剣をさやに ヨハネによる福音書18章1-11節 2014年8月31日礼拝説教

イスラエル軍の攻撃がしばらく収まったことにほっとしています。しかし2000人以上のパレスチナ人が殺されたことに憤りを覚えるものです。今、剣はさやに納まっているにしても、いつ抜かれるかわかりません。剣を持つことそのものが問われているように思います。今日の招きの聖句のように、「剣を打ち直して鋤とする努力」が望まれます。

このように考えると今日の説教の聖句(今月の聖句でもある)ヨハネ18:11には、物足りなさが残ります。「剣をさやに納めなさい」というイエスからのペトロへの命令は、剣を持つことを批判していないように読めるからです。特にルカ福音書では、イエス自身が剣を所持することを勧め、武器の携帯を認めています(ルカ22:35-38)。マタイ福音書は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタ26:52)という警告の言葉を語り、武器使用について批判をしていますが、武器の携帯については沈黙しています。

武器携帯を国レベルの軍備・武装にあてはめて考えると、イエスは自衛のための戦争をする軍隊を肯定しているように読めます。正当防衛を国レベルで認めるという国連の立場です。あるいはイエスは武力による抑止力を肯定しているとも読めます。典型的な例は在日米軍です。聖書を「核の傘」肯定のための後ろ盾にすべきなのでしょうか。古代の本である聖書を、わたしたちは現代の視点から解釈していかなくてはいけません。その際に参考になるのは、古代のキリスト者たちも良心的兵役拒否をしたという事実です。先ほどのマタイ26:52や、十戒の「殺してはならない」、山上の説教の「敵を愛せ」「(皇帝に忠誠を)誓うな」などの聖句を先人たちは素朴にあてはめたのでした。それは、警察予備隊が自衛隊に変わる時に、自衛戦争をしうる自衛官になるための誓いを拒否して辞めていった7300人の警察予備隊員の行動と重なり合う事実です。

わたしたちもまた、わたしたちの時代の課題を、聖書にぶつけて読み解いて、その解釈を自分の生き方としていく必要があります。キリストを信じるということは、そのようにして日々の現実を聖書にぶつけ、聖書を現実の日々に起こすことなのです。今日の箇所の解釈にあたって重要な視点は、ヨハネ福音書が他の福音書と異なり、十字架へと積極的に向かうイエスを描いているということです。それが軍備に頼る国のあり方を鋭く問うているのです。自公連立政権は「戦争ができる国づくり」を強引に推し進めています。その時代にどのように聖書を読み生きていくのでしょうか。ヨハネの特徴に照らして、キリストの十字架への道を考えてみましょう。

たびたび申し上げているとおり、わたしはイエスの直弟子であるゼベダイの子ヨハネがヨハネ福音書を書いた可能性が高いと思っています。そして18章からは加筆部分ではなく、原著者ヨハネの筆に戻ります。このゲツセマネの園(1節)でのイエス逮捕の場面、それに続く秘密裁判は極めて臨場感のある筆使いです。まさにその場に居た者だけが書きうる描写でしょう。そこに聞伝えで書いたマルコとの違いがあります。ガリラヤ民衆と共に生きたイエスを描くマルコの筆は見事なものではありますが、受難物語についてマルコは、彼以前に出来上がっていた言い伝えを丸ごと再録したと言われます。

ヨハネは十二弟子のみならず不特定多数の「弟子たち」がそこに居たと証言します。最後の晩餐に引き続き、男性も女性もユダヤ人もサマリア人もギリシア人も大人も子どももそこには居た可能性があります。そして、他の福音書では「十二弟子がみな逃げた」と書くところを削除します。実際、ペトロともう一人の弟子は逃げずに裁判の場所まで行ったからです(15節以降)。さらに、(おそらく裁判にも関与し)イエスの埋葬を良心的に行ったニコデモとアリマタヤのヨセフという最高法院議員の男性弟子たちや(19:39)、十字架と復活の場面までイエスに従った愛弟子や女性弟子たちを考慮に入れているからです(19:25-26、20:1-10)。信頼のネットワークをかたちづくった弟子たちは逃げていないのです。そうではなく軍隊によって強制的に排除されかけたのでしょう。

