三度目のエルサレム訪問 ヨハネによる福音書7章10-24節 2013年10月13日礼拝説教

ヨハネ福音書においてイエスは何度もエルサレムを訪れます。すでに二回が行われ(2:13、5:1)、今日の聖句で三度目のエルサレム訪問となります(7:10)。その趣旨はサマリア人との近さを表すためでしょう。ガリラヤ地方とユダヤ地方を最短距離で往復するにはサマリア地方を通ります。そこに定住の弟子が居て毎回宿泊できること、そしてイエス一行にサマリア人の弟子がいたことを、アピールするためにヨハネ福音書のイエス一行は何回もエルサレムに上ります。

この三度目の訪問は前回の箇所との関係で一つの問題をはらんでいます。前回、エルサレムに行かないと言ったイエスが、その直後隠れてエルサレムに行ったということを(10節)、どのように考えるべきなのでしょうか。二つの可能性があります。元々行く気があったという可能性と、元々は行く気が無かったけれども気が変わって行く気になったという可能性です。

おそらく気が変わったのだと思います。「ここで殺されるわけにはいかない」(=「わたしの時はまだ来ていない」)と思って行かなかった(1節)という理由はイエスにとっては大きいものでした。イエスは自分の殺される時期を仮庵祭(10月ごろ)ではなく過越祭の時期(3-4月)と定めていたのです。過越祭で殺される羊と自分の十字架を重ねて理解していたからです。元々は行く気が無かったのでしょう。しかし逆に、もし三度目のエルサレム訪問で殺されないならば、行っても構わないということでもあります。先週お話した弟たちの言うような理由には反対だけれども、殺されないようにしてエルサレムで活動することそのものは悪くないと考えなおしたのでしょう。

聖書の神は気が変わることのある神です。きれいな言葉で言えばそれは「神の自由」というものです。旧約聖書以来、ご自分の創造した世界のあまりの悪さに後悔をして世界を滅ぼそうとしたり、結果のひどさを見て今度は二度と滅ぼさないと気持ちを変えたり、人間との話し合いの結果考えを変えたり、自由に植え、自由に抜き、自由に蒔き、自由に刈り取る方です。「わたしはある」という方は、「わたしはなりたいものになる(I will become who I will become出3:14)」という方です。

こういうわけでイエスは自由に心変わりをしてエルサレムに行きました。9:2で弟子たちも登場しますから、「人目を避け、隠れるようにして」ではあっても、数少なくなった弟子たちと一緒に行ったと思われます。そして滞在中はすでに弟子となっていたエルサレム在住のニコデモらの家に滞在していたのでしょう(3:1‐15、7:50-52参照)。

ほどなくイエスがエルサレムに居ることが噂されます(12-13節)。その後イエスはかなり目立つ場所で独自の聖書解釈を人々に教え始めます(14-15節)。ということは、この第三回目のエルサレム訪問の目的は、殺されないかたちで論敵である「ユダヤ人」と聖書の読み方をめぐって論争をするということだと分かります。ちなみにヨハネ福音書の「ユダヤ人」には二種類あり、原文ではイエスの論敵であり権力側にいたユダヤ人には、必ず定冠詞が付けられています。今日の箇所もすべて定冠詞付きのユダヤ人です(11・13・15節)。訪問目的は離散した弟子たちをもう一度集めるということではなく(3節参照)、権力側にいるユダヤ人と論争することにあります。このような大枠、物語の文脈を頭に置きながら、今日の論争箇所について説明をいたします。この話は旧約聖書の出来事を前提にしています。割礼と十戒です。

神さまはアブラハム・サラとご自分との間に契約を結びました。子孫のないままに死んでいく可能性が高かった老夫婦に、約束の土地と子孫の繁栄を与えるという神さまの約束のしるしは割礼でした。男性の性器の一部を切り取る通過儀礼です。いのちの主がお家断絶を前にした老夫婦に赤ん坊を与えるという奇跡によってイスラエルという民は始まったのだということを、イスラエルの人々は割礼を見る度に思い出さなくてはいけません。割礼は救いの契約のしるしです。嘆きを笑いに変えてくださったいのちの主を覚えるためのものです。

神さまはモーセを通してイスラエルの民とご自分との間に契約を結びました。奴隷として苦しめられていたイスラエルを自由の民として解放し、自由に生きる権利を保証し礼拝する自由を保証し、さらに民を約束の地に入れさせてあげるという神さまの約束のしるしは十戒を冒頭に掲げる律法でした。その十戒の中に「安息日を守ること」「父と母を敬うこと」「殺してはならない」があります。いのちを救われた者たちは、いのちの主を愛し、人のいのちを尊重するという礼拝者の生き方に押し出されます。安息日の礼拝ごとに神を愛しながら、礼拝者は自分が隣人を愛しているか、父母として尊重しているか、隣人を殺していないかを点検しなくてはいけません。割礼と十戒についての今の説明を頭において、イエスと論敵との間の論争を読み解いていきましょう。

イエスの論敵は、安息日に病人を治療することは律法違反であると主張しています。21節のイエスが行った「一つの業(労働)」は、5:1‐18のベトザタの池の病人を治療した労働のことです。23節で、「わたしが安息日に全身をいやした」と言っていることも同じ出来事の言い直しです。

