今週の一言 2014年4月10日

4月10日の祈り会ではエゼキエル書37章1-14節を学びました。

旧約聖書の「時の中心」は紀元前6世紀のバビロン捕囚とバビロンからの帰還にあります。それは、イエス・キリストの十字架と復活と重なり合います。神の子らであるイスラエルの民は、神の裁きによって滅亡させられ、その絶望の淵から神によってよみがえらされ、約束の地で再生するからです。

その画期的な転機である「時の中心」にエゼキエルがいます。彼の預言活動は、絶望に打ちひしがれている民(「枯れた骨」に喩えられる)への力づけとなりました。預言者は滅亡前には厳しい警告を発して威嚇をし、滅亡後には慰めに満ちた希望を語ります。三大預言書と呼ばれるイザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書はすべてそのような構成です。

エゼキエルが枯れた骨に預言すると、ばらばらの骨が集まりはじめ、肉・筋・皮膚がくっついて一つの体となります(4節以下)。このことは、『モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)』という正典(神の言葉として崇められる経典)を編纂する事業に、さまざまな思想集団が協力したことを示唆しています。共有の財産である本をつくるという働きが人々を集める求心力となりました。そしてモーセ五書が毎週の会堂での礼拝で用いられるようになり、主の言葉を聞く「信仰共同体」という一つの体が形成されます。

しかしそれだけでは体は立ち上がりません。体には霊が入らないと「生けるいのち」にはなりません(創2:7)。エゼキエルは霊に向かって、体に入るように呼びかけます(9節以下)。このことは、毎週の礼拝で「聖霊よ、来てください」と願う行為に似ています。正典がただ朗読されるだけではなく、霊によって解釈され、その時代に合わせた言葉が語られることが必要です。

四方から吹き込む霊は全世界の状況の喩えです。変動する状況から固定された正典を読み解き、その新たな解釈もまた正典に加えていく作業がなされていきます。申命記を抜いた『申命記的歴史書(ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記)』や、預言書群に加筆修正がなされ、モーセ五書に接続されていきます。その接続行為そのものが、モーセ五書への応答であり生ける解釈となるのです。(JK)