今週の一言 2014年3月20日

3月20日の祈り会ではエゼキエル書24章15-24節を学びました。

エゼキエルは、「象徴行為」の多い預言者と言われます。象徴行為とは、「行為の預言」です。神が預言者に命じる、常軌を逸した行いを民に見せることによって、神の意志を伝えることです。たとえば預言者ホセアはゴメルという女性との結婚を神に命じられました。その行為によって伝えたいことがあったからです。神はエゼキエルに「近親者が死んでも葬儀をあげるな、泣くな、悼むな」と命じました(16-17節)。その翌日、エゼキエルの妻が突然死にます(18節)。その際に、エゼキエルは神に命じられたとおり、茫然自失のありさまで妻を弔わず、ある意味では平然と日常を過ごしました。

当然に民は問います。預言者の不思議な振る舞いはおそらく象徴行為であろうと知っているからです。「あなたの行いは我々にどんな意味があるのか」(19節)。エゼキエルの説明は次のようなものでした(20-24節)。

<わたしの妻の突然の死と同じように、バビロン軍が首都エルサレムを陥落させる。神がわたしの妻を撃ったように(古代の人は病気を神が撃った結果と考えます)、神が神の民を撃つ。その時、民はわたしのように茫然と立ち尽くすだろう。戦争とは弔う権利が奪われることだ。その時、民は日常生活をするべきとも言える。日常を奪おうとする戦争に抗することも必要だからだ。そしてその時、民は神が歴史の主であることを知る。目の中に入れても痛くない己の民を裁く神こそ、自由な意志を地上に実現するお方だからだ。>

妻を弔わない非人間的な行いによって、戦争というものが持っている非人間性が見事にあぶりだされています。正しい戦争などというものはどこにもありません。すべての戦争はそれ自体で間違えです。そして間違えた平和などというものもどこにもありません。戦争が回避されるとすればそれはどのような場合であっても「より正しい結論」なのです。

国際法上、「自衛のための戦争」はいまだ合法です。国連憲章に「憲法9条」が解釈の余地のないかたちで明記されるならば、すべての戦争が法的に間違えたものとなります。これはわたしの夢です。(JK)