十二の泉 出エジプト記15章22-28節 2015年9月6日礼拝説教

「ビールのおいしさが分かるためには人生が苦いことを経験しなくてはならない」という言葉を聞いたことがあります。人生は苦いものです。「苦い(マラ)」という言葉は、ルツ記の中で印象深い仕方で用いられています。人生に振り回されて故郷に戻ってくるナオミという女性の物語です。

飢饉によって夫と二人の息子と共に外国に亡命したけれども、結局夫にも息子にも死に別れ、息子の妻ルツと故郷のベツレヘムにナオミは帰ってきました。その時彼女は、自分をナオミ(快い)と呼ぶな、むしろマラ(苦い)と呼べと周りに語ったのでした(ルツ記1章20節)。人生は苦いものです。

海を渡る救いを経験したイスラエルの旅が始まりました。あの感動的なミリアムに導かれた礼拝から(20-21節)、三日の道のりを民は歩きました(22節)。「三日の道のり」という距離は、エジプトという国の影響の外に出たことを意味します(3章18節、5章3節、8章23節)。ファラオや神々を拝ませる影響力の外に、イスラエルは出ました。出エジプトは終わったのです。ここから、荒野の旅が始まります。

民は何らの不平不満もなく三日間を歩き抜きました。礼拝の余韻が残っていますから、喜んで歩いていたのでしょう。そこに水が見つからなくても、不平はありませんでした。マラという土地に着いた時に、水がありました。民はみな喜んだことでしょう。水筒にあったかもしれませんが、基本的には三日間新たな水なしで生活をしていたのですから。ところが、その水はとても飲めたものではありませんでした。荒野においては塩分の強すぎる水が湧くことがあるのだそうです。

人間の心は不思議なものです。糠喜びの後に不平が起こるのです。水が見つからないままだったら、民は不平を持たずに歩き続けたかもしれません。期待はずれの水だったから、民は指導者の責任を問います(24節)。かなり勝手な期待だったのですが、こういうことはよくあります。「何を飲んだらよいのか」という問いは、身勝手な問いですが、しかし根源的な問いでもあります。罪とは身勝手な振る舞いでもあります。そして、その罪の只中から大切な質問が出されます。人生によくある「苦い」経験の最中に、わたしたちは何を飲んで魂の渇きを潤し、魂のいやしを得ることができるのでしょうか。

ところで、民だけが苦い思いをしたのでしょうか。三人の指導者たちも独特の苦さを経験しています。それは中間管理職のような苦しみです。板挟みです。ミリアムからすれば、あの礼拝の感動が三日で冷めてしまうことに失望を感じます。アロンはどうでしょう。モーセの通訳として直接民に向かって道順を伝え、また民からの不平も通訳のアロンにまず直接来るのですから、心の負担が重いものです。そして、最終的に道順や宿営の場所を決めるモーセは、完全に民と神との間で板挟みです。この三人にとっても人生は苦いものです。

主はモーセに一本の木を見せました。荒野の苦い水に茨の類を投げ込むと、化学反応で飲める水になることもあるそうです。合理的に説明しなくても構いません。ここでは奇跡が起こっているからです。ただし、「木」や「茨」という鍵語を考慮に入れて読み解くことが重要です。

中世のキリスト者たちは、ここで苦い水に投げ込まれた「木」はイエス・キリストの十字架の木を示していると解釈しました。この解釈は、真理の一面を切り取る、優れた読み解きです。苦い水が十字架によって甘い水に変わるということは、わたしたちが自分自身の人生をどのように生きるべきかを教えます。

人生は苦いのですがわたしたちはそこから逃げることができません。キリストを信じたとしても、人生の苦さから逃げることはできません。何を飲むべきかと言えば、やはり苦い水を飲むしかない、苦い杯を受け取るしかありません。しかし、信仰を持っているとそれは飲める水なのです。なぜなら、信仰とは、この苦い杯をイエス・キリストが先に飲んでくれたと信じることだからです。わたしたちの人生の苦さを、すべて飲み込み、十字架ですべての苦難と罪を背負って殺された方がいます。わたしたちのせいで・わたしたちのために・わたしたちの代わりに、十字架で虐殺された方、イエス・キリストです。この方は三日目によみがえらされました。苦いだけで人生は終わりません。苦難をくぐりぬけて、復活が必ず約束されています。

人生は苦いものです。しかし十字架と復活のイエス・キリストを、わたしたちの人生の模範例・典型例・代理として信じる時に、わたしたちは苦い水を永遠のいのちが湧き出る泉の水として飲むことができるのです。茨の冠は、逆説的に栄光の冠です。

25節には「その所で」という言葉が二回も繰り返されています。マラ(苦い)という土地、苦い水を甘い水に変えたその所に踏みとどまることが大切です。人生の苦さから逃げてはいけません。逆に苦い水から逃げる時に、わたしたちはすぐに渇くのではないでしょうか。

民にとって苦い水から逃げることは、エジプトに戻ることでしょう。モーセたち指導者にとって逃げることは、その役職から降りることでしょう。これらは人生の責任を放棄することです。キリストの十字架と復活は、それぞれを人生の責任に引き戻し、共に前に歩くように向かわせます。

「わたしはあなたを癒す主である」(26節)。「わたし・主・あなたを癒す者」が語順どおりの直訳です(岩波訳参照)。癒す(ラーファー)という言葉の意味合いは、「元通りに復興する」「よみがえらせる」「立ち直らせる」というものです。わたしたちが普段使う「癒される」「癒し系」とは重なる面もありますが、少し違います。

