ルカによる福音書15章1-7節 2017年12月10日 待降節第2週礼拝説教

アドベント(待降節)の第2週です。イエス・キリストがこの世界に来られたということを記念し、ルカ福音書を読み進めながら、先週に引き続き神を待ち望む希望を強めていきましょう。本日は「一匹の羊を探す羊飼いの譬え話」、来週は「一枚の銀貨を探す女性の譬え話」、クリスマス礼拝は、「放蕩息子の譬え話(前半)」になる予定です。神は人を探し出すためにこの世界に冒険し来られたという筋道を、頭の片隅に置いておくことが求められています。Adventadventureなのです。

 本日の譬え話は非常に有名です。いづみ幼稚園の年中組が「こひつじ組」と名付けられていることの一つの理由でもあります。マタイ福音書181214節にも、外典のトマス福音書107節にも、大筋が同じ譬え話が掲載されています。おそらく口伝が広く信徒たちに覚えられていたのでしょう。共通する大筋は次のようなものです。「百匹の羊を飼う羊飼いは、もし一匹がいなくなったら、九十九匹を放置してその一匹を探し出すはずだ。そして見つかったら大喜びするはずだ。」非常に強烈な逆説が述べられています。普通は「九十九匹を大切にして、一匹を諦める」という結論になりがちな状況です。イエスは、「九十九匹を危険な目に遭わせても一匹を探し求めるのが当然だ」と、あえて逆の主張をしています。こういった大げさな譬え話、常識の裏をかく主張は、イエスの教えの典型例です。

この大筋に、マタイ、ルカ、トマスのそれぞれの教会の力点に従って、さまざまな言葉が付け加わっていきました。たとえばトマス福音書は、いなくなった羊を最大の羊だったとします。イエスの逆説・急進的な主張に耐えられずに、羊飼いが一匹を探し求める合理的な理由をひねり出しているのです。ではルカの場合はどうでしょうか。どの部分が付け加えでしょうか。ルカ福音書1556節は元来の譬え話にあったと推測されます。近所と共に喜ぶという場面、こういった絵に描いたような情景描写は、イエスの譬え話によくあるからです。つまり13節、7節はルカ教会の付け加えた強調点です。

137節には、ルカ福音書が好む単語がたくさん登場しています。「徴税人」「罪人」「悔い改め」などです。さらによく調べてみると、興味深い事実も発見できます。「不平を言い出す(ディアゴングゾー)」(2節)という単語、「見失う(アポルミ)」(46節)という単語が、徴税人ザアカイの家にイエスが訪問するという出来事に用いられているのです(197節「つぶやいた」、同10節「失われたもの」)。ディアゴングゾーは新約聖書中2回しか登場しません。ルカだけが用いる言葉です。しかも一匹の羊の譬え話と徴税人ザアカイの物語にしか、ルカは用いないのです。この言葉は、ただの不平ではなく否定的な意味の強い非難のつぶやきを意味します。そして15章でも19章でも、徴税人/罪人と仲間となるイエスを非難する際に使われています。

アポルミは92回登場します。その意味は「壊す」「殺す」「廃れる」「滅びる」「死ぬ」「いなくなる」など広いものです。動詞アポルミは、本日の箇所のように完了分詞能動単数中性アポローロスという形をとる場合、4回しか登場しません。そしてその4回は、一匹の羊の譬え話(マタイ1811節、ルカ1546節)と、ザアカイ物語(ルカ1910節)に集中しています。

この譬え話を徴税人ザアカイの物語と重ね合わせて読むことは、ルカ福音書そのものからの要請です。ザアカイの物語においても、イエスはザアカイの近所の者たちから非難を浴びました。15章は、ファリサイ派の指導者の自宅で食事をし(14124節)、そこから出てきたばかりという場面ですから(同2534節)、ファリサイ派の人々や、その律法学者たちが近所に大勢いたのでしょう。そこに同じ町の近所の徴税人たち、罪人と呼ばれていた人たちが集まってきました。イエスを自宅に迎え食事を共にしようとしていたのだと思います。ファリサイ派と徴税人は同じ場所にいることが困難な対立する人々です(18914節)。ファリサイ派の人々と一緒に食事をしたばかりのイエスが、同じ町の徴税人や罪人たちとも一緒に食事をしようとしていることが、咎められています(52732節も参照)。

ファリサイ派から見ると、イエスを自分たちだけの仲間としたいでしょう。ましてや、ファリサイ派の律法学者たちが、「あの人々は罪人だ」と判定している人々と、イエスが仲間となることは自分たちに対する対立行動のように思えるのです。ここで言う罪人は、刑法上の「犯罪人」という意味ではありません。むしろ、律法を守ることができない人々という意味の宗教上の「罪人」です。その典型例に徴税人がいました。ローマ帝国の通行税等を徴収するユダヤ人のことです。

旧約聖書の時代に徴税人という職業はありませんでしたから、旧約聖書に「徴税人」の浄/不浄についての規定はありません。律法学者たちは、律法のグレーゾーンを明確にする仕事を担っていました。彼らは自分たちの解釈をまとめあげた「口伝律法」(ミシュナー。紀元後2世紀に完成)というものを作成していきます。その中では、「汚れた存在である非ユダヤ人(ローマ人)と日常的に接する、ローマ帝国の下請け徴税人は宗教的に汚れる。徴税人の家に入った者は一日中汚れる」という内容の規定が盛り込まれました。職業差別を宗教が強化するという図がありました。これが連帯感を削いでいました。

