共同体全体の祝い 出エジプト記12章43節-13章10節 2015年7月26日礼拝説教

アメリカに留学していた時(1999-2002年)の旧約聖書学の師匠は、ナンシー・デクラッセ=ウォルフォードという長たらしい名前の白人女性でした。苗字が長いので「Dr. Nancy」と呼ばれていました。ナンシー教授の口癖は、「聖書は共同体の本である」ということです。どんな本にも著者(たち)がいます。聖書を書いた人たちは独特の信仰を持った人々でした。自分たちが書いた本が自分たちを導くという信仰です。礼拝の中で読まれる本として、彼ら彼女らは聖書を書きました。その本が礼拝の中で読まれる時に(ユダヤ教徒は音楽のように今でも読むのですが)、神の考えがこの世界に明らかに示されると信じたのでした。聖書は礼拝共同体による礼拝共同体のための本です。

ナンシー教授は共同体の話の関連で、「モーセ五書(聖書の冒頭の五巻:創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)」を例に取り上げます。五書が、今申し上げた経緯で書かれた、最初の「聖書」だからです。モーセ五書のことをヘブライ語で「トーラー」と言います。しばしば「律法」と翻訳されます。この訳語からくる否定的なイメージにナンシー教授は警告します。

「トーラーは境界線boundaryを教える」というのが彼女の口癖です。トーラーは「教える」という動詞の派生語です。「教え」というのが直訳なのです。境界線というのは、「この中にいれば大丈夫だけれども、この外に出ると危ない」という線です。共同体の内側と外側を定める線を教えるのがトーラーの役割です。

どんな組織にも境界線があります。それによって自分たちが何者であるのか/何者ではないのかを定めるためのものです。そしてそれによって、外側から自分たちを守り保つためのものです。聖書を持つことも一つの括りです。聖書の言葉を信じること・守ることもそうです。境界線を踏み越えないことによって、わたしたちは安心と安全を得ることができます。

今日の箇所を読んで、ふと恩師の顔と恩師の印象深い口癖が思い出されました。というのも、今日の箇所には二回もトーラーという言葉が登場しているからです。「この規定は・・・同じように適用される」(12章49節)と、「主の教え」(13章9節)です。「規定」「教え」と訳し分けられていますが、同じトーラーという単語です。12章49節は「トーラーは・・・同じ/一つとなる」が直訳です。一つの共同体となるためにトーラーという本があるということを強調しています。また、13章9節は「主のトーラーは、あなたの口の中にあるだろう」が直訳です。トーラーの言葉を毎日ご飯のように食べることが求められています。神の言葉は口の中では苦いのですが、腹の中では甘い場合があります(黙示録10章9節)。境界線の内側を生きること(倫理ともいう)を教えるからです。信仰共同体は聖書を日常の霊的食事として食べる群れなのです。

さてナンシー教授の境界線の話を思い出したのにはもう一つの理由があります。今日の箇所が、あからさまに様々な人々を排除しているからです。たとえば、「外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない」(12章43節)という「掟」(12章43節・13章10節)です。外国人については詳しく「カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人」(13章5節)と先住民族が挙げられています。また先住者や周りに居る外国人だけではなく、「滞在している者や雇い人は食べることができない」(同45節)、「無割礼の寄留者は食べることができない」(同48節)としています。これはイスラエルの中に住んでいる外国人のことでしょう。

境界線を大切にしましょうという主張は、排他的な主張にも結びつきやすいものです。今挙げた排他的掟をわたしたちの礼拝にあてはめてみたらどうなるのでしょうか。前にも申し上げましたが、過越祭はわたしたちが毎週行っている礼拝の原型ですから、重ね合わせて考える必要があります。

まず日本国籍を取得した者だけが礼拝に参加することが許されます(同43節)。ただし強制的に同化させた場合は可能(アイヌ先住民族・琉球民族)。もし外国人であっても自分がその男性をタダ働きさせている場合にはバプテスマを施した上で礼拝に参加させることができます(同44節)。旅行で訪れた外国人(ビザなし)・労働者として雇っている人もだめです(同45節)。長期間住んでいる男性の外国人(ビザあり・特別永住許可あり)には、バプテスマを施した上で礼拝に参加させることができます(同48節)。

とてもありえない礼拝です。境界線が非常に狭く設定されているので、これでは決まった国籍・民族・職業・性の人しか礼拝できません。トーラーに書かれている境界線だけでは共に礼拝をすることが難しくなってしまいます。

キリストの教会は一つの物差しを持っています。イエス・キリストです。聖書に書いてある境界線が、果たして現代の世界にうまく重なるかどうか、そのあてはめはイエス・キリストの言葉や行いを基準にすべきです。教会が定める境界線はキリストの教会である限りキリストに倣うべきものです。

13章1節に「初めて生まれた子どもは神のものである」とあります。神のものにするということは、自分のものにしないということです。献金の時に「神のものを神にお返しする」と祈る通りです。13章1節は、人身供犠がその昔イスラエルの間でも行われていたことを示唆します。神のものとされた初子は犠牲として殺されるという習慣があったのでしょう。後に初子の代わりに別の動物が殺されることになります(13章11節以下)。

