レアとラケル 創世記29章14節後半-30節 2019年5月5日礼拝説教

ヤコブはラバンの家で一ヶ月過ごしました(14節)。おそらくその間、一緒にラバンの家畜の世話をしたのです。居候ですから当然ただ働きです。共に働く中で伯父ラバンは甥ヤコブが優秀な羊飼いであることを認めました。「そして、ラバンはヤコブに言った。『お前がわたしの兄弟(親族)であるから、無償でお前が私に仕えるべきか(いや、そうではない)。お前は私に告げよ。何があなたの労賃か』」(15節)。

ヤコブは自分の労働に見合った報酬について考えます。男性優位の世界です。女性には職業が割り当てられないので、経済力がありません。父/夫/息子の所有物として保護されることが当たり前でした。男性たちは女性たちを所有物とみなしています。伯父ラバンの所有である従姉妹のラケルを労働の報酬として自分所有にしたいとヤコブは考えました。

「そしてラバンに属する二人の娘たち。大きい方の名前はレア(雌牛の意)。そして小さい方の名前はラケル(雌羊の意)。そしてレアの両眼は弱い。そしてラケルの姿は美しく、また見た目は美しかった」(16-17節)。実はラバンにはラケルの他にも娘がいたということを読者は初めて知らされます。姉のレアです。二人の名前はいかにも羊飼いの娘の名前です。また、「雌牛」「雌羊」という家畜の名前であることは、娘たちが父の所有物であることも印象づけています。ヤコブの眼中にはラケルしかいません。なぜでしょうか。

レアが両目にしょうがいを負っていたからではないか。レアの目の特徴は、「優しい/柔らかい」とも、「弱い/悪い」とも訳せます(ヘブライ語ラク)。最古の翻訳であるギリシャ語訳は「弱い」を採っているので(新改訳他も)、否定的な意味で「弱い/悪い」と考えます。同じヤコブ物語の中でラクは「弱い」という意味で用いられています(33章13節)。これも「弱い/悪い」という翻訳を採る根拠となります。レアの両眼が弱かった/悪かったという解釈/翻訳によって、聖書の読み方が広がります。いわゆる「障害者の神学」が立ち現れます。神は抑圧された者の神です。もしレアが何らかの先天的なしょうがいによって、社会の中で肩身の狭い思いをさせられていたならば、神は降りて来てレアを救い出す方です。

なぜヤコブが最初に出会ったのは羊飼いラケルだったのか(9節)。レアではなかったのか。レアが見えないために羊の世話ができなかったからではないでしょうか。なぜ地元の羊飼いたちはレアではなくラケルが来ることを大前提にしていたのでしょうか(6節)。彼らはレアが羊の世話をすることがないということを知っています。ラケルは走ることができますが(12節)、レアはできません。こうしてレアは物語から隠されていました。それは多くの障碍者が世間から隠されているのと似ています。

ヤコブは健常者であり能力主義者です。同じ仕事仲間の従姉妹ラケルを愛します。ラケルの容貌はとても美しかったようです。聖書は人間の外貌をあまり伝えません。イエスの顔ですらわたしたちは知りません。ラケルについて、「美しい」という単語が二回使われるのは珍しいことです。つまりヤコブは能力と見た目で(当時の基準の「美しさ」に従って)妹のラケルを選び、姉のレアを選ばなかったのです。ここには恋愛の相性というだけではすまされない課題があります。見た目で人を判断する偏見や、能力主義が見え隠れしています。

「私は七年あなたに仕える。あなたの小さい娘ラケルによって」。ラケルの存在がヤコブのただ働きの原動力です。ラケルの利益のためとは書いていません。ラケルはヤコブの労賃でしかありません。

ヤコブは自分から相当長い期間である七年という労働期間を申し出ます。そこには計算がありました。七年経てば兄エサウの怒りも収まるのではないか。母リベカから呼び戻されるのではないか。その時ラケルと一緒に帰ることができたら最高です。しかしこの目算は外れます。もしかすると母リベカはこの七年の間に死んでいたのかもしれないからです。また伯父ラバンの計算の方がヤコブの計算よりも勝っていることがこの後に分かります。

「私がお前に彼女を与えることは、私が彼女を他の男性に与えることより良い。お前は私と共に住め」(18-19節)。二人の男性は、ラケルの人生を勝手に決めています。女性の側に婚姻に関する自己決定権がありません。憲法24条、「婚姻は両性の合意のみによる」とは、完全に逆の世界です。それを今日真似る必要はありません。

ヤコブの計算も知り尽くした上でラバンは、自分の利益を図ることを始めます。ヤコブのラケルに対する恋愛感情を利用して、無償の労働力を七年といわず十四年得ようというのです。ただしラバンの悪巧みには、もう一つの筋書きもくっついていました。上の娘レアの救済です。彼女の利益も図る。これもラバンの計算の一部です。そのためには地元ハランの全住民の協力が必要でした。

 「そしてヤコブはラケルによって七年仕えた。そしてそれらは彼の目にわずかな日々のようだった。彼が彼女を愛していたので。そしてヤコブはラバンに言った。『あなたは私の妻をください。なぜなら私の日々が満ちたのだから。そして私は彼女のところに入りたい』」(20-21節)。この七年でヤコブは既にラケルを自分の妻とみなしています。この辺りにヤコブの前のめりが見えます。彼はラケルしか見ていません。レアは視界の外の存在なのです。ヤコブと対照的に、ラバンは二人の娘に常に目を注いでいました。

