並べて拝む 出エジプト記20章14節  2015年12月27日礼拝説教

あなたは不倫をしないだろう。(直訳風私訳)

今日は第七戒です。「姦淫してはならない」としばしば訳されている言葉です。もう少し現代風にわかりやすく訳すならば、「不倫してはならない」となりましょう。

第七戒との比較のためにレビ記20章10節(旧約194ページ)を読みます。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」

女性差別が横行していた時の法律です。既婚女性は不倫をすると死刑となる反面、既婚男性は非婚女性と不倫をしても死刑にならないという不均衡がここにあります。この性差別条文に基づいて、既婚男性たちによる買春が合法行為として容認されます。買春への抜け道をつくる一方で世間が、売春する娼婦たちを汚れた職業の者と差別することは、二重三重の不均衡です。だからイエスは娼婦たちの仲間となったのです。神の普遍的な愛は、不均衡・不平等な世界の中では偏愛(えこ贔屓)のかたちを採ります。

全体として聖書は一夫一婦制を理想としています。アブラハムは三人の妻を、そして彼の孫のヤコブは四人の妻を持っていましたが、実際、一夫多妻婚は彼らをあまり幸せにしていません。経済力のある男性が経済力のない女性を保護するために一夫多妻制を擁護する向きもありますが、そうであれば経済的不均衡の是正こそ先になされなくてはいけません。第七戒は、一夫一婦制を推進する言葉であることは、間違いないでしょう。

その上で第七戒「不倫をしない」ということも、出エジプトという文脈から読み解く必要があります。「あなたの父とあなたの母とを尊重すること」という第五戒は、あたらしい共同体の創造でした。第五戒と第七戒は関わります。ここには理想の夫婦関係が記されています。第七戒にはレビ記20章10節のような不均衡がありません。「あなたは不倫をしない」という信頼を、一対一の男女がお互いに持つように期待されているだけです。

奴隷たちは家族を形成しにくいと第五戒の際に申し上げました。そのことは、理想的な夫婦の典型例を子どもたちは知らないままに育つということでもあります。どうすれば、良い夫婦関係を持つことができるのかは、逃亡奴隷たちの緊急課題でした。一つは、お互いを親のように尊重することでしょう(第五戒)。もう一つは、お互いを信頼することでしょう(第七戒)。信頼とは裏切る自由をも認めながら、相手の良心に期待することです。裏切る自由がない信頼は、ただの茶番です。または支配・被支配の関係に過ぎません。

ちなみに最古の翻訳であるギリシャ語訳は、この第七戒を第五戒の直後につなげています。第七戒・第八戒・第六戒の順にしています。第五戒と第七戒が家族を形成するという点で共通していると考えたからでしょう。

イエスはこの第七戒にも独特の解釈を施しました。マタイ福音書5章27-28節を読みます(新約7ページ)。第六戒と同じく、心の中までも問題にしていることが分かります。十戒の中で第十戒(欲しがる)だけが心の中を問題にしていることに、イエスは問題を感じていたのでしょう。他人の妻を見る目・彼女に対する心の有り様が変われば、不倫は無くなるはずという主張です。

イエスの批判精神を汲みとるならば、「他人の妻」だけではなくすべての女性に対する視線が問題になります。いわゆる「見られる性」という役割が女性にのみ押し付けられ、性の商品化が公然となされていることが問題です。軍隊強制性奴隷制度(従軍慰安婦)など戦時性暴力ももちろんとんでもない事柄ですが、しかしそれは平時の性差別と切り離して考えることはできません。女性たちを「性的商品」として品定めすることに慣れているから、女性たちを「性欲のはけ口」として良いと開き直れるのです。

レビ記20章10節と比べて第七戒はあいまいな書き方になっています。それはわたしたちを広い解釈へと導いています。心の中の不倫をも問題にし、また、結婚歴と無関係にすべての女性たちへの蔑視をも問題にする、広い射程を第七戒においても確保すべきです。そして今日、さらに性的少数者への蔑視をも射程に含めるべきでしょう。

ここで、「姦淫」について、さらに意味を広げていきたいと思います。第七戒には、個人の人間関係における不倫だけが問題になっているのではなく、宗教的な不倫も問題になっているという拡大解釈です。それは、歴史を巨視的に見る読み方です。

「姦淫をする」(ヘブライ語ナアフ)と訳される言葉は、旧約聖書に34回登場します。その中の24回が預言書で用いられています。しかも特別な意味を込めて用いられます。それは宗教的な不倫という意味です。すなわち、主(ヤハウェ)を拝みながら、他のバアルやアシェラなどの神々を拝むことは、宗教的な不倫であるという意味で、預言者たちはナアフという動詞を用います。ホセア・エレミヤ・エゼキエルがその代表選手です(ホセア書2章4節以下、エレミヤ書3章6節以下、エゼキエル書16章、同23章など参照)。

預言者たちは一夫一婦制を前提にして、イスラエルという民は、主という神と結婚をしたのだと考えます。または、神を信じるということは、結婚することに似ていると考えています。それによって多神教信仰を批判します。より厳密に言えば、主を多神教の中の一つの神として、他の神々と並べて拝むことを批判します。そのことが、すでに結婚関係に入っている主との信頼に基づく約束を裏切ることだからです。いわゆる重婚の問題です。逆に、バアルという神のみを拝むのならば、良いかもしれません。別の神と結婚しているということだからです。バアルとも主とも同時に結婚するから、問題が起こるのです(列王記上18章21節)。

