ラケルの死 創世記35章16-22節a 2019年9月29日礼拝説教

「そして彼らはベテルから旅立った。そして以下のことが起こった。すなわちエフラタに来るための距離がまだ(残り)、ラケルが出産し、彼女は彼女の出産時に苦しんだ」(16節)。

 ベテルからの旅立ちはヤコブの判断ミスです。シケムに定住しようとヤコブは考えましたが(33章)、レビとシメオンの蛮行により、その道が閉ざされます(34章)。神は一家にベテルに住むことを命じました(35章)。ベテルで神は見られ、礼拝されます。ベテル定住に何の問題もありません。「旅立て」という神からの命令もない。ましてや妊娠中のラケルに無理をさせる積極的な理由もありません。ベテルで出産した方がラケルのためには良かったと思います。

 本日の箇所には「そして以下のことが起こった」という言い方が4回も繰り返されています。出来事が瞬く間に次から次へと起こって、一家が翻弄されている様子が強調されています。「エフラタにたどり着く前にラケルが産気づくはずはない」とヤコブは思い込んでいました。まさかの事態が起こったのです。しかも難産です。ラケルがヨセフを産んだ時は、難産ではありませんでした(30章23節)。ヤコブは二人目の子どもも安産であるに違いないと思い込んでいたのです。ヤコブは自分の見込みの甘さによって慌てます。それがラケルをさらに不安にさせます。

 「そして以下のことが起こった。すなわち彼女の出産時に彼女が苦しんだ時に、助産師が彼女のために言った。『あなたは恐れるな。なぜならこの男性もまた、あなたに属する子だから。』」(17節)。

 こういう時に頼りになるのは助産師です。助産師はラケルに必要な言葉をかけます。「恐れるな」は、天使が現れる時の決まりきった表現です(ルカ福音書1章13・30節)。助産師はここで神の代理役を果たしています。

 神の代理の第一は祭司という命を看取る仕事です。命についてわたしたちは何もすることができません。命は、神が与え、神が取るものです。人が生まれること、人が死ぬことは、神の専権事項です。だからそれらについてあれこれと思い煩い、不安に感じ、恐怖する必要はありません。本当に畏れるべきは神に対してだけです。助産師は神を畏れていたので、つまり命のことがらを神に委ねていたので、ラケルに「恐れるな」と励ますことができました。この言葉は、「ただ神のみを畏れよ」と言い換えられます。

 神の代理の第二は預言者の仕事です。先に生まれたヨセフだけではなく、今回生まれる男の子も、ヤコブにではなく、あなたラケルのものであると、助産師は続けます。この言葉は古代社会にあって驚くべき福音です。子ども、特に男の子は父親に属し、家に属すると考えられていたからです。「子どもは母親に属する。だから恐れるな」。彼女は神からの伝令として、未来に向かって預言をしています。「女性たち自身が産む権利(reproductive rights)を持つ未来が来る。あなたの苦しみや嘆きや不幸が、必ず報われる将来を神は用意している。そのために新しい命も用いられる。だから恐れるな」と言うのです。

 神の代理の第三は知恵者の仕事です。神は教育的な力づけ(empowerment)をします。「恐れるな」は、「ヤコブについて恐れるな」という意味も含みます。ヤコブの慌てぶりが、ラケルの混乱と恐怖を煽っているのですから、知恵に満ちた適切な助言です。「この男性(=ヤコブ)もあなたに属する子」は、「ヤコブも対等の人間だ」と理解できます。この点、次節の解釈と関係します。

 「そして以下のことが起こった。彼女の命が出て行く時――なぜなら彼女は死んだのだから――、彼女は彼の名前をベン・オニと呼んだ。そして彼の父は彼のためにベニヤミンと呼んだ」(18節)。