ヨハネは正確にローマ軍の関与を証言しています。「一隊の兵士」(3節)は、千人隊長に指揮されたローマ軍一部隊の意味であり(12節も参照)、それは600人からなる正規軍です。史上最強の軍隊が楯・鎧・剣を完全装備して大挙して来たのです。それはマルコの描く「適当に武器を持った群衆」ではないのです(マコ14:43)。戦後沖縄の米軍が強引に農民から土地を奪っていった時に、多くの人々が抵抗しました。史上最強の米軍に普通の民が対峙したのです。ゲツセマネはその場面に似ています。

わたしはここで軍と弟子たちとの衝突があったと推測します。怪我人が弟子たちの間にも生じたと思います。ペトロがマルコスに斬りかかる前に兵隊からの暴力的な振る舞いがあったのではないか。イエスを捜す最中に、イエスをかばおう・隠そうとする人々の血が流されたように思います。軍隊というものはそのような暴力組織だからです。ましてやローマ軍はユダヤ人たちを支配し、突然にユダヤ人の右の頬を殴りつけたり、下着を略奪したり、一ミリオンの距離、荷物を運ばせたりできたのですから(マタ5:39-41)。そう考える場合に、「わたしを捜しているのなら、この人々(弟子たち)は帰してやりなさい(本田訳)」(8節)というイエスの言葉が生きてくるのです。イエスは弟子たちのいのちを守ろうとして、仲間たちの解放を要請したのです。

ヨハネはゲツセマネの祈りの内容を知っています。イエスが十字架で殺される宿命にあることを「杯を飲むこと」に喩えていたことを知っています(マコ14:36)。11節の「アッバの与えた杯は飲むべきだ」という言葉は、マルコの描くイエスよりも積極的です。「杯を取り除けてください」と祈りながら、渋々杯を飲むのではないからです。ローマ軍と弟子たちとの衝突の最中、イエスは自ら進んで逮捕されていきます。イエス自身が前へ向かったのだとヨハネは描いています(4節)。それはその場にいる仲間を守るための責任ある行為です。そしてそれはすべての人々を救い出すための責任ある行為でもあります。十字架への大きな一歩となるからです。

「誰を捜しているのか」「ナザレのイエスだ」「わたしである」(4-5節)。ここにはユダの接吻がありません(マコ14:45)。あの逸話は、ユダのみを悪役に仕立てようとした後代の言い伝えなのです。ヨハネの描くイエスはユダを「悪魔」「盗人」とは評しますが、細かい逸話でユダを貶めようとはしません。ユダが銀貨30枚でイエスを売り渡したとも書かないし、その後自死をしたとも書きません(この点はマルコも同様)。ヨハネにとってもっと重要なことがらはローマ軍とイエスの対話・対面・対峙にあります。

ここで「わたしである」(5・6・8節、6:20も参照)と訳されている言葉は、ヨハネ福音書の鍵語であるエゴー・エイミです。「わたしはある」とも訳せます(8:28他)。イエスは、自分が「ナザレのイエス」であることを、ある意味で肯定しています。そうでなくては仲間への乱暴は止まらないのですから。この意味で、「わたしだ」という訳は正しいものです。しかも、「(ガリラヤ地方の)ナザレのイエス」と呼ばれることを、イエスは恥としていないのですから、「確かに差別されているガリラヤ地方の者の一人だ」という意味も込めて、「わたしだ」と言い切ったのでしょう。

