ラザロの譬え話 ルカによる福音書16章19-31節 2018年1月21日礼拝説教

放蕩息子の譬え話から16章の終わりまで、金持ちが多く登場します。「富」あるいは「貧富」が一つの主題として一貫しています。本日の譬え話は、生きている間に富んでいた者は死後の世界で地獄に行き、逆に、生きている間に貧しかった者は死後の世界で天国に行くと伝えています(25節)。そして譬え話の後半は、この逆転劇を変更させることはできないと、読者にだめを押しています(26節以下)。イエスが憤りを込めて貧しいラザロに肩入れしていることは明らかです。不公正な貧富差は何らかの形で是正されるべきです。

しかし、イエスの意図とは逆に、この譬え話は読み方によってはこの世界の貧富格差の問題を是認してしまう可能性もあります。「あの世では幸せになれるのだから、この世では我慢をしなさい」と、あの世を信じない金持ちがうそぶく場合もありうるからです。この世界の問題からかけ離れないように注意しながら、この譬え話は読まれるべきです。ラザロの悲劇が起こらないようにという趣旨で理解しなくてはならないでしょう。

ラザロという名前の意味は「神は助け」です。神からの助けが真っ先にあるべき人というメッセージがここに込められています。

ラザロスというギリシャ名は、エルアザルというヘブライ名に由来します。イスラエルの初代大祭司アロンの息子の名前です(出エジプト記625節)。モーセの甥にあたる、この人物はアロンを引き継いで二代目大祭司となりました。イエス当時のユダヤ社会は民族主義の雰囲気が強く、昔のユダヤ民族の英雄たちの名前を付けたがる傾向がありました。イエス自身もヨシュアに由来していますし、マリアはミリアムに由来しています。ヤコブ、ユダ、シメオンも、そのまま旧約聖書に登場する名前です。エルアザルもよくある名前だったのでしょう。イエスの友人にもラザロはいました(ヨハネ福音書11章)。よくある名前の使用は、全ての者がラザロになりうるということを示唆しています。

この譬え話は、貧しい者が名前で呼ばれ、富んでいる者から名前が奪われています。ここにも逆転が示されています。そして、名前が皮肉を効かせています。「神は助け」という名前を持つ者に人からの助けがないからです。「人間扱いされていないラザロという名前を持つ者を助けるべきだ」という教えが、名前に込められています。ラザロを助けない金持ちは人間性を喪失しています。金持ちが名前で呼ばれない理由はそこにあります。

ラザロは金持ちの門の前に打ち捨てられています。豪邸ですから塀に囲まれているのです。玄関から離れた場所に立派な門が構えられています。門の前は、二人の息子をもつ父親が、毎日下の息子の帰りを待っていた場所です。

金持ちはラザロの存在に気づいていました。「ラザロ」という名前を知っているからです(24節)。ラザロが貧しいこと、全身にできものができていて働けないこと、門前で食べ残しの食べ物を待っていたことを知っています。テーブルの下でパンくずが落ちてくるのを待っている犬のように、ラザロはほんの少しのパンででも飢えを凌ぎたかったと思います。しかし、金持ちは何も食べ物を与えませんでした。無視をして、派手な暮らしを毎日続けていました。「遊び暮らしていた」は、あの父親が下の息子の帰還を祝う行為と同じ動詞です(1524節「祝宴」)。誰と祝うかがここで問われています。

ラザロは薬も欲しかったと思います。病気さえ治れば、再び働けるかもしれないからです。金持ちは薬も与えませんでした。「しかし、犬たちも来て彼のできものを舐めた」とあります(21節、直訳)。「犬たちも」とあるので、飢えた犬たちもラザロ同様に金持ちの食卓から落ちる食べ物を求めて来たと解します。また、犬たちがラザロに共感して、ラザロの癒しのためにできものを舐めたと解釈します。しばしば犬は路上生活者たちの友であり、犬の舐める行為は友好のしるしでもあるからです。加えて原文に「しかしalla」という強い接続詞があります。ラザロを見捨てた金持ちと、見捨てなかった犬が対比されていると、戌年にあたり犬びいきに理解します。

まもなくラザロは死にます。葬儀もあげてもらえなかったようです。横死です。しかし天使たちに連れられ天国に招き入れられます(22節)。おそらく皮膚の病気によって、人々から忌み嫌われ、触られなかったラザロです。天使たちは彼を丁重に抱き抱えます。天使たちの行為は、あのサマリア人の親切を思い出させます(1034節)。

ラザロはアブラハムの懐(コルポス)に入れられます(2223節)。アブラハムは、神の国の宴席にいる人物です(132829節)。ヨハネ福音書において、同じ「懐」が最後の晩餐で登場します。イエスの隣の席で食べていたことを示す表現で、「愛する弟子」が「イエスの懐の中にいた」と記されています(ヨハネ1323節)。当時の金持ちが、横になりながらご飯を食べていたことに由来する表現です。庶民の狭い家でどこまで実現していたかは不明ですが、食事の席で隣になることを「懐の中にいる」とも表現できました。

この読み方はヨハネ福音書118節の理解にも影響を与えます。神の独り子イエスは、大人である神の「懐の中にいる」赤ん坊なのでしょうか。それとも、神と同じ食卓の隣席で食べている青年なのでしょうか。

