主の祈り ルカによる福音書11章1-4節 2017年6月25日礼拝説教

「主の祈り」はルカ福音書とマタイ福音書にのみ記載されています。二つの福音書に共通している文書や口伝があったと推測されます。主の祈りは口伝の段階でも各地の教会で暗唱され、必要に応じて式文化され、礼拝の中で共通の祈りとして捧げられていたように思います。

新約聖書27巻が確定するのは紀元後4世紀のことです。その後は、マタイ版主の祈りが全教会の共通の祈りとされました。この伝統に従って、わたしたちの教会でもマタイ版を用いています。キリシタン伝来の時代にも主の祈りは伝わっていますが、これもマタイ版です(1600年)。わたしたちが用いている1880年文語訳以外にも、日本キリスト教協議会統一訳、日本聖公会/ローマ・カトリック共通口語訳、教会音楽祭委員会訳などの口語訳があります。

ルカ版はマタイ版よりも祈りの言葉が短い「短形本文」です。たとえば、「天にましますわれらの」や、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」、「悪より救い出したまえ」がありません(マタイ6章9-13節参照)。祈りの長さについてはルカ版の方が元来のイエスの発言を保存していると言われます。「祈る言葉は短いほうが良い」ということは、イエスの本意でしょう。

祈りの言葉が短い一方、ルカ版は場面設定については細かくなされています(1節)。この点については「長形本文」です。主の祈りが、イエスから弟子たちに教えられた経緯や状況の説明が丁寧です。この部分はルカ教会の付け加えでしょうけれども、このこともそれ自体で大切な教えです。

わたしたちはこれまでもルカ福音書の強調点を重んじた読み解きをしてきました。今日はそれと同時に、イエスが祈りについてどのように考えていたかも探ります。マルコ・マタイに保存されている、祈りについてのイエス独特の発言にも目を配ります。ルカ教会の強調点とイエスの真意をなぞることで、より豊かな意味の広がりを獲得したいと願います。

ルカ福音書のイエスはよく祈ります(5章16節、6章12節、9章16・28節、10章21節以下、22章17節・40節以下、23章34節、24章30節)。その一方でイエスは、しばしばなされていた当時の宗教家たちの祈りについて批判をしています。最も強烈な批判がルカ福音書18章9-14節に報告されています。ファリサイ派のこれみよがしな祈り、しかも堂々と隣人を差別する長い祈りをイエスは批判し、ただ一言「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る徴税人の短い祈りを褒めました。同じような趣旨はマタイ福音書6章5-8節にもあります。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(同5節)。また、「律法学者は・・・やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(マルコ12章38-40節)ともあります。

「それならばどのようにあなたは短く祈るのか、あなたの弟子であるわたしたちは何と祈るべきなのか」(1節)。これは弟子にとって素朴な問いです。バプテスマのヨハネがどのような祈りを弟子に教えていたかは不明です。しかし、当時のユダヤ教にまで遡る「聖なるかな(カディシュ)」という祈り(の定型句)は、ユダヤ教のすべての宗派に共通していたことでしょう。イエスは、カディシュの祈りを改変しつつ、主の祈りを創始しました。「あなたならどう祈る」という問いへの答えです。

ラビのみが語るカディシュの祈りは次のような言葉です。「大いなる御名があがめられ、聖とされますように、御心のままに創造された世界にて。その御国があなたたちの生涯とあなたたちの時代において、またイスラエルの全家の命あるうちに、一刻も早く実現しますように。あなたたちは『アーメン』と言いなさい」。この祈りの言葉の中で、主の祈りに採用されたのは、「御名が聖とされますように、御国が来ますように」です。主の祈りの前半部分は、カディシュを短くしたものです。短縮は、これみよがしに長く祈ることを嫌ったイエスの姿勢に通じます。短い祈りに意味があります。神に素直に語ることの方が、人に聴かせることよりも重要だからです。

そしてイエスは神への呼びかけを短縮し、新たな呼び名を創始しました。「アッバ(お父ちゃん)」という呼びかけです(マルコ14章36節、ローマ8章15節、ガラテヤ4章6節)。「アッバ」は会堂で用いられる宗教語のヘブライ語ではなく、当時の日常語のアラム語であり、しかも幼児語です。十戒で神の名前をみだりに唱えることが禁じられているので、今でもユダヤ人たちは「御名」というように婉曲に呼びます。祈りの際に呼びかけるときは荘重に「主・われらの神・永遠の王・万軍の主・生ける神」など様々な称号を付けて呼びます。神は遠い存在です。しかし、神の子イエスにとって神は「お父ちゃん」と呼びかけるべき近い「あなた(第二者)」なのです。祈りは神の懐に入ることです。

「アッバ」に基づいて、カディシュの「御名」「その御国」が、「あなたの名前」「あなたの国」と変えられます(2節直訳)。こうして、神と人が近寄ります。人が神に祈りの中で近づいていきます。ラビ/宗教者たちだけが神を独占するのは良くないことですし、神の本意でもありません。よく考えたら宗教家が神を閉じ込め独占できるわけがないのです。神はすべての被造物を神の子として懐に抱いておられます。赤ん坊の気分で、「アッバ(お父ちゃん)」と呼ぶだけで良いのです。まったく世俗的なこの呼び名こそ、神を素直に礼拝している者の呼びかけにふさわしいものです。その時、逆説的に神の名は聖とされ、神の支配は実現しています。