 「恐れるな」という言葉は死を前にした人への慰めでもあります。彼女の命(ヘブライ語ネフェシュ)がこの世から出て行く、これを死と呼びます。死は怖いものです。全ての人にとって未知の経験だからです。しかし神が共におられる。イエス・キリストにおいて啓示された神は、黄泉にまで伴われる方です。「だから恐れるな」と祭司は語ることができます。この神と共に死へと赴く場面で、人は真に正直になることができます。祭司・預言者・知者である助産師に看取られたラケルの最後の言葉に、彼女の人生がまとめられています。

 「ベン・オニ」という名前はおよそ新生児の命名にふさわしくありません。その意味は、「嘆き/不幸/悪の子」というものです。そこでこの言葉を、夫ヤコブに対する改名と解します。助産師に、「家父長ヤコブ、恐るるに足らず」と励まされたラケルは、自由な論争を最後にも仕掛けます。それはヤコブへの批判に留まらず、実に神への批判でもあります。イスラエルよりもベン・オニの方がヤコブにふさわしい。「要するにあなたがわたしの苦労の元だった」。

もしヤコブという従兄弟がカナンからアラムにふらりと来なければ、ラケルは姉レアと同じ夫を持つことはなかったでしょう。彼女の苦労の中核は一夫多妻の結婚にあります。姉との争いもせず、不妊の女性に対する差別も被らず、おそらく平凡な結婚を同郷の者としたことでしょう。そして一生をアラムで幸せに過ごし、父ラバンを騙す悪(親不孝)も行わず、「父の家」を喧嘩別れの結果捨てることもなかったでしょう。カナンへと旅をすることは、ヤコブと結婚したからです。あの出会いがなければ旅先で出産をすることも、その出産のために外国で死ぬこともなかったことでしょう。「愛する人と結婚できたことや主を礼拝できたことは幸せだったけれども、わたしの人生はあなたに振り回される不幸な人生だった。あなたはわたしの悲しみの種だ」と、ラケルは率直に夫ヤコブにぶつけています。そしてこの嘆きは、経済力を持たないゆえに結婚相手に振り回されがちな現代の女性たちの嘆きと重なります。

 ヤコブは、妻からの遺言である「重大な批判」を厳粛に聞きます。最後まで無理をさせて済まなかったと反省します。そこで、ベン・オニから連想して、その発音に近づけて、赤ん坊をベニヤミンと名付けます。この名前の意味は、「右手/南/幸運/正義の子」です。まったく正反対の意味をもつ言葉をヤコブはラケルの遺志に刺激されて思いつきます。「息子よ、自分のようになるな」という意味です。ヤコブの誠実な応答を確認し、ラケルは安心して息を引き取ります。ベニヤミンの生命を祝福し、自らの死を引き受けます。ベニヤミンは特別な子どもです。初めて夫婦で名付けたという意味でも特別です(エサウと同じ。ヤコブは父イサクによる命名。25章25-26節)。またこのベニヤミンだけが約束の地カナンで生まれたという意味でも特別です。「南」という意味は、その点も含めています。アラムよりもカナンは南にあるからです。

 「そしてラケルは死に、エフラタへの途上に埋葬された。それがベツレヘム。 そしてヤコブは彼女の墓の上に碑を立てた。それがラケルの墓の上の碑(だ)。今日まで(ある)」(19-20節。サムエル記上10章2節参照)。

 19節以降はこの後の歴史との関係で読み解きます。ベニヤミン部族の始祖ラケルの墓がベツレヘムへの途上にあるということは、この後の歴史を考えると深い意義を持ちます。ベニヤミン部族から、イスラエル史上初の王が誕生します。サウル王です。そのサウル王朝を倒し、400年以上続く王朝を建てたのがユダ部族のダビデ王です。彼はベツレヘムで生まれ育ちました。ラケルがベツレヘムへの途上でベニヤミンを生んだ時に死んだということは、「サウルからダビデへ(ベニヤミンからユダへ)」という歴史の流れを予告しています。ベニヤミン部族とユダ部族は特別に選ばれた部族なのです。

