今週の一言 2014年3月13日

3月13日の祈り会ではエゼキエル書18章21-32節を学びました。

聖書は共同体意識の強い社会で生まれました。個人よりもムラが重視され、その結果として「親の因果が子に報い」という因果律が常識となっているような社会です(ヨハネ9章参照)。その中で異彩を放つのがエゼキエル書18章に明記された「個人主義」です。先行する申命記24:16や、エレミヤ書31:29-30と深く関連しつつ、エゼキエルは個人の罪は個人が負うと明言しました。

旧約聖書には「原罪(sin)」に該当する特別な単語はありません。その代わりに具体的なかたちで多様な単語が「悪行」に対して用いられます。今日の箇所だけでも、「過ち」「背き」「不正」「忌まわしい事」「背信の行為」「悪」と実に多彩です。このことは悪行が決して抽象的なことではなく、この世の実際の行いであるということを示しています。

ですから罪からの解放もまた、「公正」と「正義」を行うという具体的な生き方です(21・27節)。「悪行から離れる(シューブ)」(21節ほか)ことによって、わたしたちは生きることができます。同じシューブという動詞は、「悔い改める」「立ち帰る」とも訳されています(30・32節)。生き方の方向転換が求められています。

ところで28節の「悔い改める」と訳された単語ラアーの直訳は「見る」「認める」です。この事実は、生き方の方向転換のために必要なことが何であるかを教えています。まず現実を直視すること、そして自分の具体的な悪行を認識すること、そこからしか悔い改めは起こらないということです。エゼキエルの場合は、バビロン捕囚という破局をどう見るのかということでした。彼は真の預言者たちと同様に、民の悪のために神が自分の民を裁いたと認識しました。この歴史認識が「新しい心と新しい霊を造れ」(31節)、「立ち帰れ、そして生きよ」(32節)という悔い改めの勧めに結実します。

戦後の社会がつくりあげてきた歴史認識がなし崩しにされそうな現実。この根っこには結局大多数の民があの侵略戦争を悪いと思っていないこと、「負けて悔しかったレベル」で思考が止まっていることにあるように見えます。(JK)