全世界を手に入れても ルカによる福音書9章21-27節 2017年3月26日礼拝説教

教会暦によれば「四旬節/受難節(Lent)」の真っ只中です。4月9日の「棕櫚の主日(Palm Sunday)」から「受難週(Passion Week)」に入り、4月14日が受難日(Passion Day / Good Friday)、そして4月16日が今年の「復活祭(Easter)」です。受難節ということもありますから、今日はルカの語る「十字架の意義」について、考えてみたいと思います。

同じルカが書いた使徒言行録8章26-40節には、初代教会が十字架をどのように捉えて、どのようにイエスをキリストと信じていたかが記されています。旧約聖書のイザヤ書53章7-8節の「苦難の僕」が、ナザレのイエスであるという解釈に基づいて、キリスト信仰は組み立てられています。つまり、まったく罪の無い者が罪多い者たちのために不当な裁判の結果犠牲となり、その捧げられた命がすべての人に配られ、それを信じるすべての者に永遠の命が与えられるという信仰です。ユダヤ人が共有している「血が血を贖う」という伝統の上に成り立っています。贖罪信仰と呼びます。

この贖罪信仰はまずイエスの直弟子たちに与えられました。そうでなければ彼らはイエスを裏切ったという挫折から立ち直ることはできなかったでしょう。イエスは自分を裏切った弟子たちの罪をも赦し贖うために十字架で殺されたと、彼らは信じたのでした。彼らが出会った復活のイエスは、彼らの罪を赦し、聖霊を吹きかけてくださいました。このことが、彼らの悔い改めを促し、彼らに独特の贖罪信仰を与え、教会を創ろうという推進力になりました。

ルカの教会にとっても贖罪信仰は共通の基盤です。それは先ほどの使徒言行録8章や、同7章60節のステファノの祈り「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、ルカ23章34節の十字架上の祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」との深い関連からもうかがい知れます。

しかし、よく知られている事実ですが、ルカは贖罪信仰を前面に押し出して書くことはしません。明確なかたちで、「イエスはわたしたちの罪を贖うために十字架で死んでくれた」ということを書いていません。たとえばマルコ10章45節の「人の子は・・・多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という言葉を、ルカは知りながら省いています。おそらくルカが友人であるパウロの影響をある程度受けていることや(パウロの思想について詳しくは青野太潮著『パウロ』参照のこと)、直弟子ではないので「裏切りを赦され、挫折の現実から贖われた」という意識が希薄だったからであろうと思います。ルカはギリシャ人であり、ルカの教会はギリシャ人を始めとして非ユダヤ人が多かったと推測されます。その人々も直接イエスとアラム語で会話を交わし、ガリラヤから付き従っていた人々ではないのです。

罪の意識が希薄な贖罪信仰はアヘンに堕す可能性があります。どんなに卑劣な罪をも無条件に赦されると知っている者は、そこにあぐらをかいて何回も悪事を繰り返し、心の中で何回も「自分は何をしても許されている」とうそぶくことができます。わざと悪いことをし放題して、最後の悪事の前に贖罪を乞い願い死ぬならば、極めて悪質なかたちで永遠の命を得てしまわないでしょうか。確かに何をしても許されるのですが、すべてのことが益となるわけではないのです(コリントの信徒への手紙一 6章12節)。

十字架の意義は何かということについて、ルカの教会の強調点は「イエスに倣う」ということにあります。言い換えると、「十字架の死に至るまで神の意思に従順に従い、利他的に生きる/他者の隣人と自らなっていく」ということです(フィリピの信徒への手紙2章8節)。ルカはフィリピの教会の信徒だった可能性があります(使徒言行録16章6-15節)。そしてフィリピ2章6-11節は、フィリピの教会に伝わる賛美歌だったという推測もなされます。この賛美歌には十字架の贖罪は謳われず、「キリストは・・・十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ(復活と昇天)・・・」と続きます。十字架の死に至るまで神に従順だったイエスを神は復活させたのと同じように、信徒一人一人も十字架を担う生き方をすれば復活の命が約束されるということです。

フィリピの教会の十字架と復活の理解は、本日の聖書箇所に共鳴しています。「人の子(イエス)は必ず多くの苦しみを受け、権力者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている(22節)」。その死が贖罪を意味するとは言わずに、続けざまにイエスは「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(23-24節)と語ります。十字架の死に至るまで従順であることが復活という逆転を起こすと言い抜き、罪の贖いを語りません。

日々十字架を背負う生き方は、全世界を手に入れることに邁進するよりも優れています(25節)。神の国が来る時には全世界を手に入れていることよりも、むしろ十字架を背負う生き方が高く評価されます(26節)。なぜなら、その時には、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」からです(フィリピ2章11節)。つまり、全世界はイエスのものだったと分かる時に、全世界を手に入れようという支配欲がいかに無駄なものであり有害なものであるかが分かるということです。

