今週の一言 2014年4月3日

4月3日の祈り会ではエゼキエル書34章11-16節を学びました。

エゼキエル書34章は、マルコ6章の原風景を織りなす記述です。すなわち、「イエスは…大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えられた」(マコ6:34)という状況は、「彼らは飼う者がいないので散らされ…ちりぢりになった」(エゼ34:5)という状況と重ね合わされています。エゼキエルが語る、神自身/「わが僕ダビデ」(23節)が羊飼いとなって直接神の民を牧会するという預言が、イエスにおいて実現したということです。

エゼキエルの時代の西アジア世界においては、「王は羊飼い、民は羊」という観念があり、「王は良い羊飼いでなくてはならない」と考えられていました。そして王は「神」や「神の子」「神の僕」として崇められ神格化されていました。それを前提にダビデ王は「主は羊飼い」と語り、「牧者の大牧者」としての神を語り、自らが人間に過ぎないことを告白したのです(詩編23編)。

キリスト教信仰は、<人間イエスにおいて神ご自身が完全に現された>と信じるものです(三位一体論)。それは地上の王(政治的軍事的メシア)ではないイエスを「良い羊飼い」として信じ、イエスに信頼を寄せるということです。この信仰は、上述のような思想史上の一つの到達点として成立したと言えます。

プロテスタント諸派では、教会の教役者を「牧師」と呼びならわします。「羊飼い」に由来する職名です。だから、エゼキエルの語る羊飼いやイエスの行った羊飼いの行為が、牧師の職務に示唆を与えます。11-16節には多くの動詞が登場し、羊飼いが何を行う者であるのかを説明しています。「世話をする」「救い出す」「連れ出す」「養う」「憩わせる」「強くする」などと訳されている諸語です。これらの訳語ではあまり表現されていませんが、原語ヘブライ語においては、「相手を解放すること・公共の正義にたって判断すること」が含意されています。

「牧会」と称して王のような支配・力の濫用を牧師はしてはいけません。むしろ公共の正義に立って相手を解放するべきです。そして、聖書の解釈を良い牧草として会衆に提供し、それをもって力づけ養うことが必要です。(JK)