主の道をまっすぐにせよ ヨハネによる福音書1章19-28節 2013年4月28日礼拝説教 城倉啓牧師

先週申し上げた通り、当時のユダヤ人社会には多くの党派がありました。宗教的立場と政治的立場を合わせた教派でありかつ政党であるような集まりです。今日の箇所ではファリサイ派の人々が(24節)、エルサレムからレビ人・祭司を派遣して、ヨハネのグループに質問をしています(19節)。「あなたは、どなたですか」と。これは個人的な質問ならば失礼な問いでもあり、しかも、意味をなさない問いです。名前がヨハネであることを知っていて聞いているからです。つまりこれは宗教的・政治的質問です。ユダヤ人社会の中で、ヨハネ宗団はどの位置にいるのか、指導者ヨハネは自分を何者であると考えて活動しているのか、それはファリサイ派とどのような位置にあたるのか(対立なのか、共存できるのか)、そのことを質問しているのです。順番に沿って説明を加えていきましょう。

第一の問いは(19節)、ヨハネがメシア/キリスト/救い主であるのかという意味の質問です。ヨハネは否定します。「わたしはメシアではない」(20節)。ユダヤ人たちはメシアを待ち望んでいました。マラキ書3章19-24節を見ましょう(旧約1501ページ)。「義の太陽」というあだ名のメシアが、高慢な者・悪を行う者を滅ぼし、ユダヤ人たちを癒すことが待望されています。メシアが来る日を「主の日」と呼んでいます。

ファリサイ派も含めユダヤ人にはメシア待望がありました。ただしそのメシアのイメージには党派ごとに違いがありました。もし荒野で修道生活をしているヨハネが救い主ならば、町の中で活動していたファリサイ派にとっては大打撃です。ファリサイ派はモーセの律法を事細かに日常生活で実践することを主張していたからです。また律法に書いていないバプテスマという儀式をファリサイ派は行っていません。もしヨハネがメシアならば、その儀式を行わなくてはいけないでしょう。メシアであると信じたくないという本音が、「あなたは誰」という質問ににじんでいます。問いへの答えが否定だったのでファリサイ派は安心します。

第二の問いは、「あなたはエリヤですか」という質問です。この質問は、さきほどのマラキ書を前提にしています。主の日が来る前に、つまりメシアが来る前に預言者エリヤが再び登場するということが信じられていたのです。そしてそれは今でもユダヤ人たちの信仰の一部です。毎年の過越祭で、「エリヤの杯」がもうけられ、彼が来ることがメシアへの待望と共に期待されているからです。

ヨハネ福音書のヨハネは、この問いに否定の答えをします。マルコ・マタイ・ルカ福音書(共観福音書とも呼びます。共通する観方で書かれた福音書というほどの意味です)は、はっきりとヨハネをエリヤと同一視します(マコ9:11-13、マタ11:14、ルカ1:17)。ここにはヨハネ福音書の立場が強く表れています。

一つは、ファリサイ派も含むユダヤ人の信仰と距離を取ることです。反ユダヤ主義です。他の教会の立場と反してまでも反ユダヤ主義を打ち出すために、バプテスマのヨハネとメシアの前に来るエリヤは別人だと、だからナザレのイエスはユダヤ人の期待するメシアではない、とヨハネ福音書は言っています。わたしたちはここを強調すべきではありません(4/7説教参照)。

逆に肯定的な意味を採るべきです。エリヤに対する崇拝を止めることです。人間に上下をつくってしまうことへの警戒がここであらわされています。メシア、その下のエリヤ、その下のその他大勢という階段は、権威主義です。ヨハネ福音書は不必要にヨハネを崇めないという点で優れています。すべての人はただの人なのです。ヨハネは権威の後ろ盾なしに活動する自由人です。

第三の質問は「あなたは、あの預言者なのですか」というものです(21節)。「あの預言者」とは、申命記18章15節以下に登場する人のことです(旧約309ページ)。大まかに言えば、「モーセのような預言者」です。この人物が誰なのかということは、当時(今も)よく分かっていませんでした。ファリサイ派はモーセのような預言者の登場は待ち望んでいました。ファリサイ派は、モーセの律法を生活の中で実現したい集団だからです。ヨハネはこの質問にも否定の答えをしています。ですから、メシアでも、エリヤでも、モーセ(のような者)でもないということです。

第四の質問、「では、いったいあなたは何者なのか」(22節)。これは当然の疑問です。ここにおいて、ヨハネは自分自身で自分の立場、ユダヤ人社会の中での立ち位置を明らかにします。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(23節)。これはイザヤ書40:3の引用です。そしてこの答えは、すべての福音書に共通の考えです(マコ1:3、マタ3:3、ルカ3:4)。ヨハネは荒れ野で叫ぶ声。そしてその声の内容は、「主の道をまっすぐにせよ」という命令です。まっすぐな道をつくるという仕事を負っている人、それがバプテスマのヨハネです。そしてそこにユダヤ人社会の中のヨハネの位置があります。ヨハネ宗団の社会貢献と言っても良いでしょう。

