主はわが旗 出エジプト記17章8-16節 2015年10月4日礼拝説教

今日の箇所には新しい人物が二人登場しています。ヨシュア(9節)とフル(10節)という男性です。この人たちがどのような人であったのかを、まず説明しておきます。そこに聖書の読み方についてのヒントや、教会とはどのような集団であるのかについてのヒントがあるからです。

エフライム部族出身のヨシュアは指導者モーセの後継者です。レビ部族出身のモーセはエジプトからの脱出の立役者ですが、自分は約束の地に入れませんでした。道半ばにして彼はネボ山というところで死にます。そのモーセに変わって後継指導者とされたのが、ヨシュアです。モーセの偉いところは自分の息子に世襲させなかったことです。部族も異なるヨシュアに、約束の地にイスラエルの人々を導き入れる使命を託して、モーセは死にます。

イスラエルという信仰共同体には世襲の王政がなじみません。主という神だけが王だからです。レビ部族出身の姉弟が指導者となっていますが(ミリアム、アロン、モーセ)、世襲の王朝をつくろうとは考えていません。その都度カリスマを与えられた預言者・士師(裁判官)が立てられるというやり方が、イスラエルの習慣です。教会の牧師や国会議員も世襲でない方が良いでしょう。

ヨシュアという人物はイエス・キリストを指し示します。ヨシュア(厳密にはイェホーシュア)のアラム語読みがイェシュアとなります。さらにそのギリシャ語読みがイエスースです。このイエスースを日本語訳するとイエスとなります。つまり新約聖書のイエスは、ヘブライ語読みすればヨシュアという人です。

モーセの後継者だけれど世襲ではないヨシュアは、旧約聖書に続くけれども連続していない新約聖書のイエスを指し示しています。しばしば旧約聖書には好戦的な聖句・民族主義的な聖句があります。それらの困難な箇所をわたしたちは平和の主イエス・普遍的な愛を実践されたイエスを通して、新約聖書の視点で読み解く必要があります。

もう一人のフルという人物もユダ部族という別の部族出身者です。31章2節によれば、フルは臨在の幕屋という「移動式神殿」を作成する責任者ベツァルエルの祖父です。レビ部族の三人に、エフライム部族のヨシュア、ユダ部族のフルが加わっていることが分かります。イスラエルは集団指導体制であり、合議制・共和制なのです。さまざまな部族の意見をまとめる仕組みは、王制や独裁制と一線を画すものです。多様性を積極的に認めているとも言えます。

後の歴史を見ると、イスラエルという国は南北の連合体として統一されます。北の有力部族はエフライムであり、南の方はユダです。レビは祭司の部族として土地を持たないけれども重要な役割を果たします。ここでヨシュアとフルが指導者として挙げられていることは、後の歴史の予告なのです。

さて、ヨセフスというユダヤ人歴史家がいます。紀元後1世紀の人物で、新約聖書が書かれたのと同じ時代に『ユダヤ古代誌』という本を書きました。その中でヨセフスは、フルという男性はミリアムの夫であったと記載しています。当時そのような言い伝えがユダヤ人社会にあったのでしょう。

フルがミリアムの配偶者であれば、アロンとフルがモーセの両手を支えたことも分かる気がします(10-12節)。また24章13節というところにも、「アロンとフル」と並んで書かれていることも理解できます。フルはミリアムを介してアロンと並ぶ指導者とされています。このことは、ミリアムという女性が三頭政治の一角として重要な役割を担っていたという推測の裏付けともなります。男性中心の記述体裁のせいで、ミリアムは登場回数が少ないけれども、フルの影にはミリアムが居たのです。

日本の国会における女性議員の率は11%です。日本バプテスト連盟の女性教役者率は15%、主任牧師の率ならばさらに低いでしょう。教会員の70%近くが女性なのに、この数字です。ミリアムの33%に劣ることを反省すべきです。

以上のヒントを心に留めながら、今日の「対アマレク戦争」という戦争記事をどう読むべきかわたしの解釈を申し上げます。毎年8月15日の朝7時から千鳥が淵戦没者墓苑でキリスト者たちの平和祈祷会が行なわれています。今年は恵泉バプテスト教会員辻子実さんの説教でした。「今こそ聖書の中の戦争記事をあえて取り上げ、批判的に読み解き、反戦・平和を語り、教会が戦争協力を二度としないことを誓うべき」との言葉が印象に残っています。

非暴力的夜逃げで出エジプトを果たしたイスラエルの民が、アマレク人と戦争をしたことは衝撃的な事実です。この聖句にならうならば自衛のための戦争は肯定されます(8-13節)。しかも「敵である民族を撲滅すること」も肯定されます(14節)。そのように聖句を利用して良いのでしょうか。およそ侵略戦争は自衛を理由にしてなされるから問題です。およそ戦争は民族主義を道具にして推進されるから問題です。ここに批判的な解釈が必要とされます。

わたしは、主なる神とモーセら男性指導者たちとの間に、戦争についての考えのずれがあるように思います。当時最強のエジプト軍すら主は撃退したのですから、モーセらはその主に祈って頼るべきでした。しかし、彼らは拙速にアマレクとの戦争を選んだのです。

よく読んでみると、戦争の開始はモーセの命令であって、主の命令ではありません(9節)。主の発言は一箇所だけです。「このことを文書に書き記して記念とし、またヨシュアに読み聞かせよ『わたしは、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去る』と」(14節)。この言葉をどのように解釈するのかが、今日の一つの要点です。アマレク人に対する敵意を隠さない神を、わたしたちはすべての人を愛し創られた神として信じることができるでしょうか。