キリスト信仰は、阿片ではありません。信仰による癒しは「あなたはそのままで良い」という言葉にとどまりません。そのままで良いという言葉に癒されることもありますが、それ一辺倒では危険な場合があります。悪人が「自分は悪いままで良い」と開き直る危険、善人が悪人の暴力に対して「自分が我慢すればよいのだ」と奴隷的忍耐を強いられる危険があります。癒しにはプラスアルファが必要です。

主の声に聞き従うこと・主の目に正しいことを行うこと・主の命令に耳を傾けること・主の掟を守ること、つまり新しい生き方を身に付けることです(26節)。主がモーセに与えた「掟と法」(25節)は、具体的には20章以下に記されている「律法」です。その掟をイエスはまとめました。すなわち神を愛すること・隣人を愛すること・(被造物も含め)互いに愛し合うことです。

十字架のイエスを信じて人生の苦さを飲み、魂の癒しを経験する者たちは、復活のキリストを信じて新しい生き方へと立ち直らされていきます。礼拝をささげ、自ら進んで他人の隣人となるという、「他者に仕える人生」が始まります。この生き方に本当の癒しがあります。

マラでの経験を経て、イスラエルの民は次の宿営地に向かいます。オアシスからオアシスへと荒野を移動していきます。エリムという土地に着くと、そこには十二の泉と七十本のなつめやしがあったそうです。このあっさりとした記述にもさまざまなメッセージが込められています。

マラとエリムは対比されています。マラでは「水」(マイム)という単語しか用いられていませんが、エリムでは「泉の水」(27節)というように「泉」(アイン)という単語が新たに使われます。マラでは植物の繁茂が報告されませんが、エリムではなつめやしの木(テマリーム)が茂っていたとされます。ちなみに、「そこの水は苦くて」(23節)とあるのは、「マリーム(苦い) ヘム(それらは)」という表現です。テマリームとマリームが語呂合わせとなり、対比されています。いのちと死の対比です。

マラは人生の逆境の象徴であり、エリムは逆境の逆転の象徴です。エリムの語源は、おそらく「神々」でしょう。非人間的な扱いをこうむり苦い人生を経た者たちが、神の似姿として・神の子として尊厳を回復されたことを、マラからエリムの旅は象徴しています。毎週の礼拝はマラとエリムの循環です。

十二の泉は、イスラエルの十二の部族に対応しています。それぞれの部族ごとの宿営ができたということでしょう(民数記2章参照)。つまり全員が十分に泉の水をそれぞれがいただくことができたということを言いたい数字です。そして、泉(アイン)は、目(アイン。26節)と同じ綴りです。

七十は、最初にエジプトに移住したイスラエルの人数七十人と、現在のイスラエルの長老たちの人数七十人に対応しています(1章5節、24章1節)。七十本のなつめやしは、イスラエルの民の象徴です。またなつめやしは義人の象徴です(詩編92編13節)。義人とは、「主の目にかなう正しいことを行」う人のことです(26節)。マラからエリムへ新しい生き方を選んだ人々を示しています。泉(アイン)のほとりに宿営する者が、主の目(アイン)に正しい者たちなのですし、イスラエルは罪赦された義人でなくてはいけないのです。

さて、なつめやしからは「蜜」が作られました。なつめやしは乳と蜜の流れる地の象徴でもあります。こう考えると、マラからエリムは荒野の最初の一歩ですが、40年間に渡る荒野の旅の要約・鳥瞰図でもあります。わたしたちの人生の一日でもあり、わたしたちの歴史全体の要約でもあります。わたしたちは毎日人生の苦さを味わい、キリストによる癒しを体験するものですが、一体どこへと向かって、生まれ変わるのでしょうか。わたしたちの千年先の希望は何でしょうか。それがわたしたちの一日を方向づけるのです。

以前は「千年」という言葉を大げさな表現と考えていましたが(ペトロの手紙二3章8節)、「核のゴミ」について考える時に、千年でも足りないことを思わされます。生命に危害がなくなるまで、放射性廃棄物は10万年/100万年安全に保管しなくてはならないのだそうです。わたしたちの世代は、世界中の核のゴミの処分と保管に責任を負っています。「地球資源」(これも身勝手な言い方ですが)を貪り尽くすだけではなく、一つの生命体としての地球を破壊し尽くす、人間とは一体何者なのでしょうか。

フクシマ後、わたしたちは歴史の目標を全世界の苦い水が甘い泉の水に変わり、地球生命体が復活することに置きます。イエス・キリストは、すべての被造物を贖い、買い戻し、癒し、立ち直らせるために100万年先の未来から、こちらに向かって歩き続けています。

わたしたちひとりひとりは、泉のほとりに植えられたなつめやしの木です。苦い水へと神の手によって投げ込まれ、遣わされていく、主の目に正しい木です。日々の生活で手一杯なわたしたちではあります。しかし自分たちの子孫のいのちのために、核のゴミをなるべく出さないこと、出したゴミを片付けることを、誠実に少しでも行うことがキリストに倣うことになります。人生の苦さを癒されたキリスト者だからこそ、世界の苦さを引き受けることができるはずです。自分に何ができるかを祈り続ける一週間でありたいです。