ラバンの追跡 創世記31章22-32節 2019年6月30日礼拝説教

「そして第三の日にラバンにヤコブが逃げたと告げられた。そして彼は彼と共に彼の兄弟たちを取った。そして彼は七日の道、彼の後ろを追った。そして彼は彼にギレアドの山で接近した」(22-23節)。

ラバンはかつて「三日の道」という距離、ヤコブを遠ざけました(30章36節)。そのためにヤコブの逃走を知るのに三日かかりました。ラバンの息子の誰かが、ヤコブ一家の住んでいた辺りに行ったところ誰も居なかったので、気づいたのでしょう。その知らせが届くのに三日かかったということは自然です。悪いことをした者にブーメランのように不利益が戻ってきます。身から出た錆です。やんわりと聖書は悪事を働かないように諭しています。

ラバンは自分の一族の男性陣だけを選抜して、ヤコブたちを追います。「~の後ろを追う(ラダフ)」という表現は、「迫害する」という意味の熟語です。単に追いかけたのではなく、引き止めて搾取し続けようとして追ったのです。出エジプトの時のファラオ率いるエジプト軍と同じです。ヤコブたちも多くの家畜を連れている割には早足で逃げていました。「七日の道」ということは、倍速以上のスピードです。ハランからギレアドまで約500km。アラム人ラバンにとって、かなりの距離です。相当の執念と言えます。

「そしてラバンはヤコブに追いついた。そしてヤコブはその山に彼の天幕を張った。そしてラバンは彼の兄弟たちと共にギレアドの山に天幕を張った」(25節)。「そしてエロヒーム(エルの複数形)がアラム人ラバンのもとに来た、その夜の夢の中で。そして彼は彼のために言った。『あなたのために気をつけなさい。ヤコブと共に語らないように、善から悪まで』」(24節)。

日本語で「神」と訳されている単語には三種類あります。「エル」「エロアハ」「エロヒーム」です。エロヒームはエルとエロアハの複数形です。だから「神々」とも「神」とも訳せます。見分け方は文脈のみです。唯一神のことを指すとき神と訳し、多神教の神々を指す場合には「神々」と訳します。ここでは24節に「彼は」と単数形が用いられているので、ベテルの神、唯一のヤハウェ神と同じ神が、ラバンに現れたということを言っています。ラバンの信じる神々は、このような形で信者に現れる神ではありません。アブラハムも、サラも、ハガルも、イサクも、リベカも、ヤコブも、このようにして現れ、共に居られる神を信じているのです。啓示と言います。

驚くべきことは、啓示は信者のみならず、信じていない者にも起こるということです。後にアラム王国はイスラエルの敵国となりますが、そのアラム人ラバンにも神は現れます。敵にも現れ敵をも用いる神が、全世界の創造主エロヒームであり、歴史の導き手です。ちなみに、十字架の前夜ローマ総督ピラトの妻にも夢の中で啓示はありました。

「善から悪まで」ということは、何も語るなという意味かもしれません(バルバロ訳他)。何かを語った時に、逆にブーメランのようにラバンに不利益が帰ってくる危険性を神は、ラバンのために忠告しています。「気をつけなさい」(シャマル)は、「守る」の受身・互恵の談話態です。「お互いを守るために、何も話さないで、ただ別れの挨拶だけ、口づけやハグだけをしておけば良い。引き止めようとして、偶像神の盗難事件を持ち出さない方が良い」と神は忠告をしています。言葉による話し合いはよく働けば合意を作りますが、悪く働けば非難合戦で溝を広げ深めます。もしも愛情を伝えたいのならば、何も話さないで抱きしめるだけで良いのです。打算家のラバンのために、お互いの平和のために神は啓示します。神は紛争解決・平和構築の神です。ところが、ラバンはこの忠告を振り切ってまくし立てます。

「そしてラバンはヤコブに言った。『あなたは何をしたのか。つまり、あなたは私の心を盗み、剣の捕虜のように私の娘たちを駆り立てた。なぜあなたは逃げるために自分を隠し、私を盗み、私に告げなかったのか。そうすれば私は喜びと歌、小太鼓と琴であなたを送ることができた。しかし、あなたは私に許さなかった、私の息子たちに、また私の娘たちに口づけすることを。今あなたは愚かな振る舞いをした』」(26-28節)。

ラバンは矢継ぎ早に語り、感情に任せて言い募っているように見えます。特に、「盗んだ」という言葉の重複に感情が現れています。ただし、「私を盗み」は皮肉かもしれません。「自分の心を盗み隠したつもりでいても、このとおり自分はここにいる。あなたはラバン自身を所持してしまったのだよ」という嫌味かもしれません。実際には絶対にしなかったであろう「歓送会」を持ち出すことで、次の交渉ごとを有利に進めようとする意図や冷静な計算が見えます。彼の本音はヤコブを引き止めることにあります。そのために、ヤコブがラバンに行った不誠実な行為をなるべく大きく見せようとしています。父として、祖父としての情に訴える作戦です。伯父であり舅である自分に何という不義理を働くのかという、臭い芝居の訴えです。ラバンは「何も言うな」というエロヒームの忠告を聞いていなかったのでしょうか。

