めていたことは、夫ヤコブが自分を妻と呼び、夫婦として向き合い、ヤコブも自分を高め尊重することです。ラケルとの大相撲を経て、長男のルベンにも導かれて、レアは神からの労いを感じ、感謝を捧げています。レアの目的はある程度達成され、ヤコブは妻と認めたのでしょう。

ただし、どうでしょうか。以前ラケルがビルハの息子たちに、「神の裁き」(ダン)・「神の相撲」(ナフタリ)という名付けをした時にレアは報復をしました。神の名を持ち出して正当化する妹に反発したからです。イサカルとゼブルンの名付けはやり返しの延長にも読めます。神を持ち出しているからです。レアが結局「ヤコブのために六人も生んだ」と言っている中に、レア自身が家父長制に絡め取られている様子が伺えます。さらに、娘が生まれた時にレアは「ディナ」(裁き)と名づけます。語源はダンと同じです。これは不要なダメ押しではないでしょうか。わたしたちはレアを美化してはいけません。

「その後で、彼女は娘を生んだ。そして彼女の名前を彼女はディナと名付けた」(21節)。七人目(完全数)の末っ子は初めての女の子でした。語り手は注意深く「ヤコブのために」と記していません。姉妹二人の相撲は、ヤコブのための男児を出産するというものでした。この土俵設定では常に勝者は家長ヤコブです。数に数えられない女性の誕生が、土俵の外から土俵設定そのものを裁いています。ルベンのユーモアが、ディナの誕生という神のユーモアをもたらしました。レアはラケルを裁いたつもりでしたが、ディナという名付けはレアもラケルもヤコブもラバンも含むすべての登場人物を、裁いています。女の子の誕生になぜ関心を払わないのか、女性は出産や良い婿を獲得するだけの手段なのか。今日も続く問いです。

この状況のもと、神が介入します。「そして神はラケルを思い出した。そして神が彼女(の声)に聞き入った/彼女に譲った。そして彼は彼女の胎を開いた。そして彼女は妊娠した。そして彼女は息子を生んだ。そして彼女は言った。『神が私の非難を集めた(アサフ)』。そして彼女は彼の名前をヨセフと名付けた。曰く『ヤハウェが私のために他の息子を加えるように(ヤサフ)』」(22-24節)。神は思い直します。レアへの肩入れは加重でした。レア4人、ビルハ(ラケル)2人、ジルパ(レア)2人、レア3人という順番で2対9のスコアと劣勢に押し込まれ、さらに勝利宣言でダメを押されているラケルに共感します。

聖書の神は豊かな感情を持ち、自分自身の考えをも覆す方です。常にレアの側にいるわけでもない、整合性の無い行動をとる「不規則な神」です。聖霊という風は、愛という思いのままに吹くからです。そして神は、最初から最後まで「私のために」(1・14節)と叫ぶラケルの中に家父長制を打ち砕く可能性を見出しています。下の娘ラケルが、下の息子ヤコブにとって12番目(完全数)の子どもを生みます。37-50章までの主役ヨセフの誕生です。ヤコブ物語(25-50章)のほぼ半分はヨセフ物語です。この圧倒的分量の差にレアとラケルの逆転が如実に示されています。神はラケルの神、小さい者ラケルを選ぶ神です。

ヨセフの語源ヤサフという動詞は、「集める」(アサフ)と語呂合わせになっています。塵取りと箒で掃除をするイメージです。神はラケルへの様々に撒き散らされた非難を掃き清めます。また神はラケルのレアへの非難・神への非難も掃き清めます。神は人間の発する悪い言葉を丁寧に集めて、良い出来事を起こします。神は塵を集めて、泥をこねて、活けるネフェシュ(全存在)・アダム(原人間)を創造します。ヨセフの誕生です。

ヤサフという動詞には「もう一度行なう」「二倍にする」という意味もあります。ヨセフ部族というものは存在しません。なぜならヨセフの子孫だけは、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムがそれぞれ部族となることを認められたからです。特別にヨセフは二倍受け取ったのです。地図を見ると、エフライムとマナセの領土は非常に広い。マナセに至ってはさらに倍あります(半部族という例外)。広いだけではなくエフライムは、北王国の中心地サマリア、シケム、シロ、ベテルなどを抱えています。肥沃な地・交通の要衝です。

マナセ部族からは士師ギデオン(士師記6-9章)が出ます。エフライム部族は、モーセの後継者ヨシュア(ヨシュア記)、士師デボラ(士師記4-5章)、最後の士師である預言者サムエル(サムエル記上)、北王国の初代王ヤロブアムらの出身部族です(列王記上11章26節以下)。綺羅星のごとく有名人を輩出しています。それはヨセフが、「もう一人の正妻」ラケルの長男であることと対応しています。レアの「実質的長男」ユダが南王国の中心をおさえ、ラケルの長男ヨセフが北王国の中心をおさえます。一方、ビルハとジルパの子ら、イサカルとゼブルンは周縁部に追いやられ、ディナに相続地はありません。

今日の小さな生き方の提案は、柔軟な神に倣うことです。神はラケルを忘れているわけではありません。ラケルのどん底の時/悔い改めの時に思い出すだけのことです。神はわたしたちの発する言葉に聞き入っています。被造物の言葉や呻きは神の心を動かし、神は自分の意思を譲ります。だから神の歴史への介入は控えめです。神は過保護に守りません。しかし子育てに責任を負います。悪いものをも集めて良いものを生みます。最悪の罪の集積である十字架で、世界の罪を掃き清めた復活の神を信じ、神の思いのままに生きましょう。