主の祈りの前半はわたしたちの礼拝で使っている言葉を鋭く問い直しています。冗長な宗教用語、内輪受けの言葉となっていないかが問題です。普段の言葉で率直に呼びかけ祈り賛美し嘆くことが大切です。

主の祈りの後半はカディシュから離れた、まったく独創的な拡張部分となります。イエスは日常の食事のために祈ります。神と人が近づいているので、この祈りに実感があります。イエスの考える神は、子どもに駄々をこねられる親のような方です(11-12節)。だからわたしたちは神に、「来る日のパンを毎日ください」と祈って良いし、このような日常の求めこそ、本当の意味で敬虔な宗教的に深い祈りなのです。「必要な糧」(3節)は「来る日のパン」という意味です。来る日とは、寝る前に祈れば翌朝のパンだし、朝祈れば日中のパンのことです。それが毎日毎日当たり前のようにあってほしいという切実な願いを祈ることが求められています。

このような切実な願いを潜在的に常に抱えている貧しいやもめを食い物にしている宗教家が、美辞麗句を重ねて祈ることは偽善です。やもめが「今日のパンをください」と祈る方が真摯です。来る日のパンが確保されている者は、「わたしのパンの再配分の仕方を教えてください」と祈るべきでしょう。

次にイエスは日常の貸し借りと神に対する罪を重ねて祈ります。「負い目」(4節)は「借金」という意味です。イエスは、「なぜ人間にいさかいが絶えないのか」ということの原因を、「人間が恩知らずだから」という点に求めます。「仲間を赦さない家来の例え話」(マタイ18章21-35節)は、主の祈りの心を説明しています。一万タラントンの大借金を王さまに赦してもらった家来が、自分に百デナリオンの借金をしている仲間を赦さず厳しく取り立てるということは、人間の世界でしばしば起こっています。「人には厳しく自分に甘く」という態度はわたしたちにもよくあります。

あるいは「異なる時間働いた労働者に一律の賃金を支給したぶどう園の経営者の例え話」(マタイ20章1-16節)も示唆に富みます。長時間働いた者は短時間働いた者に対して「ずるい」と感じ、経営者に「依怙贔屓をやめよ」と抗議をします。「あの人は優遇されている」とつい思ってしまうことはわたしたちにもあるでしょう。

本来は仲間になりうる人々が、しばしば対立させられてしまうことが、日常にあります。それは弱い者がさらに弱い者を叩くという図にもなりえます。わたしたちは分断構造や対立構造にはまり込みやすいものです。イエスは日常の金銭のやりとりの現場で、このような葛藤が起こりやすいことをよく知っています。人々が徴税人を嫌う理由は、金銭のやりとりに関係するからです。

すべての人は神に対する大借金(単数の罪)を無条件に赦されています。2000年前に起こった十字架と復活は、わたしたちが生まれる前の出来事です。その事実に気づき救いを受け入れるなら、隣人の負い目は気にならなくなるはずなのです。だから順番は、「単数の罪の赦しを前提にして、わたしたちの日々犯す複数の罪を赦してください」と先に祈る。次いで「わたしたちも負い目のある人を赦しますから」と後に祈るのです。隣人に苛立つ人は、まず神を見るべきです。自分も、あなたの憎む相手も、神から見れば同じように大借金を無条件に赦された罪人に過ぎません。キリストは、自分を苛立たせている、その人のためにも十字架で殺されたのです(ローマ14章15節)。

イエスは罪を犯すという誘惑が日常にごろごろ転がっており、誰でも誘惑に取り囲まれていることをよく知っています。たとえば食べることができないものを食べ物と偽って売り、大儲けをしようとする誘惑です(4章3節)。また、たとえば地位を利用して力を濫用したがる誘惑、あるいは支配欲のために立身出世を目指す誘惑も、いつの時代にもあります(4章6節)。つまり、誘惑とは隣人の権利を侵しながら、自分の権力・権限を肥大化させるという誘惑なのです。そして「それこそが気持ち良いことなのだと思いなさい」という誘惑にわたしたちは生まれた時から死ぬまでずっと直面しています。わたしたちはこの類の誘惑に極めて弱く、鈍感なものです(22章40・46節)。

現代の世界では、この類の誘惑に基づいて行動することも、誘惑を他人に作用させることも奨励されています。テレビのスポンサーになれる大企業に重宝される広告業界は、最高の就職先です。学歴はそのための道具です。最も頭の良い人たちが、いかに他人が作ったものを売るかを一所懸命に考えていて、高給を稼いでいるわけです。誘惑は資本主義社会にとって良いことなのです。しかし、聖書の世界では不当な大儲けと支配は、神の前における罪です。わたしたちはCMを観るたびに、あるいはCMを観なくても学歴社会にいるだけで誘惑に取り囲まれています。「高給取りは長時間働いて当然」という考えにも取り囲まれているので、過労死の問題とも関わります。だから誘惑を誘惑と気づきにくいところに問題の根があります。毎週主の祈りを祈る意義は、誘惑に取り囲まれていることを意識させてもらうということなのでしょう。神を試みる(4章9-12節)、「神のいない世界」は誘惑に鈍感な世界です。

今日の小さな生き方の提案は、虚飾に気づき虚飾を脱ぎ捨てることです。短く祈ってみんなで神の懐に入ってしまいましょう。イエスのアッバである神は、わたしたちのどうしようもない部分すらご存知です。神との距離をゼロに詰め、「パンをください。パンを巡って争わないように、独占したくならないようにしてください。パンの開発や宣伝だけではなく、分け合い方を教えてください」と祈りましょう。