生きている間に、金持ちと食卓を共にすることもなかったラザロ。ましてや金持ちの隣で食事をすることもできなかったラザロが、神の国の祝宴でアブラハムの隣で食事を取ることができました。ここには「神の助け」による大逆転があります。この大逆転劇は、金持ちがラザロの生きている間に、ラザロになすべきことが何であったのかを示しています。金持ちには、あの父親のように、ラザロを家に迎え入れ、ラザロと共に食事をすることが求められていました(141321節も参照)。あのサマリア人のように、仕事の合間にでも、ラザロに対して治療行為をすることが求められていました。ラザロはいつも自宅の門の前にいたのですから、親切をする機会はふんだんにあったのです。あるいは、イエスを丁重に葬ったアリマタヤのヨセフのように、自らの不親切を悔い改めながら、せめてもの礼儀としてラザロの葬儀をあげるべきでした。

金持ちは死んだ後に葬られ地獄へ行きます。旧約聖書には「天国と地獄」は登場しません。死後の世界がどうなっているのか、ユダヤ人たちはあまり興味をもっていなかったので、天国と地獄という考え方はあまり発達していませんでした。死者は全員シェオル(「陰府」と訳される場合が多い)という場所に行き、生前よりも弱くはかない存在になると考えられていました。イエスの時代には、この譬え話が示すとおり、死者は何らかの理由で天国か地獄に振り分けられると考えられていました。問題は、その理由が何であるかです。

金持ちに対するアブラハムの言葉は、「生前良いものをもらっていたか、反対に悪いものをもらっていたかが、分かれ道になる」というものでした(25節)。つまり金持ちは生前の富によって死後に苦しむ。逆に、ラザロは生前受けた貧困・飢餓・病気・社会的不公正によって死後に慰められるというのです。ここには6章の教えが反響しています。「幸い、貧しい者たち。神の国はあなたたちのものだからだ。災い、富んでいる者たち。あなたたちは慰められているからだ」(62024節)。非常に分かりやすい理由です。それだからこそ、非常に厳しいルールです。

さらに加えて、アブラハム・ラザロの食卓と、地獄の炎の間には、越えることのできない裂け目が設けられているというのです。死後、両者を移動することはできません(26節)。挽回は不可能です。

金持ちはこの厳しいルールの前に、自分の苦しみについては引き受けることとしました。しかし、せめてもの願いとして、今生きている自分の兄弟に「厳しいルール」について教えたいと願いました。ラザロが慰められ、自分が苦しんでいるということを伝えれば、兄弟たちも悔い改めるかもしれません(272830節)。死んでからでは挽回できない。生きている間に生き方を方向転換させなくてはいけません。

アブラハムの回答は、とても辛辣なものでした。彼らには「モーセと預言者(旧約聖書の意)がいる。もしモーセと預言者に耳を傾けないなら、復活したラザロが教えても同じだ」(2931節)。金持ちは死後においても悔い改めていません。この期に及んでも、ラザロを自分より下に見て、あれこれと指図をしているからです(2427節)。同様に金持ちの兄弟たちも、悔い改める見込みは少ないのです。ましてや彼らは旧約聖書の中の人道的な法律を読んでもラザロに親切ができないのですから、悔い改める見込みは少ないでしょう。

最後まで読むと譬え話は、金持ちの挽回の可能性も示唆しています。金持ちが生きている間に「悔い改め」の道を選ぶ可能性を、アブラハムは否定していません(30節)。上から目線をやめて、低みに立って見直して、生き方を変えるならば、金持ちも救われえます。自分の兄弟に見せた親切を、ラザロに少しだけ示すだけで良かったのです。

実際、アブラハムという人は豪商でした。そして、エリコのザアカイも金持ちです(192節)。フィリピのリディアも裕福な貿易商、ルカも豊かな医者です。この人たちは、低みに立って見直して、人生をがらりと転換させました。アブラハム・サラ・ロトはメソポタミアの神々を拝むことを止めて、父の家を捨て神の国を求めて旅に出ました(創世記1214節)。ザアカイは財産の半分を貧しい人々に寄付しました。確かに富んでいる者が神の国に入ることは至難の業ですが(1825節)、しかし、富の奴隷にならなければ神に仕えることはできます(1613節)。自分の持っている地位や財産に振り回されずに、与えられた良いものを神が望む方向に用いれば良いのです。その人は決して富に仕えていません。神に仕えています。生きているうちに悔い改め、神を愛し、隣人を愛する生き方を始めようと、譬え話は前向きに訴えています。

譬え話は、極端な困窮者と、極端に冷酷な金持ちを単純化して対比させています。それだから全ての人がこの両者の間に入るようになっています。人生はもっと複雑です。金持ちのままで大病を患う人もいます。貧しくても頑健な体のまま長生きする人もいます。ある程度の財産を持つ人も、不幸とまでは言えないけれども苦労を味わう人もいます。良いこともあれば悪いこともあります。

すべての人を貫いている真理があります。生きている間にしか、生き方の方向転換はできないということです。死後の世界を信じていない人にとっては当たり前。信じている人にとっても確認しなくてはいけない事実です。限られた人生で、与えられた良いものをどのように用いるかが問われています。

今日の小さな生き方の提案は、幸いな人生を送ることの勧めです。世界レベルで「幸せ指数」が非常に低い日本で、どのようにして幸せになることができるのでしょうか。「神は助ける」ということを信じることです。そして隣人をできる範囲で助けることです。そのような生き方へと悔い改めましょう。