主はよみがえられた ルカによる福音書9章43節後半-45節 2017年4月16日礼拝説教

イエス・キリストの復活はキリスト教信仰の中心です。キリスト教の語る救いは「永遠の命を得ること」として表現されます。そのことの意味は広く、死んだ後に天国に行けるという約束も含みますし、決して死なないという意味も含みますし、今を輝いて生き生きと生きるという意味も含みますし、ただで命を授かったという意味も含みます。永遠の命を与える方を神と呼びます。

イエス・キリストの復活は永遠の命を神が持っているということの「証拠」です。極めて悲惨な形で虐殺された死刑囚が、神によってよみがえらされ、神の子とされ永遠の命を授けられたということ。このキリストは、すべての人に永遠の命を配ることができます。このキリストに倣って、すべての人はどん底からの復活を遂げることができます。

「証拠」と申し上げましたが、いわゆる物証や客観的裏付けというものではありません。論理的に積み上げていけば理解に到達するというものでもありません。キリストの復活は、そういった意味の証拠になりません。また、証拠や議論の積み重ねによって、永遠の命を持つ神を証明することはできません。人間ごときに存在や性質が証明されてしまう神は、神とは言えないでしょう。

神がどのような方で存在しているのかは「秘儀/秘密(ギリシャ語ミュステリオン。mysteryの語源。8章10節参照)」に属します。秘儀とは覆われ隠されていて分からないものです。永遠の命を持つ神や、キリストの復活は秘儀です。理性において納得する類の事柄ではありません。地道な努力によって達成される修行でもありません。感性において気づき、霊性において受け容れる類のことがらです。隠されていることがらで露わにされないものはありません。

ということは、人が神を信じるためには偶発的なきっかけがとても重要です。そのようなきっかけが感性に響くからです。復活のキリストに永遠の命を与えられるためには、自分の努力ではなく、自分には原因のないところで起こるハプニングが必要です。具体的に言えば、「振り返ってよくよく考えると、あの人の中に、あるいはあの出来事の中に、神が生きて働いていたのではないか」と、ふとした時に気づくというハプニングです。

その時、覆いが取り払われるのです。英語で「発見する」はdiscoverという単語です。覆いを取り払うという意味合いです。正に「目からウロコ」という現象です。ちなみにこの故事成語は聖書の出来事に由来します(使徒言行録9章18節)。サウロという人物が復活のイエスに出会った後、イエスをキリストと信じる時に目からウロコのようなものが落ちたのだそうです。彼はイエスが復活し自分に現れ自分を使徒として召したということに気づいて受け容れたのです。そして彼はバプテスマを受けました。キリスト者を迫害していたサウロが、このようなきっかけを得て復活のキリストに気づき(感性)、三日間の熟慮の末(霊性)、永遠の命を信じるキリスト者となりました。

①理性では信仰に到達しないけれども、②復活のイエスとの出会いというきっかけによって必ず信仰に到達するのだということを、ルカ福音書と使徒言行録を作成した人々は力説しています。

今日の箇所は、①理性では信仰に到達しないということを主張するための聖句です。イエスはもうすぐ起こる十字架と復活を三回予告しています(9章22節、同44節、18章31-34節)。この予告を受けた弟子たちの反応は、かんばしくありません。十字架で処刑されることも、奇跡的に蘇らされることも、弟子たちは信じません。最も身近に居て寝食を共にしていても、十字架と復活という出来事を信じることはできないのです。ルカ福音書だけは、「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていた」(45節)の言葉を、三回目の予告の時にも繰り返しています(18章34節)。イエスの十字架と復活は、理性では決して到達できないように隠され覆われている出来事であると念を押されています。

さらにルカ福音書だけは、本日の箇所である第二回目の予告で「復活もする」ということを省いています。このことは弟子たちに対する要求のハードルを下げています。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(44節)という言葉は、イエスが裏切られ、ユダヤ・ローマ権力者たちによって死刑判決を受け、ローマ兵によって十字架で殺されたことを指す表現です(Ⅰコリント11章23節)。十字架で処刑されることは理性的な予測で可能です。ここまでもイエスの命を狙う人々はいたのですから、イエスが殺されるかもしれないという未来は理解の範囲内でしょう。それに比べて復活は荒唐無稽です。理解するためにはハードルが高い現象です。より分かりやすい予告でさえ分からないということによって、ルカは弟子の不信仰・無理解を際立たせています。

そして「復活もする」という予告が欠けていることは、もう一つの効果も生みます。読者が復活のことをかえって意識させられ、復活の記事を読みたくなるという効果です。著者が書かない復活を、読者が補おうとするという効果です。音楽の休符のようなものです。沈黙がかえって音を意識させるのです。

「この無理解な弟子たちは一体どのようにしてキリストの復活を信じる使徒となったのだろうか」という問いをもって、先の物語に手を伸ばすことを、本日の箇所は促しています。答えはルカ福音書24章13-35節にあります(新約聖書160ページ)。いわゆる「エマオの途上の物語」です。そこに二人の弟子が経験した、②信仰に到達するきっかけの実例が描かれています。きっかけは紛れもなく復活のイエスに出会ったという出来事です。弟子たちに隠されていたことがらが、弟子たちに露わになるという点で、本日の箇所は24章と対応しています。