ユダヤ人たちは十戒の第四戒にある「安息日を守ること/聖とすること。いかなる労働もしないように」を具体的な生活で何をなすこと/何をなさないことかを厳密に解釈していました。安息日には礼拝をするべきだということに異論はありません。問題は何が「いかなる労働も」に当たるかです。800メートル以上歩くことは労働に当たるとされました。だから礼拝堂を近所にたくさん設けることにしました。調理は労働に当たるとされました。だから安息日に調理しなくて済むように前日までに済ませておくことにしました。当然に職業的な労働や、特に道具を用いて作業することが労働に当たるとされました。医者の治療行為は労働に当たるのです。

イエスが病人を治療した行為は労働行為であり、安息日の律法を違反している、十戒という律法の中の最重要な戒めを破っている、だから問題だと、権力を振るうユダヤ人は難じました。

それに対してイエスはあなたたちの方が十戒を違反していると反論しています。なぜかと言えば、自分を殺そうとしているのだから、十戒の第六戒「殺してはならない」に違反していると言うのです(19節)。群衆はとぼけたことを言います。「誰があなたを殺そうというのか」(20節)。12-13節にあるように、群衆は権力者たちがイエスを殺そうとしていることを知っています。知っていてあえてイエス自身に、独自の聖書解釈を語らせようとして合いの手を打っています。そこでイエスは、うまい説明をして権力者たちの矛盾を突き、自分の言い分の正しさを証明します。相変わらずのこんにゃく問答なので以下に分かりやすくまとめてみます。

「家長が生後八日目の男子の包皮を専用の道具を用いて切るという行為である割礼は労働に当たる。にもかかわらず安息日と割礼を行う日が重なってしまった場合、ユダヤ社会では割礼という労働を優先するではないか。割礼の実施は安息日規定を破っている。律法と律法がかち合った場合どちらかを優先するということをわたしたちは行っているではないか。(「ある規定が別のある規定を解く」と言う。)そうだとすれば、割礼や十戒などの律法の「趣旨」と律法の「解釈」がかち合った時に、どちらを優先するかをわたしたちは決めて良いはずだ。いのちを尊重すべきという趣旨と、いかなる労働もしてはならないという文言・解釈がかち合う時、趣旨を尊重していのちを救う治療行為を優先させて何が悪いのか。だからいかなる労働もしてはならないという理由で病人を見殺しにすることは殺してはならないという律法の趣旨に違反する」。

実は原文(底本としている写本も)では、22節の冒頭に「そのために」という単語があります(本田訳、田川訳、RSV)。これは省かない方が良いでしょう。いのちを癒す治療行為を根拠づける、そのために割礼の規定があるとイエスは言いたいからです。割礼も安息日も、いのちの主を覚え、隣人のいのちを尊重するためのものなのです。ここにイエスの旧約聖書解釈の肝があります。書かれた文字ではなく、現実に生きている人や動物のいのちが大切です。いのちの尊重という視点から、書かれた文字を解釈していくべきです。文字は人を殺し、霊は人を活かします。文字面だけで判断することは、うわべだけの裁きです(24節)。そして安息日は人のいのちのためにあり、人が安息日のためにあるのではありません。趣旨にさかのぼるならば、安息日の治療行為は安息日の労働禁止規定を解くのです。

このような聖書の読み方を、イエスは「わたしをお遣わしになった方の教え」「神から出た教え」と呼びます(16-17節)。それは神の栄光を求める生き方でもあります。自分の栄誉からの教えではなく、自分の支配欲からの教えでもありません。真理と正義に立つ聖書解釈です(18節)。こういう人は、ある意味では正しく群衆を惑わす(自分の頭で聖書を解釈するように教え導き)、真の意味で「良い人」です(12節)。

「栄光」は、十戒の第五戒に動詞のかたちで登場します。「父と母を敬うこと/重んずること/尊重すること」の名詞のかたちが「栄光」です。神の栄光を求めるということは神を尊重することです。自分の栄光を求めないということは、すべての人を自分の父親や母親として、つまり隣人として尊重するということです。多分イエスは十戒の第四戒・第五戒・第六戒をここで問題にし、その趣旨にさかのぼって解釈をほどこしているのだと思います。

今日の一つの小さな生き方の提案は、共に尊重文化をつくりましょうというおすすめです。自分の栄誉を求めない、「わたしを見て」というところに立たない、少しずつでも真理を行うことを増やし、少しずつでも不義を減らしていくことです。自分を上に置くのではなく、隣人を尊重することが求められています。それは神を尊重することと直結しています。目に見え・耳で聞こえ・手で触れる目の前の隣人を尊重できない人は、神を尊重することはできません。御心を行うことができません。つまり神の意志、神からのわたしたちへの求めは隣人愛なのです。それがどんな学問よりも大事です。隣人愛こそ、もっとも聖書のことを知り抜いた人の良い行いです(15節)。

世の中にあるルールは、教会の中のルールも含め、すべてこの隣人愛という視点から読み直されなくてはいけません。もし愛があればこういうことは言わない・行わないということをいつも吟味しなくてはいけません。よくある誤解は、「神の愛とヒューマニズムは違う。だから自分が善行をしなくても神は自分を赦してくれる。だから隣人愛をしなくてもよい。隣人愛を言い募るキリスト者は間違えている」というものです。この言い方は、ヒューマニズムがキリスト教から生まれたという歴史の事実を無視しています。そして神の愛がヒューマニズムを含んでいること、両者が相反しないということを無視しています。そうして自分が隣人愛を行わないための言い訳をしています。これは今日の聖句の示すだめな聖書解釈の現代版です。趣旨と解釈がかち合った時には、趣旨を優先させるべきです。わたしたちは隣人愛・他者尊重がいのちを重んずる神の御心であると素直に解して、今週も小さな一歩を進めていきましょう。