しかし別の意味でイエスは「ナザレのイエス」ということを超えた存在でもあります。「わたしはある」というのは神の名です。「わたしはなりたい者になる」という意味の名前です。「わたしはある」は、神の本質が自由だということを示しています。この意味も含めて、あえてエゴー・エイミと言っているのですから(エイミだけでも意味は通じる)、イエスはすべてのレッテル貼りを否定しているとも考えられます。「あなたたちは指名手配であるナザレのイエスを捜しているけれども、『わたしはある』なのです。『政治犯』『サヨク』『被差別地域出身』というくだらないレッテルを個人に貼ることを止めなさい。あなたたちの意志によって捕まえられるのではありません。わたしが逮捕を望むから進み出たのです。軍隊の力でも、わたしの自由と尊厳は奪えません。わたしは十字架で殺されることを覚悟しているし、それがわたしの選んだ道なのです。」

丸腰で軍隊に立ち向かう、このイエスの気迫に千人隊長の率いる一部隊が気圧され後ずさりをし、地に倒れます。軍隊を引き連れ軍隊に頼ったユダも一緒に倒れます(5-6節)。この物語は軍隊という暴力組織に頼ることの愚かさを教えています。本当に力を持っているのは、「ナザレのイエスとはわたしだ」と実名を名乗って意見を言い、弱い立場の人と共に生きる人なのです。本当に力を持っているのは、「わたしはある」という態度を持ち、魂を滅ぼすことのできない者たちを恐れない、穏やかで毅然とした個人なのです。本当に力を持っているのは、すべてのいのちを丸ごと無条件に肯定する十字架の愛を完成させたイエス・キリストなのです。

この十字架の愛によって、ペトロの加害行為が批判されます。ヨハネ福音書だけが加害者ペトロ・被害者マルコスと実名を挙げ、右の耳の傷と言います。この細かい情報も史的信ぴょう性が高いものです。力関係で言えば、マルコスにし返すぐらいは許されそうです。さっきまでローマ兵と一緒になって仲間を痛めつけてきた者だからです。しかしイエスは報復を認めません。剣はさやに納めるべきであり、さやごと棄てるべきです。剣を使い返すならローマ兵と同じです。むしろ、アッバの杯を飲むべきです。十字架の愛に倣うなら、相手の生命身体は無条件に丸ごと肯定しなくてはいけません。暴力的な国家権力に対しても暴力で抵抗してはいけないのです。良心的非暴力抵抗運動こそが十字架への道です。

このことを国レベルにあてはめて考えてみましょう。個別的自衛権を日本は持っているのでしょうか。憲法9条が制定される時、時の首相吉田茂は「9条によって日本は個別的自衛権を持たない」と国会答弁しています。「なぜならあらゆる戦争は自衛の名のもとに始められるから」と理由も述べています。アーメン、その通りです。吉田答弁があったからこそ、先ほど紹介した警察予備隊員7300名の誓約拒否があったのです。剣は持たないのが一番です。そうすれば剣を取ることはありえません。丸腰の国には独特の気迫があるものです。

「さやに入った剣による抑止力」は有効でしょうか。ペトロと同じように、人類は最先端の科学による新型兵器を使いたがる傾向を今でも持っています。人間の欲望を甘くみてはいけません。また米軍が駐留しているから隣国が攻めてこないという神話は本当でしょうか。この抑止力有効論によって軍需産業・死の商人が儲かっているので、疑いの眼を向けるべきでしょう。新型の剣とさやを買わされる羽目になっているのは納税者なのです。軍拡競争は愚かです。わたしは自衛隊を災害救援隊に変え、世界中の米軍基地を撤去すべきと考えています。世界の中で「わたしはある」という国に日本がなってほしいのです。

仮に丸腰の日本が侵略されたらどうすれば良いのでしょうか。国内法に従って加害者・被害者を特定して裁くべきです。また自衛戦争のみを認めている国連憲章に従って侵略国を裁くべきです。武器を持たない国に100%落度はありません。外国の軍事政権が支配し国内法を廃した場合には、非暴力抵抗運動で民主化するのです。その際に「わたしはある」という態度が役に立ちます。