あらすじはこうです。イエスの十字架刑死の後、失望してエルサレムから故郷エマオに帰ろうとする二人の男性弟子がいました。その途上に復活を遂げたイエスが合流します。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24章16節)。二人の弟子は、こともあろうにイエス自身に、自分たちの師であるイエスが十字架で処刑されたこと、さらに仲間の女性弟子たちがイエスの遺体が見当たらないと言っていることを説明します。そこでイエスは旧約聖書を引用しながら、救い主は十字架と復活を遂げるということを二人に解き明かしていきます。それでも二人はイエスであると気づきません。

二人は「見知らぬ旅人」のことをすっかり気に入り、エマオの自宅に無理に引き留め招き入れ一緒に夕食を食べることにします。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(同30-32節)。これも目からウロコです。

どんなに近くにいて親しく話し合っても、どんなに長い時間共に歩いても、分からない時には分かりません。しかしふとしたきっかけでピンと来るのです。きっかけはイエスのいつもの仕草です。「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった」(同35節)と、はっきり書いてある通りです。イエスの逮捕の時点から三日間、イエスと共に食事を食べていなかった二人の弟子は、イエスがいつものように食前の感謝の祈りを捧げ、家長役となってパンを裂いて渡した時に、ピンと来ました。覆いが外され目が開け、気づいたのです。隠された秘儀/秘密が明らかになりました。イエスはよみがえらされ今も生きている。

感性で気づいた後に、二人の弟子は振り返って今までの経緯をよく思い出そうとし、よくよく考えました。そう言われてみれば、イエスは三回も十字架と復活を予告していた。そう言われてみれば、女性弟子たちが言っていたことには信憑性がある。そう言われてみれば、旧約聖書イザヤ書53章には「主の僕の苦難」が預言されている。こういった思い巡らしが霊性で受け容れる作業です。「イエスは生きておられる」(同23節)。本当にそうなのか、やはりそうだ。この問いと答えを何回も反芻し確認することが、自分の霊(全存在)において受け容れるということです。

どんなに無理解・不信仰の弟子たちも、きっかけさえあれば、そして自分のこととして受け止めるならば、イエスの復活を信じることができます。教会という団体は、復活のイエスを信じるきっかけを提供している団体です。そして繰り返し反芻するように復活のイエスに出会うために礼拝を行っている団体です。イエスは霊となって今ここにいらっしゃるのです。

『こどもさんびか』16番に次のような歌詞があります。イエスさまいるってほんとかな、今でもいるって言うけれど。イエスさまいるってほんとかな、見たことないけれど。イエスさまいるってほんとだね。みことば聞いてパンをさくみんなの中にイエスさまはいつもいてくださる。

この歌は、エマオの途上の出来事が、毎週の礼拝において起こるということを見事に言い抜いています。ここにわたしたちの泉バプテスト教会が毎週主の晩餐を行っている理由も言い表されています。説教重視のプロテスタント教会は理性重視・聴覚重視の礼拝を行っています。日本の多くのバプテスト教会で晩餐は月一回だけです。それはバランスが悪いものです。なぜかといえばどんなに必死に牧師の言葉を「よく耳に入れ」(9章44節)ても、それだけではイエスによって永遠の命を与えられる信仰には至らないからです。もっと感性に響くきっかけが必要です。それは聴覚と理性のみに訴えるのではなく、より五感全てに訴えるものでなくてはいけないでしょう。視覚、触覚、嗅覚、味覚に訴え、イエスの仕草を思い出させるものが必要です。

パンを分かち合うとき、パンを配るとき、みんながそれを喜ぶとき、そこに復活のイエスがよみがえらされるのです。主の晩餐は、「イエスが生きて働いておられる」ということを感じるきっかけです。「あ、これ良いな」というだけの気づきで良いのです。そこから振り返って、聖書の解き明かしを反芻して理性的にも熟慮して、信仰を受け容れていくのです。説教と晩餐のバランス、聖霊と聖書のバランス、感性と理性のバランスが大切です。

このような復活信仰は、現代という「よこしまな時代(不満・臆病・失望が鍵語)」を生きかつ死ぬにあたっても有用なものです。お得でなければ「福音」という名に値しません。十字架で殺された方の復活を信じることは人生の益になるものです。良いことが自分の身に起こるのです。

復活信仰は命が与えられていることへの感謝をもたらします。そして人生が必ず失望に終わらないという希望をもたらします。常識の斜め上を見上げて生きる生き方を与えます。死が終わりではないから感謝をもって死を引き受ける勇気を与えます。先に死んだ人との再会が必ずあることを信じさせます。感謝・勇気・希望がわたしたちに明日を生きる力を与えます。不満・臆病・失望という負の感情を克服することができるからです。復活信仰は、無駄な怒り・不要な怯み・無為な絶望から、わたしたちを解放してくれます。