罪人と呼ばれた徴税人が譬え話中の「一匹の見失った滅び行く羊」です。ファリサイ派とその律法学者たちが「九十九匹の荒野に置き去りにされた羊」です。見つけ出し救い出す羊飼いは、神を指します。この譬え話の実例が、イエスによる金持ちの徴税人ザアカイ家訪問です。

ここで「罪」「悔い改め」「見失われる」とは何であるのか、掘り下げて考えてみましょう。徴税人にとっての罪というものは、徴税人個人の悪行ではありません。ザアカイでさえ不正な取立てをしていたとは明記されていません。「もしも誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(198節)という仮定条件をザアカイは述べているだけです。その職業に就いて仕事をしているというだけで、「罪有り」と判定されてしまう。ここが要点です。しかも、ここには貧富の問題はありません。金持ちであっても「罪有り」とされてしまうのです。これは社会が作り出して個人に負わせている「架空の罪」です。このような「罪」なんぞというものはそもそも無いのです。

一匹の羊は、何も回心していません。自分の行いが悪かったと後悔して、本心に立ち返って羊飼いのもとに戻ろうとしていません。放蕩息子とは異なります。そうではなく、羊飼いが決断して、一匹の羊を探し出すのです。言えば、「神の悔い改め(考え方の変更)」がここにあります。ザアカイもイエスに会おうとまでは思っていませんでした。イエスがザアカイを見つけて、訪ねたのでした。この無条件の愛を受けて、ザアカイは生き方の変更に導かれます。

一匹を救い出す際に羊飼いは九十九匹を荒野に放置します。一人の人イエスは、徴税人の家とファリサイ派の家の客に、同時にはなりえません。どちらかを放置せざるをえません。そして、福音書のイエスは罪人と呼ばれる人々の家の客となる回数の方が多いのです。イエスは社会の多数派・大きな力を持つ人ではなく、少数派・小さくされている人を優先して訪れました。

先ほどギリシャ語アポルミが、「壊す/殺す/廃れる/滅びる/死ぬ/いなくなる」などの意味を持つことを申し上げました。ギリシャ語からさらに遡ってイエスの使用した言語であるアラム語やヘブライ語では、アバドという動詞が用いられ、それがアポルミと翻訳されたと推測できます。アバドの第一の意味は「滅びる」です(申命記265節等参照)。

つまりマタイが語るように一匹の羊は迷い出た(マタイ1812節)のではありません。それでは羊の責任になってしまいます。ルカが正しく元々のイエスの言葉を伝えています。羊は社会で疎外されている滅び行く存在の譬えなのです。その責任は九十九匹にあります。ファリサイ派が口伝律法の作成と旧約聖書の解釈によって罪人を生産しているからです。

一匹が滅び行く状態になったのは、多数派・権力者・九十九匹のせいでした。社会が特定の少数者を狙い撃ちして「罪有り」とし、社会の中で暮らしにくく、小さく貶めているのです。羊飼いは、滅び行く一匹と同じ境遇に九十九匹を置きます。それによって九十九匹に連帯感を植え付けようとします。新共同訳は「野原」(4節)という牧歌的な言葉を選んでいますが、34節と同じく「荒野」と翻訳すべきでしょう(マタイ1812節は「山」)。羊は数の多少に関係なく羊飼い無しに荒野で生きることはできません。

羊飼いが一匹を探している期間は、百匹全体が滅び行く状態に置かれます。そして最も苦労を負わされた一匹の羊がまず救いにあずかります。羊飼いが群れに帰ってくるまでの期間は一匹だけが救われており、九十九匹は失われ滅びつつあります。一匹が九十九匹と合流した時点で全体が救われます。

合流した後も、羊飼いは一匹だけを担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めてパーティーを開きます(56節)。「この一匹を見よ」と羊飼いは依怙贔屓します。まるで九十九匹の羊はいないかのような扱いになっています。一匹の羊への偏愛は、「本当に悔い改めが必要なのは九十九匹の羊の方である」ということを、回りくどく言っています(7節)。神の依怙贔屓を前にして、九十九匹は不平を言うのではなく、一匹の苦労を自分の苦労とするべきです。それが悔い改めです。

神は世界全体の救いを常に考えています。しかし、その実現はこの世界で最も小さくされている人の救いによって始まります。それによって大多数の人々が自分の罪に気づき悔い改め滅亡の淵から救い出されるからです。

一匹の羊の苦労は、カナリアの鳴き声のようなものです。社会の腐敗と崩壊、滅亡に対する警告として、「見失われた羊」は象徴的です。もしも一匹の羊の滅亡に無頓着であるならば、そのような社会全体も滅亡していくということです。徴税人が負わされた苦労を、「自分は徴税人ではないから関係ない」と考えるならば、同じように差別され貶められ、社会から抹殺されていくのです。そしてそのような社会は、それ自体で現に滅亡しつつある駄目な交わりです。

外国人が暮らしやすい社会は日本人も暮らしやすい社会です。「障害者トイレ」という呼び名が「誰でもトイレ」になり、ユニバーサルデザインという言い方も普及しています。一つの人権侵害に対して、集中して解決しようとする時に、より広い課題にも対応できる場合があります。

今日の小さな生き方の提案は、社会の中に「一匹の羊」を見出すことです。「あの連中には不利益は当たり前」と言われている人々を見出すことです。スケープゴートにしてはいけません。「イスラム教徒(テロリスト)」「北朝鮮」「外国人」「障害をもつ人」「性的少数者」等たくさんのレッテルがあります。わたしたちは現代版律法学者です。たった一つの差別の黙認、一人の人の存在を消し、尊厳を無視することは、世界全体の滅亡を進めていきます。自分自身が悔い改める必要を認め、共に喜ぶ社会を創り出しましょう。