ルベンからユダまで 創世記49章1-12節 2020年7月12日礼拝説教

1 そしてヤコブは彼の息子たちを呼び、言った。「あなたたちは集まれ。そうすれば私はあなたたちのために告げる、彼があなたたちを後の日々に呼ぶために。 2 あなたたちは集合し、聞け、ヤコブの息子たちよ、聞け、あなたたちの父イスラエルに向かって。

 本日の箇所は「ヤコブの祝福」と呼ばれます。しかし内容を見ると、祝福というよりは預言です。遺言として詩の形式をとって、この後の十二部族の歩みを予告するという言葉です。実際、およそ祝福とは言えない呪いの言葉すらあります。創世記49章の「ヤコブの預言」と申命記33章の「モーセの祝福」はよく似ています。これも詩の形式をとった、諸部族に対するモーセの遺言です。こちらが祝福という名前にふさわしい内容の遺言なので、モーセの祝福に引きづられて「ヤコブの祝福」と呼び慣わしているのでしょう。本日は、モーセの祝福も参考にしながら、ヤコブの預言について考えていきます。それは神が呼び集める礼拝共同体/会衆(イスラエルや教会)にとっての教訓です。

 本日はレアの最初の四人の息子たちです。生まれた順番になっています。モーセの祝福においては、長男ルベンの後に四男ユダが置かれています(申命記33章4-5節)。モーセの時代まで下がると、ユダ部族の地位が二位にまで上がっていることが分かります。全体を見て読み取れることは、この後の歴史でユダ部族が、レビ部族やシメオン部族を抜かし、さらにルベン部族を追い落とし、実質的な長男の位置にのし上がるだろうということです。

3 私の長男はルベン。あなたは私の強さ、また私の勢力の初め。尊厳の至高、また力の至高。 4 衝動は水のよう。あなたは高みに立つな。なぜならあなたがあなたの父の寝台に上ったからだ。その時あなたは汚した。彼は私の寝床(に)上った。

 まずはルベンへの言葉です。ヤコブは自分の妻であるビルハと性交渉をしたルベンの罪を決して忘れていません(35章22節)。寝台に上った(アラー)ゆえに、高みに立つなと戒められます(4節)。長男であるという至高の地位は、それだけで安泰なのではありません(3節)。家父長制を基盤にしている社会では、長男の地位は磐石でしょう。しかし少なくともイスラエルにおいては、初めて生まれた男の子であることは、父の財産をすべて相続することを約束しません。それは教会においてもあてはまります。

 モーセの祝福を見ると、ルベンについては冒頭に置かれているものの、中身は非常に薄いものです(申命記33章7節)。創世記においてはある程度活躍したルベンが(37章)、申命記の時点ではかなり力の弱い部族に落ちぶれていたようです。この後も、ルベン部族はヨルダン川を渡らない等、十二部族の中で冴えない位置にとどまります。高ぶる者が低みに叩き落とされるという真理は、ルベンにおいて実現しています。ルベンの高ぶりは女性差別という形で現れ、それに対して歴史の審判が下ったということです。

5 シメオンとレビは兄弟たち。彼らの(鋤状の)武器は暴力の器。 6 あなたは彼らの謀議に入るな、私の全存在よ。あなたは彼らの会衆に連なるな、私の栄光よ。なぜなら彼らの鼻(怒り)でもって彼らは人を虐殺したからだ。また彼らの欲求でもって彼らは雄牛の筋を切ったからだ。 7 彼らの鼻(怒り)は呪われ続けている。なぜなら激しいからだ。彼らの激怒は(呪われ続けている)。なぜならそれが厳しかったからだ。私は彼らをヤコブの中で分ける。また私は彼らをイスラエルの中で散らす。

 この箇所は34章のシケムの虐殺事件と対応しています。妹ディナが性暴力被害に遭ったことの報復として、シメオンとレビは報復を行い、加害者シケムだけではなくシケムの町の住民を大量虐殺し略奪をしました。ヤコブはこの悲劇も忘れていません。ルベンの罪が裁かれたのと同様に、シメオンとレビの罪もまた神は裁きます。驚くべきことに、「呪われ続けている」(アルル)という強い言葉すら用いられています。これは罰則に使われる法律用語です。

「(鋤状の)武器」(5節)は、刺叉のような武器かもしれません。先が二つに分かれた槍のような武器によって、二人組を表現しているように思えます。次男と三男は個別に扱われないことも「レアの最初の四人息子」の頂点と目標がユダであることを示しています。

モーセの祝福においては、シメオンは言及すらされません。その一方でレビに対しては賞賛の言葉が長々と続きます(申命記33章8-11節)。この明暗は、二つの部族の散らされ方と関係があります。7節後半にあるように、シメオン部族もレビ部族もイスラエルの中で分けられ散らされ、特定の土地を相続することはありませんでした。ユダの南隣のシメオン部族は、ユダ部族の中に吸収合併されました(ヨシュア記19章9節)。南はユダ一強です。

それに対してレビ部族は、シケム事件にもかかわらず特別な地位を得ます。モーセに従順だったという功績によってレビ部族の株が上がったからです(出エジプト記32章)。イスラエル全体の中で「祭司の部族」とされ、祭儀全般を取り扱うという特権が許されます。宗教者は奉献物を食べるという特権を得ます。また宗教的権威という権力も得ます。「だから土地までは与えない」というバランス感覚によってレビ部族には相続地が与えられません。居住できる町が指定されます(ヨシュア記21章)。こういう形で散らされるのです。罰として散らされた面と、使命として散らされた面とがレビ部族にはあります。