 ラバンは地元の全住民を招いて盛大な結婚披露宴を設けます(22節)。「そして夕方になった。そして彼(ラバン)は彼の娘レアを取った。そして彼は彼女を彼(ヤコブ)のところに連れて行った。そして彼は彼女のところに入った」(23節)。この場面もレアの視力の弱さを示唆しています。夕方であるにもかかわらず、レアは自力でヤコブの天幕に行けません。父ラバンは娘の手をとって連れて行きます。「そして朝になった。そして見よ、彼女はレア」(25節)。

ヤコブは怒ります。「何ですかこれは、あなたが私にしたことは。ラケルによって私はあなたと共に働いたのではないですか。そしてなぜあなたは私を騙したのですか」(25節)。「我々の地元ではこのように些少な女性を長女の前に与えることはしない。お前は彼女(レア)の一週間を満たせ。そうすれば我々は彼女(ラケル)もお前に与えよう。お前が私と共にさらに他の七年働く、その労働によって」(26節)。

ヤコブは七年と一ヶ月ハランに住んでいます。ハランの習慣で長女が先に結婚することを知らないわけはありません。しかし彼はレアにその適用はないと考えました。目の弱いレアには長女の価値が無いと勝手に判断したからです。エサウから長男の権限を奪い取ったヤコブには、ラケルこそが長女の権限を持つべきだと考えたのでしょう。ハランの人々はラバンに加担します。彼らの目にはラバンの騙しは悪事とも言えません。ラバンはハランの法に則っているし、ヤコブが法を無視しているからです。彼らはレアの境遇に同情もしています。当時女性にとっての結婚は生活保護の一種だったのです。レアが目の障害のために保護されないことは不正義です。もちろん現代人の考えからすれば、ラバンやハランの住民は、レアに対しても強引すぎますが。

ハランの住民は多分結婚披露宴の時に、ヤコブの前では、ヤコブとラケルが結婚するかのように演じていたのでしょう。ヤコブだけが、それを知りません。目の見えない父親イサクを騙したヤコブが、今度は目の見えない娘を持つ伯父ラバンに騙されます。人の弱さにつけ込む悪事を行なう者が、ここで皮肉な仕方で裁かれています。報復は神がすることです。誰も目の見えない人の前にわざと障害物を置いて転ばせてはいけないのです。

ラバンは「我々がラケルも与える」(27節。新共同訳は訳出せず)と言っています。一連のラバンの娘たちの結婚はハランの住民の意思です。ヤコブは一言もありません。ラバンは予めラケルをも説得していたのでしょう。レアとほぼ同時に一週間遅れでヤコブと結婚させると、ラバンはラケルに告げていたはずです。一夫多妻が当たり前だった当時、それを批判する力はラケルにありませんでした。そして家父長制のもと、父親に逆らうことをラケルはこの時できませんでした。地元の羊飼い組合も強力な権力を持っています。ラケルの父に対する復讐は後日別の仕方で行なわれます(31章)。

ラバンの策略を克服する道として、ヤコブには他の選択肢がありました。たとえば、両親にならって一夫一婦制を選ぶ道です。レアかラケルを選ぶ。レアを選べばハランに住み続けることが容易です。ラケルを選べば駆け落ちしかないでしょう。6日間で、決めなくてはいけません。悩みつつヤコブはラバンの言う通り、レアとの結婚披露宴の一週間を過ごし、その後にラケルをも妻とします。葛藤の多い一夫多妻の道を選んでしまう。なぜなら駆け落ちをしても帰る場所もないからです。ヤコブにとっては初めての敗北経験です。

「そしてヤコブはそのように行った。そして彼は彼女の一週間を満たした。そして彼(ラバン)は彼にラケル・彼の娘を与えた。彼に属する妻に」(28節)。「そして彼はラケルのところにも入った。そして彼はラケルを愛した、レアよりも。そして彼はさらに他の七年彼(ラバン)と共に働いた」(30節)。ラケルとヤコブの結婚披露宴の一週間はありませんでした。この経緯では、行えないでしょう。ラケルは次女であるという理由で不当に扱われています。

30節の「」は、微妙な含みを物語に与えています。ヤコブがレアを愛しているという可能性です。今まで眼中になかった人物レアと、ヤコブは一週間人格として向き合いました。相手も同じ人間だということを知ったのです。もちろん重婚や不倫を勧めるわけではありませんが、差別や偏見を乗り越える一つの例としてヤコブとレアの結婚を考えても良いでしょう。ヤコブは悔い改め、レアを認め、彼女を尊重するようになります。

物語は人生には思い通りにいかないことがあることを教えています。完璧な人ヤコブは騙されて「上には上がいる」と知らされ挫折します。レアとラケルは父や地元住民によって人生を決定されます。わたしたちが学ぶべきことは、二つのことに対する批判です。個人について言えば能力主義についての批判、個々人を能力によって差別する考え方への批判です。差別意識の中で能力差別は最も克服しにくい主観です。社会全体について言えば、性差別を温存する仕組みへの批判です。一夫多妻制もその一つですが、形を変えて現代でもレアとラケルは存在しています。東京医科大学受験事件は氷山の一角に過ぎません。

今日の小さな生き方の提案は、神が個人として各人を尊重し愛していることを知ることです。できる/できないは関係ありません。性別や国籍、出身、経済力も関係ありません。もしも、この原理を脅かす仕組みがあるならば、それを改善していく必要があります。罪人の集まりである限り人間の社会には必ず欠けがあります。だからこれは不断の努力を要します。自分ができると思っている人は様々な人と出会うべきです。自分ができないと思っている人は、神はそのようなあなたの神であるということを知るべきです。