さてここで民族撲滅を宣告されたアマレク人はその後どうなったのかを、おさらいします。民数記14章43-45節にアマレク人は登場し、イスラエルの人々を打ち破ります。民数記24章20節では、アマレク人の滅びが祈られます。申命記25章17-19節では、モーセの遺言として再び「アマレクの記憶を天の下からぬぐい去れ」と命じられます。そこからさらに200年後、イスラエルの王サウルはアマレク人への侵略戦争を起こします(サムエル記上15章)。

なんと200年以上も報復の連鎖・憎悪の連続があったというのです。旧約聖書という本は「開かれた本」です。きれいな結論を先に言わずに、人間社会のありのままの姿をさらけ出して、読者に判断を迫る本です。民族対民族の争いというものは、一旦始めたら何百年も続くものなのだと、旧約聖書は語っています。神の名を騙って、「記憶をぬぐい去れ」などと叫べば叫ぶほど、葛藤は深刻になります。血を流すことで憎しみの記憶は深く刻まれていくのです。

主は「アマレクとの戦争の記憶を天の下からぬぐい去る」と言ったかもしれません。モーセは自分に都合よく、民族主義的に解してヨシュアに伝言したのかもしれません。そのことが200年間続くアマレクとの戦争へとイスラエルを導いていったのではないでしょうか。

15-16節にあるモーセの言動は、平和を求める神の意志と離れているように思えてなりません。ここでは珍しくモーセが祭司役となって祭壇を築き礼拝を仕切ります。その祭壇を「主はわたしの軍旗」と呼びます。ミリアムが「主はわたしの歌」と呼んだのと好対照です。「主のためのアマレクとの戦争は代々に」(直訳)。モーセは主のための戦争(聖戦)と考えていても、主がそのように考えていたかは、よく分かりません。モーセは自分の座った石を(12節)、「主の御座」と呼んでいますが、主がそれを認めているかは分かりません。

イラク戦争においても、ブッシュの神かフセインの神かと揶揄されました。しかしどちらの神も平和を願っているだろうし、そもそも神は一つでしょう。日本にも宗教者平和ネットワークという団体があり、わたしの友人のお坊さんも平和運動に勤しんでいます。神の名を騙って、それを錦の御旗として戦争をすることは、宗教者こそ避けなくてはいけません。宗教性を帯びた戦争ほど止めることが困難になるからです。

わたしたちは主の気持ちを想像すべきです。醜い戦争を見させられ、挙句の果てに「主のための戦争だったのだ」と自分の名前まで使われて、嫌な思いをしている神を想像しながらこの箇所を読んでみましょう。主はヨシュアに対し、聖戦・神の名による多民族撲滅をしないほうが良いと伝えたかったのではないでしょうか。神の座に座るモーセがそれを歪めて伝えたのでしょう。

そうなると、モーセが手を上げている間、イスラエルが優勢になったという不思議な出来事をどのように理解すべきでしょうか。細かい話ですが、11節のモーセの手は片手です。多分杖を持った方の手を上げていたのでしょう(9節)。12節前半の「手が重くなった」までが片手です。モーセは立ちながら、休み休み片手を交代させながら、杖を上げていたのでしょう。おそらくは偶然に両軍が拮抗して、優勢と劣勢が交代していたのでしょうけれども、彼らは手を上げた効果と考えました。立っていた効果とは考えませんでした。

そこに欲が出てきます。もしかしたら同時に両手を上げ続けられたら勝てるのではないか。支配欲とはそのようなものです。モーセを座らせて、アロンとフルが片手ずつを支えるという荒業を、男どもは考えついたのです(12節)。倍の効果が出て、てきめんにアマレクに勝てると考えたのでしょう。しかし、日の沈むまで戦闘は続きました。何のことはない、ずっと拮抗状態だったということです。一日中殺し合うというのは、とんでもない労力であり、途方もない無駄であり、信じられないほど有害な行為です。

さきほどは200年以上の報復戦争の連続を申し上げました。個々の戦闘行為についても同じことが言えます。一旦始まった戦闘は、なかなか終わらせることはできません。沖縄戦の悲惨からわたしたちはそのことを学んでいます。

主なる神は人間たちの10数時間にも及ぶ殺し合いを見ていました。これは創造主にとって悲しい出来事です。すべての命を創ったのは神だからです。創られたもの同士の殺し合いは、兄弟同士の殺し合いを親が目の前で見るようなものでしょう。「あなたの兄弟の血が地面から叫んでいる」。神は黙って泣き、戦争の記憶をぬぐい去ろうとします。

モーセは何をなすべきだったのでしょうか。アマレク人がレフィディムに来た時、そして戦争に至る前までに何をなすべきだったのでしょうか。原文はアマレク人が戦争のために来たとは書いていません。「来た、そして戦った」とあります。この「そして」という間に、モーセはすべきことをしないまま戦闘準備に入っていないでしょうか。

アマレク人はレフィディムの湧水を欲していたかもしれません。古来水は戦争の原因です。なぜ共に飲めなかったのか、そこが問題です。共に水を飲む精神が戦争を未然に防ぎます。始まったら止められないのですから未然の予防が一番です。わたしたちは晩餐によって共に水を分かち合う精神を育てます。一つの井戸を共有する時に平和が実現します。神は地上の平和づくりに介入しません。わたしたちの手に委ねています。その手が剣を持つのか、それとも互いの手を握るのか、一つの杯を持つために使うのかを問うています。