今週の一言 2014年1月30日

1月30日はハバクク書2章1-4節を学びました。

 ハバクク書は全3章しかない短い預言書ですが新約聖書に4回も引用されています。特に2章4節が3回も引用されています。有名な「義人は信仰によって生きる」という箇所です。ただし新共同訳聖書では「義人」を「神に従う人」と意訳しています。

 パウロはこの言葉を自分の「信仰義認論(人はイエス・キリストの信仰のみによって救われるという教説)」を補強するために用いました。これは預言者ハバククの元々の発言趣旨とどのように関わるのでしょうか。

 ハバククは自分を時代の「見張り役」と任じています(1節)。見張りとは世界に対する監視であり、神の言葉に対する覚醒です。映写機による映像付きプレゼンテーションのように、神は、歴史に働きかける神の意志を映像化し「幻」として、預言者に示します。預言者はその幻を板に銘記しなくてはなりません(2-3節)。もし自分の言いたいことと、神の幻が矛盾する場合には、自分の言葉をひっこめなくてはいけません。1節の最後の文は、原文通り「わたしの訴えについてわたしが何を撤回すべきかを見よう」と訳した方が良いでしょう。

 ハバククにも示される預言者のあり様は、イエス・キリストの振る舞いと一致します。イエスも時代の見張り役として発言し、神の意志を最優先して十字架で殺されたのです。

 「義人」は「高慢な者」との対比で語られています(4節)。高慢の原意は「膨張」や「肥大」です。またその特徴は、「彼の全存在がまっすぐではない」(直訳)ところにあります。これらの反対語からあぶりだされる義人の特徴は、「等身大の人柄」・「愚直な人柄」です。

自分を力みなく「人の子(ただの人の意)」と語り、まっすぐな道をつくり、まっすぐに神の意志を貫いたイエスこそ義人です。神に対するイエス・キリストの信実が復活のいのちをもたらしました。「キリストへの信仰」というよりは「キリストの信実」という意味で、信仰義認論とハバククの言葉は重なり合います。(JK)