では道をまっすぐにすることは何を意味するのでしょうか。イザヤ書40章1-5節(旧約1123ページ)において、それは低いところを高くすることを意味しました。バビロン捕囚という敗戦(前587年)、エルサレム神殿の崩壊、ダビデ王朝の滅亡を経験したユダヤ人たちは打ちひしがれていました。その民に向けて、イザヤは慰めの言葉をかけました。もうすぐ、約束の地に帰ることができる(前539年)、神さまへの謝罪と誠実な賠償の時は満了した、谷はすべて身を起こせ、低くされ小さくされた者たちは、自分の尊厳を取り戻せ、このようにイザヤは語ったのです。荒れ野で叫ぶ声は、低くされた人を高め、険しい道を平らにする仕事を果たしました。個々人を高め社会を平らにしました。

新約聖書の時代、ヨハネが心がけたことは、高いところを低くするという仕事です。高ぶる人々が大勢いました。民族主義や選民思想をふりかざしてユダヤ人の優越性を誇る人々がいました。ファリサイ派や熱心党がそのような人々です。また権力や財力をふりかざして傲慢に振舞う人々がいました。サドカイ派やヘロデ党がそのような人々です。高慢に自己肥大をしている者たちに対して、「山と丘は身を低くせよ」と語る、これがヨハネの叫び声です。イザヤ書40章は両面を言っていますが、イザヤ本人は低いところを高めることに重点があり、ヨハネは高いところを低くすることに重点があったということです。それは同じことがらの裏表です。高ぶること(傲慢)と「低ぶる」こと(卑下)は、ただの人であることを失っているという点で同じだからです。力を濫用する個々人をへこませ社会を平らにしたのがヨハネです。

第五の質問、「あなたはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないのに、なぜバプテスマを授けるのですか」(25節)。これはバプテスマという儀式に何の意味を持たせ、何のために行なっているのかという質問です。ヨハネはバプテスマという儀式を用いて人々を共通の低みに立たせました。彼は悔い改めのための道具としてバプテスマを用いています。神さまへの謝罪を、水の中に沈められることで表現するのです。バプテスマは人間の平等を示す儀式です。ヨハネは高いところを低くけずりとって平らにするという意味で行いました。その意味で、来週取り上げる「聖霊によるバプテスマ」よりも少し劣ります(26-27節)。それでも宗教儀式の中で人の平等を実現するという趣旨は偉大です。ヨハネのもとに行けばどんな人も平等に扱ってもらえたからです。威張っていた金持ちも借金を抱えた貧しい人も、ファリサイ派も徴税人も、同じバプテスマを受けなくてはいけなかったからです。

こうしてヨハネは主の道をまっすぐにしました。個々人の傲慢さを打ち砕き、人間の平等性を訴え、高いところを取り除き、社会を平らにしました。荒れ野で呼びかけ、荒れ野に来た者たちと修道生活をする中で、そのことを実現しました。

わたしたちは、ヨハネにならって「荒れ野で叫ぶ声」となるように求められています。教会は「主の道をまっすぐにせよ」と、呼びかける声となるのです。そのためには、自分の高いところを削り取る必要があります。高いところとは具体的には、「…力」と呼ばれるようなものを振りかざしたり、濫用したり、頼みにしたりする行いです。「権力」「財力」「能力」「暴力」「知力」「体力」「武力」などなど、世の中には「…力」があふれかえっています。力を持つものが支配しやすい仕組みがあります。これらはハラスメント・戦争の温床です。

しかし、教会ではそうであってはいけません。少なくとも教会では平等が実現していなくてはいけません。なぜなら、すべての人は等しく神の前で謝罪すべき罪人だからです。バプテスマという儀式は、自分に死ぬということ・力を脱ぐことも意味します。わたしたちはバプテスマを受ける人が増えることを望んで教会をいとなみ礼拝を続けていますが、それは剣を鋤に打ち直す人を増やしていく作業なのです。それが伝道です。

自分たちの中に「まっすぐ」を実現すると同時に、教会は世間に対して「力を捨てましょう、力に頼る生き方をやめましょう、高みに立つ者が率先して低いところに降りましょう、そのような仕方で社会を平らにしましょう」と呼びかけるように求められています。「主の道をまっすぐに」ということは、「自分の心をまっすぐに」ということではないからです。世界を平らにしなくてはいけないのです。このとき教会は孤高の存在になるかもしれません。邪で曲がった時代にあって、まっすぐということを主張することは、力をふるいたがる者たちには煙たがられるからです。ここに教会のひとつの使命があります。

教会は自分たちのためにあるのではありません。世のためにあります。しかも世間に煙たがられるような言葉・荒れ野に追いやられるような言葉・真理の言葉を語るために存在します。そのような仕方で世に仕えることが、教会の社会的貢献です。そして現代においてそのことが逆に伝道になります。憲法改悪が現実味を帯びている今、原発再稼働が当たり前になりつつある今、どのように声を上げてよいか分からない、やる気はあるけれども無力感を感じている若者は世間に満ちています。教会はその人たちに主の道をまっすぐにする方法を教えることができます。非暴力の方法で世界を変えていく、声の上げ方を伝えることができます。たとえば選挙や裁判やデモや役人に訴えることができます。

教会内でバプテスマをしつつ「まっすぐ」を実現し、教会外でも「まっすぐ」を訴えること、これこそバプテスマのヨハネにわたしたちが倣うべきことです。これこそ伝道です。

祈ります。