イエス・キリストはダビデの故郷ベツレヘムで生まれたユダ部族の人です(ミカ書5章1節、「エフラタのベツレヘム」)。異邦人の使徒パウロはベニヤミン部族出身です。新約では、「イエスからパウロへ(ユダからベニヤミンへ)」という逆回しになります。

またベニヤミン部族からは、涙の預言者エレミヤが登場します。エレミヤはラケルの出産死の出来事を下敷きにして、「ラマでラケルが死んだ息子たちについて嘆き悲しんでいる」と裏返しに語りました(31章15節)。おそらくこの言葉は、バビロニア軍がラマという町を攻略した時に行った虐殺事件を指すのでしょう。ラマの悲劇をマタイは、ヘロデ王がベツレヘム中の男の赤ん坊を虐殺した事件に重ね合わせています(マタイ福音書2章18節)。マタイがラマという場所を、ベツレヘムという場所に取り替えることができたのは、ラケルがベツレヘムへの途上で死んだからです。旧約は新約の歴史基盤です。

 「そしてイスラエルは旅立ち、ミグダル・エデルを超えたところに彼の天幕を張った。そして以下のことが起こった。すなわちイスラエルがその地に宿った時に、ルベンが行き、ビルハ・彼の父の側妻と共に寝、イスラエルは聞いた」(21節-22節a)。

 ヤコブという人はイスラエルと改名された後も元の名前で呼ばれがちな人物です(アブラム/アブラハムと対照的)。しかしこの箇所では、3回もイスラエルと呼ばれています。その理由は、ベニヤミンが誕生したことで12部族の始祖がすべて出揃い、イスラエルという民が構成されたからでしょう。レアの長男ルベンの不祥事も、後のイスラエルという民の歴史と重ね合わせるべきです。

 34章ではレアの次男シメオン・三男レビの不祥事が報告されました。今回は長男ルベンの不祥事です。ラケル系の諸天幕(母ラケルと息子ヨセフ、母ビルハと長男ダン・次男ナフタリ)を治めていた族長ラケルの死が、この不祥事の遠因です。統治のタガが外れているのです。父の妻と性的関係を持つことは後の律法によれば死刑に相当する重罪です(レビ記20章11節)。一夫多妻制の構造的欠陥です。ビルハの息子たちダンとナフタリは、レアの長男ルベンを深く恨んだことでしょう。後の12部族の居住区割りを見ると、ダンとナフタリの両部族は最北端に位置し、ルベン部族はヨルダン川東側の最南端に住むことになります。対角線です。疎遠な関係が宿命づけられています。

 レアの最初の四人の息子のうち上から三人目までが不祥事を起こしています。グループの末弟ユダが実質的な長男に上り詰めます。ユダ部族は特別なのです。ルベン部族は狭い意味では約束の地ではないところに住み、シメオン部族はユダ部族に吸収され消滅し、レビ部族は土地を所有できませんでした。こうして聖書はベニヤミンやユダという末弟、ヤコブやラケルのような弟妹、つまり「社会で小さいとみなされる者を神が選ぶ」というルールを貫いています。

 今日の小さな生き方の提案は、人生の最後の言葉を考えるということです。一体自分の人生をわたしたちはどのように振り返るのでしょうか。キリスト者の死は、ラケルの旅の途上の死に例えられます。神は小さな私たちの生と死に責任を負っています。ラケルは最後まで自由であり論争的でした。ヤコブという、欠けも多いけれども対話する相手としては退屈しない夫を、彼女は愛していました。一粒の麦は、ベツレヘムへの途上で落ちて死んだ。今までの含蓄のある言動と、その集大成としての「ベン・オニ」というユーモラスな言葉は、いつまでも記念されます。そのような言葉を最後まで発したいものです。助産師としての神が、その人らしい言動が肝心な場面で出ることを促しています。