虐殺の現場だったシケムという町が、レビ部族の居住地の一つに指定されていることは注目に値します。そこは「逃れの町」の一つでもあります(ヨシュア記20章7節・21章21節)。イスラエルでは殺害を犯した人が、報復で殺されないために匿われ守られました。私刑と報復の連鎖に歯止めをかけるための制度です。シケム事件を歴史の教訓として二度と起こさない工夫です。レビの子孫は加害の罪を告白する宗教者として、殺害者を匿うという使命を負います。

宗教は権威となり権力を伴って人々を害することがあります。そのようなとき、主の「栄光」はイスラエルを去ります(6節)。その一方で神のみを権威とする宗教は権力を批判することもできます。ヤコブに呪われモーセに祝されたレビを見るとき、私たちは両面を見なくてはいけないと思います。

宗教者がハンセン病患者や非ユダヤ人や性暴力被害者を、「宗教的に汚れている」と烙印を押すときに、宗教は人の魂を切り刻む武器となります。宗教団体が国家と癒着する時に、国策に宗教上の権威を与えます。靖国神社の問題です。しかしそれと同時に、多くの宗教者が神信仰を原動力に、さまざまな差別に反対したり、自らの信仰の自由や政教分離原則を希求したりしています。宗教は正負両方向に対する力を持っています。

教会はレビ部族の二面性を持った団体です。教会の中でも酷い出来事(暴力や謀議)は起こりえます。人間臭い集団に、さらに宗教的な臭いがつくと最悪です。しかし神は教会にこそ、罰および恵みとして仕事を与えています。レビ人として礼拝を絶やさないことです。その礼拝は誰からも受けいられない人の逃れの町でなくてはならないでしょう。

8 あなたはユダ。あなたの兄弟たちはあなたを称える〔ヨドゥ〕。あなたの手はあなたの敵の首の中に。あなたの父の息子たちはあなたを礼拝する。 9 ユダは雄獅子の仔。獲物により――私の息子よ――あなたは上った。彼はかがみ彼は伏せた、雄獅子のように、また雌獅子のように。誰が彼を起こすのか。 10 王笏はユダから離れない。王杖は彼の足の間から(離れない)。王杖が彼に属している、その者が来るときまで。そして諸々の民の従順が彼に属する。 11 (彼は)ぶどうの木に彼の仔ロバ(を)結んでいる。また良いぶどうの木に彼の雌ロバの息子たちを(結んでいる)。彼はぶどう酒でもって彼の服を洗った。そしてぶどうの実の血でもって彼の着物(を洗った)。 12 ぶどう酒より両目は深い。また乳より歯は白い」。

 モーセの祝福においてもユダは短く賛美祝福されています(申命記33章7節)。8節はユダの名前の語呂合わせです(29章35節)。さらに「手」〔ヤド〕という単語も掛けています。「あなたの兄弟たち」と「あなたの父の息子たち」は同義語。「称える」ことと「礼拝する」ことも同義です。神礼拝の中心は、神への賛美です。私たちの礼拝も賛美を重視すべきです。

 9節は動物界の王である獅子にユダを譬えています。獅子=王という連想から、10節のダビデ王朝についての預言が続きます。10節は、ダビデ王朝が永遠に続くという約束(シオン契約:旧約)と呼応しています(サムエル記下7章)。11節は手綱を結べるほど太くなったぶどうの木、それだからこそたくさんの実を結んでいるぶどうの木の様子を語っています。ユダ部族の繁栄を預言しているのです。服の洗濯に使えるほどの大量のぶどう酒ができたと。12節はユダという人物の健康さを称えています。上の三人への呪いと好対照です。ヤコブにとって、ユダはそれほどに評価が高い人物です。ヨセフ、シメオン、ベニヤミンの命を救い、一族全体に責任を負う行動を貫いたからです。

 難問は10節「シロが来る」の解釈/翻訳です。ユダヤ人たちはこの箇所からメシアの名前はシロであると解します。あるいはシロをシェロモ(ソロモン)と読み替えるべきとの学説もあります。シロは地名なので、「彼がシロに来る」とも解せます。しかしシロはユダ部族と関係がないエフライムの町です。人名説、地名説どちらも一長一短です。そこで本日は、シロを分解して関係代名詞Sheと「彼に属する」LWの組み合わせと解します。つまり「王杖の真の所有者(神)が来るまで、ユダ部族の王朝が続くのだ」という預言と理解します。

 ユダへのほめたたえは、キリストのイメージと重なります。イエスは深い眼差しをもって民と向き合い、白い歯を見せて談笑しました。大酒飲みの大飯食らいです。「神の国につながろう」と言って、自らをぶどうの木、人々をその枝と呼びました。イエスはダビデの町エルサレムに繋がれていたろばの手綱を解いで入城しました。それは王杖の真の所有者が来るという出来事でした。王座は十字架という最も低い場所でした。そして十字架の血で全世界の罪を洗いました。私たちはそのキリストを着るのです。十字架で横死した獅子を、誰が起こせたのでしょうか。神だけです。キリストは神に起こされよみがえらされ、永遠の命を配りました。こうして旧約聖書を超えて、新約聖書においてヤコブの預言が実現しました。北の諸部族はガリラヤ・ナザレのイエスを指し示し、南のユダはエルサレムで殺され復活したキリストを指し示しています。

 今日の小さな生き方の提案は、ヤコブの預言に「アーメン、その通り」と相槌を打つことです。神は暴力や差別を許さない義なる方です。神は私たち一人ひとりの生活に責任を負い、私たちを背負って下さる方です。神は私たちを庇い、私たちの命を救って下さる方です。神の王笏/王杖は羊飼いの杖、私たちはその羊です。主はぶどうの木、私たちはその枝です。イエス・キリストを通して、義と愛の神がこの地上に来ました。この方を信じて、この方を褒め称える礼拝に連なり続けましょう。そして逃れの町を形作りましょう。