リベカの計略 創世記27章1-17節 2019年3月10日礼拝説教

本日の箇所はリベカが主人公の物語です。リベカには双子を妊娠している時から心に納めている、神の言葉がありました。「二つの国があなたの胎内に。そして二つの民があなたの腹より分かれる。そして(ある)民より(別の)民が強くなる。そして多大な者が些少な者に仕える」(23節直訳)。神の意思は、兄息子エサウが弟息子ヤコブに仕えることにあるとリベカは考えていました。このお告げを、リベカは自分ひとりの秘密としており、夫には言っていないように思えます。

夫イサクはエサウの獲物だけを食べ、エサウを依怙贔屓しています。それに対してリベカは、ヤコブを依怙贔屓します。ほんの少しだけ後に生まれただけで、双子の弟息子が不利益を被らされることに理不尽さを感じているからです。多大な恩恵を受ける兄息子と、些少なものすら手に入れられない弟息子。何も相続できないヤコブがかわいそうだとリベカは思っています。エサウがヤコブに長男の権利(父親の全財産を相続する権利)を赤い豆の料理と交換したことを聞いて、リベカは喜びました。そして、「神の意思は、エサウの相続権がヤコブに移動することにある」と、確信します。二人は二つの民となり、ヤコブがエサウを従えるはずであると。彼女は生まれる前の預言を思い出します。

イサクは赤い豆事件を聞いて嫌な思いは持ったことでしょう。しかしどちらかというと気の弱いイサクは、成り行きに任せているように思います。エサウが長男の権利を軽んじたことも、ヤコブがしたたかさであることも、評価を下していません。対立も煽りません。常に第三の道を探る知恵がイサクの、イサクらしい振る舞いです。もともと次男だったのに長男の権利を与えられたイサクは、そこまで長男の権利を重んじていないのかもしれません。もっと大切なものを族長であるイサクは持っています。それは「祝福」です。

以前にアブラハムたち族長に与えられた「神からの祝福」の内容は、土地と子孫だと申し上げました。本日の箇所の場合は、「親から子への祝福」です。その内容は、「自分の全存在」を与えることです。4節「わたし自身の祝福をお前に与えよう」の直訳は、「わたしの全存在(ネフェシュ)がお前を祝福する」です。ネフェシュはしばしば「魂」と訳されますが、創世記2章7節では「生きる者(ネフェシュ)」と訳されています。全体としての命そのものが元々の意味です。イサクのネフェシュがエサウを祝福することは、イサクの生命そのものがエサウに移り住むことを意味します。

イサクがエサウに継承させたかったことは、自分の人生・生き方・生活全てです。だから、全財産よりも大切なものです。人が全世界を得ても自分の生命を失ったら何の益にもならないからです。あるいは悪魔にひれ伏して、自分の生き方をねじまげて大金持ちになっても、何の益にもならないからです。「わたしは死ぬ日を知らない」(2節)という言葉にはイサクの切実さが現れています。命あるうちに最愛の息子に自分自身の全てを継承する祈りを捧げたかったのでしょう。

イサクの口にはいつもエサウの獲物の肉がありました。ヤコブのものは食べない。食べ物に関する、エサウに対しての依怙贔屓は、死ぬ直前まで一貫しています。今獲物を取って、好きな料理を作れとイサクは命じます。「わたしの息子よ」(1節)という呼びかけには深い愛情が示されています。「わたしのために獲物を獲りなさい、わたしのために好みのおいしい料理をつくりなさい、わたしのために持ってきなさい」(3-4節)。「わたしのために」の連呼は、二人の関係の近さを示しています。

そして、「わたしの」という言葉は、イサクの子育ての勘違いも示しています。親は自分のために子どもを育てるのでしょうか。そうではない。その子のために、その子の人格の完成を願って育て上げるのです。子どもはいつまでも「わたしの息子」「わたしの娘」ではありえません。

物語は5節で急展開します。リベカが、この父子の対話を聞いていたからです。おそらくその場に同席していたのでしょう。目の見えない夫の介助のためにいつも近くにいた可能性もあります。リベカはイサクの発言をかなり忠実に伝えています(7節)。やはり彼女は二人の対話を直接聞いていた。「エサウへの祝福」は夫婦二人で準備を進めてきたことがらなので、リベカがその場にいても不自然ではありません。15節に登場する「エサウの晴れ着」は、リベカが準備しリベカが保管しています。「祝福」は、成人式のように夫婦が準備してきたのでしょう。これは表のシナリオです。リベカにはもう一つの裏のシナリオがありました。エサウが野に出たことを確認してから、リベカは自分だけの秘策・裏のシナリオを実行に移します。夫イサクの傍らを離れない最大の理由は裏シナリオ発動の機会を知ることにあったのです。

夫イサクは祝福によって、双子の兄弟に優劣/先後をつけようとしています。兄弟喧嘩の最終解決です。族長の祝福は、長男の権利よりも上と考えられています。魔術的な力の存在を古代人は素朴に信じています。祝福や呪いの存在です。家制度のもと「家長」による祝福や呪いは実際に生命に影響を与えるものなのです。ヤコブのためらいはその証拠です(12節)。イサクの思惑は、ヤコブがエサウから奪った長男の権利よりも大いなる力をエサウに与えることです。そこで逆転がなされ、エサウ優位が決定するからです。