こうして第七戒は、第一戒・第二戒と深く結びつきます。「あなたにとって、わたしの面前で他の神々があるはずがない」(3節)、「あなたが自分のために像をつくるはずがない」(4節)。バアルやアシェラなどの神々は、木や石を刻んだ像・金銀の鋳像として拝まれていました。それらの神々の像の一つとして、林立する神々に並べて主という像を拝むことが、イスラエルの民の間で実際に起こっていました。

約束の地に入る前のエジプトにあっても事態は同じです。現人神ファラオを頂点に、多くの神々が崇拝されていました。その神々の中の一つとして主を拝む礼拝をヘブライ人たちが望んだならば、ファラオはすぐに承認したことでしょう。「そのような礼拝では礼拝にならない」とモーセやアロンが主張し、「三日の道のりを国外に出してほしい」などと要求するので、ファラオは反対したのです。

戦時中の日本のキリスト教会を批判したドイツの神学者・牧師がいました。ディートリヒ=ボンヘッファーです。先見の明がある人でした。誰よりも早くナチスによるユダヤ人迫害に反対し、多くのユダヤ人の亡命を助け、自分は亡命先からドイツにあえて帰国し、ヒトラー暗殺計画に加わり、逮捕され、戦争終結の直前に絞首刑で殺された人物です。ドイツ人のボンヘッファーは、当時同盟国であった日本の事情を何らかの方法で伝え聞いて知っていました。天皇を頂点とする国家神道にひざを屈め、国策である戦争に協力をする日本のキリスト教界について、1944年、獄中で彼はこう嘆きます。

「日本のキリスト者の大部分は、最近、国家の皇帝礼拝に参加することが許されていると宣言した。」(『ボンヘッファー選集9 聖書研究』1969年、新教出版、133ページ)。ボンヘッファーは他でもない十戒の第一戒の聖書研究において、この発言をしています。彼が批判するのは、「神と並んである何者かをすえることができると考えること」です。決して、「神の代わりにほかの神々を崇めるかも知れないということ」ではありません(同132ページ)。

ドイツにおいて、ヒトラーと神が並んで拝まれたように、日本においても天皇と神が並んで拝まれていることが問題であるということです。これは宗教的な重婚・不倫なのです。神ではないものを、神と並んで拝むときに、世界は破滅へと向かっていきます。

最近、NHKの「新・映像の世紀」という6回シリーズのファンになりました。10月から月に一度放映され、12月20日が第3回目でした。情報公開によって明らかにされた非公開映像の数々に、NHKが天然色をつけたり、解像度を上げる修正をしたりして、見ごたえのあるものとなっています。ヒトラーを独裁者に押し上げた要因が、さまざまに分析され興味深いものでした。その中で連合国軍が解放したユダヤ人強制収容所を一般のドイツ人に見学させるという場面がありました。さもなければ、後世、「そのような残虐行為はでっちあげだ」と言う歴史修正主義者が起こるからという理由でした。見学させられ「知らなかった」と言い訳するドイツ人に、がりがりに痩せたユダヤ人たちが「いや、あなたたちは知っていた」と怒りの声を上げたのだそうです。

ドイツの戦後と日本の戦後を分ける、一つの分水嶺がそこにあります。過去の罪悪(神ならざるものを神として並んで拝んだこと)への真摯な反省です。ナチスの戦争犯罪には時効がなく、今でもナチスを擁護・弁明する表現の自由を認めない、ドイツは「闘う民主主義」を標榜しています。「南京大虐殺・従軍慰安婦はでっちあげ」と公言しても何も問われない、ヘイトスピーチを禁止する法律がいまだに制定されていない日本との違いでもあります。他人事にしないで自分のこととして考えることが大切です。それこそ歴史を学ぶ意義でしょう。

12月16日に東京女子大学で行われた小出裕章さんの講演に心打たれました。原子力の専門家として、反原発に長年取り組んでこられた科学者です。「戦前の日本では天皇が神だったけれども、戦後はアメリカが神となった。何にも精神構造は変わっていないことが問題だ。『あの時はだまされていたのだ』と言い訳をする人も多い。だまされ続けて良いのか」という指摘にはっとしました。わたしたちはキリストを拝んでいるのでしょうか。それともアメリカを拝んでいるのでしょうか。はたまた、キリストとアメリカを拝んでいるのでしょうか。無自覚であるときにわたしたちは喜んで騙されていくのです。

出エジプトの物語において、イスラエルは宗教的不倫を犯していません。この点において民は模範生です。主に救われた者として、主のみを礼拝する者として、荒野で自由になったのです。その民に向かって主が語ります。「わたしが主・あなたの神。あなたは宗教的不倫をしないだろう」。これは褒め言葉です。褒めて育てろと言います。Good job! という言葉に励まされ・おだて上げられて自信が与えられ、自分の尊厳を確認できます。そうして人は育つのです。

今日の小さな生き方の提案は、並べて拝まなかったイスラエルの民と、並べて拝んだ罪を悔い改めたドイツの民にならうということです。