今週の一言 2013年8月22日

『はだしのゲン』の子どもたちへの閲覧が制限されていた自治体があったという事件、島根のみならず鳥取でも明らかになりました。ことの本質はどこにあるのでしょうか。暴力表現を未成年者への保護の観点から制約すべきか否かということが表向き論点とされています。確かにこの表向きの論点自体にも論じる価値はあるでしょう。なぜなら性暴力を肯定するゲームが子どもたちにも手の届くかたちで放置されている問題や、さらには拷問・虐殺描写に満ちたイエスの十字架刑を子どもたちにどう伝えるかという問題にもつながるからです。しかし、この論点に留まり続けこの事件の本質的な問題性を見過ごすべきではありません。

 真の問題の一つは、あの戦争をどのように理解するかの歴史認識の問題です。なぜなら『はだしのゲン』を閲覧させないようにと主張した松江市議は、決して原爆被害者の悲惨な絵を問題にしたのではなく、中国で日本兵の行なった残虐行為の描写を「事実に即していない出来事の流布」として取り上げたからです。すなわち日本兵が住民を斬首したり性暴力をふるったりしている場面です。おそらく作品全体が昭和天皇の戦争責任を肯定していたり、朝鮮人差別に反対していたりすることにも反発を感じていると推測します。

 もう一つの深刻な問題は教育の現場で表現の自由が不当かつ巧妙に制限されている実態です。市議は意見を述べただけで多数の議決があったわけではありません。また市の教育委員会も校長に任意の協力を求めただけで命令をしたわけではありません。校長の自発的判断で読みにくい書棚に移動されたという形式になっています。しかし実質は上からの焚書坑儒・表現の自由や知る権利の制約です。いつのまにか自粛しなくてはいけない雰囲気になっていること、この事態こそ深刻な問題、民主主義の危機です。

『はだしのゲン』は作中、主人公の父親の思想信条に対する特高警察の不当な拷問・弾圧を批判しています。わたしの脳裏には読後感として国家権力の横暴さが強烈に焼きつけられました。原爆使用も含め、国家による暴力を批判することに著者の意図を見ます。現状でまだ表現の自由が全面的に禁じられているわけではありません。今のうちにきちんと自分の意思表明をしておかなくてはなりません。黙って看過することがいつか来た道への逆戻りとなるからです。(JK)