今週の一言 2013年6月27日

6/27の祈り会ではイザヤ書10章33節-11章10節を学びました。

 この聖句は「エルサレム攻囲戦」(前701年)という対アッシリア戦の敗戦直後の預言であると推測されます。イザヤの長い預言活動の中でも最晩年の発言です。アッシリア帝国は史上初めて古代西アジア世界を軍事的に支配し統一しました。いわゆる「アッシリアの平和」と呼ばれる時代の到来です(前700-650年)。そのようなアッシリアの「世界戦略」の中で南ユダ王国はすべての領土を失い、首都エルサレムのみが存続を許される都市国家になってしまいました。それがエルサレム攻囲戦の結果です。

 イザヤは以前ヒゼキヤ王に軍事的英雄としての望みをかけましたが、それは間違えだったのです。その挫折を経て新たな預言が与えられます。それが軍事力による平和ではない真の平和をもたらすメシアの到来を希望する言葉です。

 一つは非暴力統治というかたちです。「斧」と称される軍備ではなく、言葉による裁判を公正に行うメシアが治める世界こそ、平和の実現した社会です。軍隊の本質は暴力にあります。外部にあっては殺人を、内部にあっては上下関係による支配・思想および身体の統制を特徴とします。戦力・武力・暴力を棄て正義と真実を身に帯び、言論による解決を採ることが平和の道です。

 二つ目には多様性を認めるというかたちです。平和のイメージはノアの箱舟にあります。そこでは狼と子羊という天敵同士が共生できます。また肉食動物が草を食べるということ、小さな子どもが毒蛇と戯れるということが起こります。

 このような共存は実際の動物たちが造物主に愛されているということを示すものです。獣も神と救いの契約を結びうるからです(ホセ2:20、創9章)。戦争が最大の公害であることを思う時、平和とは人間世界だけのことではありえないでしょう。原発事故の最大の被害者は動植物です。

 さらにこのような共存は人間世界のたとえでもあります。多様な人々の人権を守ること、互いに寛容であることが平和の実現した社会です。偏狭な民族主義や国家主義の台頭を許してはいけない理由です。差別意識なしに戦争を開始することも推進することもできないからです。(JK)