今週の一言 2013年9月19日

9月19日の祈祷会では列王記下21章19節-22章20節を学びました。

 以前、「申命記的歴史書(申・ヨシュ・士・サム・王)」について触れました(7/7本欄)。この一つながりの歴史書は、南ユダ王国再生改革計画です。

 マナセ王の統治下50年は言論弾圧の時代であり、預言者たちが活動できなかったことを前に述べました(王下21:16参照)。その禁を破ったのがゼファニヤでした。それはマナセの息子アモン王が謀反によって殺され、「政権交代」が起こった頃のことでした。「国の民(アム・ハ・アレツ)」という集団が実権を握り、8歳のヨシヤ王が担ぎ上げられます(王下21:19以下。前640年)。この「国の民」が申命記的歴史書を編纂し南ユダ王国の改革に着手した人々です。

 「国の民」は南北の預言者たちの思想を受け継いでいます。神を神として崇めないゆえに北王国が滅亡した(王下17章。前721年)とみなしています。彼ら/彼女らは反アッシリア帝国の民族主義者たちです。またダビデ王の頃の南北統一形態を、理想の「イスラエル」のすがたであると考えています。こういった考え方のゆえに、親アッシリアであったマナセ王の統治下では弾圧されていたのでしょう。アッシリア帝国の弱体化とマナセ王の死去を奇貨として、「国の民」が地下で数十年温めていた申命記的歴史書をもって一大改革に踏み出します。その主だった者は、書記官シャファン(22:3)の一族、大祭司ヒルキヤ(22:4)の一族、そして預言者フルダの一族です(22:14)。

 出発はヒルキヤによる「律法の書」の「発見」でした(22:8。前622年)。この「律法の書」が申命記の原型と推測されます(申29:20、31:26)。シャファンの口からヨシヤ王は「律法の書」の内容を聞き、その内容に従った政策を実施することを、預言者フルダの助言も聞きつつ決めます(22:9-20)。

 これは「ヤラセ」です。シャファンやヒルキヤが作成に関与している申命記の原型をエルサレム神殿に前からあったものとして「発見」し、国の民の思想に影響を受けていたヨシヤ王(22:2)が劇的に「悔い改め」、フルダのお墨付きを得て、自分たちの行いたい改革をする良いきっかけを演出したのです。そのために申命記の著者をモーセとして権威づけ、エルサレム神殿の由緒正しさをも演出したのでしょう。雌伏70年の執念を感じます。(JK)