人身供犠や身代わりの犠牲は、キリスト者にとって、神が神の子を神ご自身のものとし全世界の身代わりに殺したという信仰と深く関わります。十字架の意義です。イエス・キリストの言葉と行いの頂点に十字架があります。愛と正義が、十字架の横の棒と縦の棒です。ナザレのイエスは様々な境界線を越える人(イブリーム:渡り者:ヘブライ人)でした。境界線の外側に押しやられ、社会で小さくされていた人々の隣人になるために、トーラーによって守られていたユダヤ社会の境界線をあえて踏み越えていきました。

たとえばトーラーによれば汚れたとされたハンセン病の人に触れました。トーラーを守れない罪人・職業的に汚れたとされた徴税人や娼婦と食卓を囲みました。フェニキアという外国に寄留している女性に親切をし、サマリア人と交わりました。神の愛は偏って不正義のために苦しむ人々に注がれるべきだからです。神の義は弱者への偏愛であり、そこに普遍的な感動があります。

この振る舞いは狭い境界線を維持したい人々、つまり権力者たちに嫌われました。彼らはイエスを殺そうとします。イエスは殺されることを覚悟して首都に行きます。そこで論戦をするためです。そこで貧しいやもめを弁護するためです。強烈な権力者批判の結果、イエスは十字架で処刑されます。

神はこのために初子を世界に送り込んだのでした。この死と復活のいのちが全世界の死の代価(過越の犠牲の最大・最後のもの)だったからです。イエスの十字架は地上での最上最善の愛と正義の結果でした。それと同時に、イエスの十字架と復活は、最大最後の愛と正義を達成するための、神の計画でした。神の初子は境界線を越える愛を偏愛という仕方で示し、神はすべてのいのちを境界線無しに赦す愛を初子によって達成したからです。

十字架と復活のイエス・キリストによって境界線は常に設定し直されます。簡単なことです。「もしイエス・キリストがここに居たら何をなさるか、何を言うか」を考えるだけのことです。それによって境界線が定まります。

わたしたちの礼拝にイエスが居たら、まず子どもが共に居ることを喜ぶことでしょう。子どもたちも当時境界線の外に排除されがちだったからです。クリスチャンではない人がいること、礼拝の最初から最後まで歓迎されていることにも喜ぶことでしょう。教会の礼拝が部分的であれ、教会員のみ・信者のみという境界線によって区切られてはいけません。スーツ着用を控えているのも、ふらっと立ち寄った人が境界線を感じることを恐れているからです。今はいろいろな人が奉仕していますが、これは「執事・牧師」と「その他の人、ただし奏楽者除く」という境界線を越えています。もちろん、外国の人や社会で生きづらい人、しょうがいや特性や病気を持っている人、LGBTの人がいても良いのです。いや、むしろ歓迎するぐらいの気構えが必要です。

その点、まだまだ礼拝に工夫が必要かもしれません。階段はバリアフリーの観点からは課題が残ります。健常者・日本人・大人・男性の説教ばかりというのもあまりよくないでしょう。イエスなら批判するだろうと思います。少なくともわたしに現れたイエス・キリストにあてはめるならば、「愛と正義を損なう部分がありはしなか」と言って批判するでしょう。

さてイエス・キリストという唯一の基準をあてはめることはどのようにして正しく行うことができるのでしょうか。あてはめに失敗することもありうるのではないでしょうか。

失敗しないための工夫は、「記念」と「記憶」にあります。13章3節に「奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい」、また同9節に「この言葉を自分の腕と額(眉間)に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない」とあります。記念(ザコル)も記憶(ジクロン)も、「覚える/思い出す/想起する」(ザカル)という動詞からの派生語です。

親がキリスト者ではなく、自分の意思が強く働いて教会に通い始め、「回心」してキリスト者となった人の場合、「救われたとき」を思い出すことが大切です。教会に来ると、「そのままで良い、あなたの罪はすでにキリストによって贖われて帳消しになっている、新しく生きよ」と慰められ励まされ、救われたという感覚。この初心に戻れば必ず愛と正義のあてはめができます。イエスならどうするかということは、イエスがわたしにしたことが何かを思い出すだけで分かります。救いの記念は「家族で初めてのキリスト者」の特権です。

親がキリスト者であって、自分の意思ではなく自然な運びでキリスト者となった人の場合、「伝えられた言葉」(同8節)≒聖書を身に付けて記憶することが大切です。クリスチャンホームの特権は、「そのままで良い(神から受けた自己肯定感)」を持っていることと、聖書に小さい時から親しんでいることです。「聖書に何が書いてあるか」の物理的量を増やしていく記憶努力が必要です。聖書の中の矛盾している箇所や多様な思想も、無視するのではなく自分の頭で統合していくのです。その時自分のイエス・キリストが現れ、ナザレのイエスならば何をするのかという、新しい生き方のあてはめができます。

イエス・キリストの振る舞いにならうことは教会が持っている境界線もゆさぶり、わたしたちを柔軟にしていきます。それは愛と正義の実現という境界線(トーラー)をつくります。イエスはトーラーを廃止するためではなく、トーラーを完成するためにこの世に来たからです(マタイ5章17節)。愛と正義が実現しているところではどこでも神の国があります(ルカ17章21節)。神の国は地上の境界線と別次元で実現し、世の終わりに完成します。

礼拝や儀式の中で記念と記憶を繰り返し、愛と正義という境界線の中で常に新しく生きましょう。その時教会は神の国という境界線の中にいます。