「あなたたちに悪を行うことは、私の手のエルに存在する。そしてあなたたちの父のエロヒームが昨夕私に向かって言った。曰く、『あなたのために気をつけなさい。ヤコブと共に語らないように、善から悪まで』」(29節)。ラバンは一言一句正確に、神の言葉をなぞっています。しかし、彼はエロヒームと呼ばれる、ヤコブの父の神(イサクの神)に従いません。なぜなら、イサクの神よりも、自分の手の中にある「エル」の方が上にあるからです。多分ラバンは、一つの偶像を手に持っています。それをかざしながら、イサクの神の忠告を聞かないことを宣言し、ヤコブの悪について暴いていこうとしています。「エロヒームは『善から悪まで何も語るな』などとほざいたが、エルの像にかけて、ラバンの善からヤコブの悪に至るまでを徹底的に論じようではないか」という主張です。ラバンはエロヒームに挑戦しています。

「そして今あなたは確かに行った。なぜならあなたはあなたの父の家を確かに慕ったからだ。なぜあなたは私の神々(エロヒーム)を盗んだのか」(30節)。この箇所のエロヒームは「神々」としか訳せません。ラバンは複数の神像を所有していました。多神教世界にいるアラム人だからです。ハランの町では諸々の天体を拝むこと、特に月の神シンを拝むことが自然でした。「守り神の像(テラフィム)」(19節)は実際複数形です。娘ラケルは、父ラバンから、全部ではないけれども、複数の神像を盗んだのです(32節「それらを盗んだ」)。ラバンはその盗み行為の悪を咎めています。これは、黙って出て行く親戚間の不義理よりも、重い犯罪です。親戚同士であっても許されない罪悪です。「あなたは盗んではならない」という十戒の第八戒にも反します。

この二つの論難(①黙って出ていく不義理、②神像を盗んだという罪)に対してヤコブが反論します。

「そしてヤコブは答えた。そして彼はラバンに言った。『なぜなら私は恐れたから、なぜなら私は言ったから、あなたの娘たちを私と共なるところからあなたが引き裂かないようにと」(31節)。「私は言った」を、自分自身の心の中で言ったと考えると、「思った」(新共同訳)という翻訳がありえます。その一方で神に向かってかつて祈りの中で言ったという理解もありえます。ヤコブは、神に向かって「エロヒーム、どうか私と家族を引き裂かないでください」と言って祈っていたのでしょう。イサクのもとに帰りたいとラバンに言った途端に、「自分だけで帰りなさい」とラバンに言われることを恐れて、神にだけ言っていたということです。

親戚に対して恐怖を与えているラバンにも責任があるということです被害者をひどい目に遭わせている加害者が、「なぜ黙って出て行ったのだ」とよくも言えたものですねと。これが第一の論難に対しての反論となります。あなたが怖かったから黙って逃げたというのは、DVやハラスメントのことを考えても正当な理由です。

「あなたのエロヒームと一緒に(いることを)あなたが見つけた者と共に、彼は私たちの兄弟の前で生きない。あなた自身で見分けよ、何が私と共にあるかを。そしてあなたのために取れ。』そしてヤコブはラケルがそれらを(複数)盗んだことを知らなかった」(32節)。

第二の論難に対して、全く身に覚えがないことなのでヤコブは強く反発しました。「泥棒扱いをするとは何事か、全くの濡れ衣だ」とヤコブは思っています。ラケルがラクダを飛ばしてラバンの天幕からテラフィムを盗んだということをヤコブは知りません。この忙しい時に、そんな危険なことをするなどとは思いもよらなかったことでしょう。知らないゆえにヤコブは自分自身の潔白を疑っていません。やましさの無い強い態度の源です。

啓示する神・触れない神であるエロヒームを信じているヤコブが、なぜラバンの神像エロヒームを盗む必要性があるのでしょうか。またもや難癖をつけてラバンが自分を騙そうとしているのではないかと、ヤコブは疑います。

たとえばこういう騙し方です。ラバンの兄弟たちがいくつもの神像を自分で持参してきて、それをヤコブの天幕にさりげなく置き、彼ら自身が「発見」するという自作自演劇。狭山事件の万年筆のように、冤罪を被せる道具としてエロヒームが悪用されるのではないか。これをこそヤコブは恐れます。何せ相手は狡猾なラバンです。そこでヤコブはラバン一人で調べることを要求します。「あなた自身で見分けよ、何が私と共にあるかを」。それは連れてきた者たちを用いた、ラバンの陰謀を防ぐためです。ラバンとの最後の駆け引きです。

ただしヤコブの言葉には駆け引き以上の内容も見受けられます。「何が私と共にあるかを見分けよ」というラバンへの訴えには信仰的意味もある。エロヒームという神が私と共に居ることを、あなたは知るべきだともヤコブは言っているのではないでしょうか。エロヒームという神像を探しに来たというのなら、アブラハム・サラ・ハガル・イサク・リベカの神、エロヒームが私と共に居て、私を守っているということを認識してほしい。この神をこそ畏れよ。エルという神像を握り締めているラバンに対してヤコブが今だから言えることは、このような伝道の言葉ではなかったかとも思います。この言葉は駆け引きから来るものではなく、20年かけてヤコブに与えられた信仰告白です。

あなたは今愚かな振る舞いをしていると言う迫害者ラバンに対して、ヤコブは愚かな言葉である福音の宣教をしています。「神が私と共に」、インマヌエルの神、十字架と復活の神を公に告白しているのです。

今日の小さな生き方の提案は、悪いことから良いことまで何でも語り合うことをやめることです。むしろわたしたちに必要なことは隣人と語り合わずに愛することです。あるいは、神に向かって叫ぶことや、神について告白をすることです。必要な言葉はそんなに多くはありません。言葉を要する時というのは悪巧みをしている時です。必要な言葉は一つだけです。「神が私と、あなたと、私たちと共におられる」。唯一の言葉を共に告白していきましょう。