それに対してリベカは、ヤコブに長男の権利だけではなく祝福をも与えようと考えています。この二つがヤコブにそろえば、「鬼に金棒」とリベカは考えました。神の意思はエサウがヤコブに仕えるということにあるのですから、リベカは神の意思を地上に実現させるために努力をします。夫婦で準備して兄息子エサウに二人で授けるべき祝福を、夫イサクを騙して弟息子ヤコブに与えさせる。これがリベカの計画・裏シナリオであり、その決定的な時を探るためにイサクの近くを離れなかったのです。家制度に対する謀反です。

「リベカはイサクが彼の息子エサウに話している言葉を聞いた」(5節)。「リベカは彼女の息子ヤコブに言った」(6節)。物語の中で、エサウはイサクの息子、ヤコブはリベカの息子と色分けされています。夫イサクがエサウを我が物と思っているのと同じように、リベカもヤコブを我が物と思い込んでいます。「わたしの息子よ」(8節・13節)と、リベカはヤコブに呼びかけています。この言葉は、1節のイサクの呼びかけとまったく同じです。

リベカもまた自分の息子ヤコブに命令します。「今、あなたはわたしがあなたに命じているわたしの声に聞きなさい(8節)」。「子山羊を二匹わたしのために取って来なさい」(9節)。この言い方は、イサクが「わたしのために」を連呼していたことと対応しています。夫も妻も自分のために行動をしています。

そしてリベカは、イサクのことを「わたしの夫」とは呼ばずに、「あなた(ヤコブ)の父」と必ず呼びます(6節、9節、10節)。ある意味で確信犯的に、リベカは夫イサクを裏切ります。この人は夫ではないと。かつてイサクも、リベカのことを「自分の妻ではない」と言っています(26章7節)。物語はその時イサクを咎めなかったように、ここでもリベカを咎めません。相手が目の見えないことを利用して相手を騙すことは、倫理的には問題です。目の見えない人の前にあえて障害物を置くことにも似ます。このことも不問に付されます。

リベカはヤコブに子山羊を取ってくるように命じ、自分が料理を作ると言います。時間短縮という意味もあるでしょう。エサウは狩りをし、料理をもしなくてはいけません。二倍の手間です。共犯者としての責任という理由もありえます。また、夫イサクがヤコブの料理を食べないということへの当てつけ(批判)も込められているのでしょう。「あなたの父はあなたの料理を口にしない。人生の間違えだ。ならばわたしがエサウのレシピを再現させる。死を前にあなたの父はエサウの料理に騙されてあなたを祝福するはずだ」(9-10節)。

ヤコブは完璧な人物と評されるように(25章27節)、母が何をしたいのかを即座に完璧に理解します。そして、その詐欺行為の危険性も予測します。イサクも愚かな人ではありません。毛深いかどうかで、双子を見分けようとするはずです。そうなればイサクからヤコブに、祝福ではなく呪いがかけられてしまうでしょう(11-12節)。ヤコブのためらい・反論に、リベカの計画がヤコブにも知らされていなかったことが分かります。彼女一人の秘策だったのです。

リベカは決然とヤコブに命じます。「わたしの上に、あなたの呪いが(あるように)、わたしの息子よ。ただわたしの声に聞きなさい。そしてあなたは行きなさい、あなたは取りなさい、わたしのために」(13節)。ここには対話はありません。族長としてのリベカの威厳と決意だけが気迫として伝わります。自分を愛し抜く母の言葉に、ヤコブは従わざるをえないのです。「すでに呪いは自分の上にある、死んでも構わない」とまで言われたのですから。

リベカは策士というだけではなく勝負師です。その源泉は実家にあります。リベカは兄ラバンから次のような祝福を受けて、イサクと結婚しています。「わたしたちの妹よ、あなたが幾千万の多大な者となるように。あなたの子孫がその憎む者たちの門を勝ち取るように」(24章60節)。実家の兄ラバンという腹黒い人物のネフェシュが、リベカに乗り移っています。

自分も弟息子ヤコブも、イサクやエサウから些少な者とみなされています。この葛藤は引き受けて克服すべきです。ここが勝負の場面。人生の踏ん張りどころであり、分かれ道でもあります。その先に行ったら二度と引き返せない地点です。リベカは腹をくくっています。そしてヤコブに、「あなたはわたしの息子なのだから腹をくくれ」と詰め寄っているのです。イサクは形式的にネフェシュを授けます。相手を間違えた上での祝福に一体何の意味があるのかと思えますが、古代社会では重要な形式です。リベカは実家に綿々と伝わっているネフェシュの内実をヤコブに授けます。「自分の存在が尊重されていない/憎まれている/軽視されていると知ったら、その事態に向かって立ち向かう」というガッツです。ヤコブは母のガッツに押され、そのガッツを継承します。

「彼は行き、彼は取り、彼は持ってきた、彼の母のために。彼の母は、彼の父が愛する、おいしい料理を作った」(14-15節)。物語はここからヤコブ視点に変わります。リベカは「子山羊の毛皮」をヤコブに着せます(16節)。これは、ヤコブの出した論点に対する応答、反論への反論、弱点の補強です。二人は完全に共犯者となります。リベカのネフェシュが共有されています。

今日の小さな生き方の提案は、リベカのネフェシュを引き継ぐことです。わたしたちを取り巻く状況は複雑です。イサクは目が見えない高齢者・弱者ではありますが、「家長」として権力を握っています。力関係は複雑、加害と被害の実情は複雑です。しかしそうではあっても、どこかで腹をくくる必要があります。自分が、あるいは自分の愛する人が、貶められているならば、どんな策を使ってでも立ち向かい、葛藤を乗り越えなくてはいけない。それがリベカのネフェシュ/ガッツです。日本という家父長制社会にあって、家に支配されるのではなく、個人として自由に「生きる者」となりましょう。