さて、ルカの教会は、「明日世の終わりが来る/神の国を見るかも知れない」という緊張感(将来終末論)を、あまり持っていません(27節)。イエスの弟子の間で、あるいはキリスト信徒の間で、神の国はすでに実現しています(17章21節)。イエスがこの世界に来て、イエスを中心に交わりができているところに、神の国はあるのです(現在終末論)。「神の国はあなたがたの間にある」との記述はルカ福音書にしかありません。

さらに、その神の国の現実を弟子たちの幾人かは、十字架で見てしまいました。ゴルゴタの丘には三本の十字架がありました。イエスの左右に政治犯が十字架に架けられていました。ルカ福音書にしか無い記述は次のとおりです。一人がイエスを罵りました。「お前はキリストではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。するともう一人はたしなめました。「お前は神を畏れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そしてイエスに向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。イエスは答えます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23章39-43節)。死刑執行の場所でさえも神の国になりうるのです。

イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた女性たちとは遠くに立って、これらのことを見ていました(同49節)。この意味で、「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」(27節)というイエスの言葉は、実現しました。彼女たちは神の国を、十字架を仰ぎ見る中で、実際に生きている間に見たわけです。

ルカの教会は「世の終わりがすぐにも来る」という切迫感を煽る熱狂主義や、「狂信」の類を退けます。それは日常生活を浮ついたものにしてしまいます。地に足をつけた毎日の生活が重要です。「日々」(23節)という単語を、マルコ版に付け加えている趣旨がそこにあります(マルコ福音書8章34節参照)。

まとめて言えば、ルカの教会は贖罪信仰や終末信仰を受け入れていますが、それらの中にある、ある種の危険性を乗り越えようとしています。ある種の危険性とは、毎日の誠実な歩みを軽んじてしまうというおそれです。イエス・キリストにだけ十字架を押し付けて、ふんぞり返って無反省に日常生活で悪事を繰り返すのは良くないことです。明日世の終りが来るかもしれないからと言って、日常生活をうっちゃって何らかの活動に打ち込むことも問題です。

贖罪信仰の持つ危険性は支配欲への誘惑です。ふんぞり返って全世界を得ようという野望を持つことすらあるからです。終末信仰の持つ危険性は被支配欲への誘惑です。人は煽られたい、無批判に従いたい、それによって現実の苦難から逃避したいという欲求を持っています。現実の歴史では、アドルフ・ヒトラーの率いるナチス・ドイツによってなされた蛮行が一例となります。贖罪信仰を強調し、現実の世界の倫理をあまり重視しないルーテル派がドイツに多いことが、第三帝国への熱狂的支持を後押ししました。支配欲と被支配欲が合体して生起した、人類全体が共有する歴史的反省です。キリスト教界はこの大罪にキリスト教の教理が影響したことを深刻に受け止めざるをえません。

悪魔の誘惑という物語でルカ福音書は、支配欲と被支配欲の課題をすでに述べていました(4章5-8節)。悪魔は全世界をイエスに見せ、「自分にひれ伏すならばこの国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と誘惑をしました。その時イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(4章8節)と答えました。ここには罪を乗り越える原理が記されています。礼拝をする・神を愛するということです。しかしこの原理だけでは曖昧です。どのような神であるかが言われていないからです。

わたしたちが礼拝している神は十字架のイエスです。この世の権力者から排斥され殺された方です。その悲劇を予測しながら、なお毎日他者のために生き・隣人を愛した方です(10章25-37節)。日々利他的に生きるという十字架を背負ったために、十字架で殺された方がわたしたちの礼拝する対象です。日曜日わたしたちが十字架のイエスを礼拝する行為は、平日わたしたちが自分の十字架を背負う行為を後押しします。「イエスが主である」という告白や、「ナザレのイエスだけが自分の支配欲や被支配欲という罪を贖ってくれた救い主・キリスト・神の子なのだ」という敬虔な贖罪信仰は、普段の生活で「人に仕えるけれども、自分自身は堂々としている、誠実な振る舞い」に繋がらなくてはいけません。自分の尊厳を保ちながら利他的に生きることが求められています。その振る舞いが、神の子として生きる、キリストに倣う生き方です。

今日の小さな生き方の提案は、「日々自分の十字架を背負う」ということの実践です。人生は辛いものです。しかし逃避をしてはいけません。煽られて誰かの悪口を言うことで一時溜飲を下げても、依然課題は残ります。むしろ人生の苦難を自分の十字架として引き受けることが大切です。被害のような負うべきでない苦難もあります。誰のせいでもない苦しみもあります。自らの責任の結果としての苦労もあります。自分自身の十字架とは、それらの多くの苦難の中で「自分の尊厳を保ちながら担いうる利他的な行為」のことです。自分が馬鹿にされるようなことや、自分の利益になることは、「十字架」ではありません。自分の十字架について一律の答えもありません。自分で見つけ、自分で担うことが重要です。礼拝でヒントを得て、自分の十字架を見つけ、日々十字架を背負って生きましょう。その生き方に復活と永遠の命が約束されています。