多くの罪が赦されたことは ルカによる福音書7章36-50節 2017年1月1日礼拝説教

本日の箇所は非常にややこしい言い伝えの経路をたどってルカによる福音書に収められた物語です。似たような物語が、ヨハネによる福音書12章1-8節にあります。マルコによる福音書14章3-9節にも、マタイによる福音書26章6-13節にもあります。四つの福音書に載せられているというだけでも物語の重要性が分かります。新共同訳聖書は小見出しの下の並行箇所に、上記3つを挙げていませんが、学術的には同じ一つの物語の言い伝えが大元にあったことは確かです。その一つの物語の二つの版のうちマルコは一つだけを持っていました(マルコ版)。ルカとヨハネはもう一つの版を持ち(ルカ・ヨハネ共通版)、マルコ福音書をも目の前に置いています。ルカ・ヨハネは二つの版を見比べながら、それぞれ独自色を物語に盛り込んでいいきます。

少し煩雑な言い伝えの経路の話を、ルカ福音書の特徴を浮かび上がらせるために、申し上げます。なおマタイはマルコを丸写ししているので以下では省きます。元々の言い伝えは、「シモンという人の家の会食にイエスが招かれた時のこと、一人の女性がイエスに高価な香油をかけた。食卓を囲む人々は驚く一方で、その行為をイエスは最大限に評価した」というものです。

マルコ版では、ハンセン病患者のシモンがイエスを招きます。その家に入ることは全員宗教的に汚れた存在になることを意味します。そして女性は頭に香油をかけます。この行為により女性が伝えたい意味は、神に呪われたとされていた十字架が実は戴冠式であるということです。荊の冠(部落解放運動の象徴でもある)はイエスの王冠であり、十字架は王座であることを示し、女性はイエスをメシアと任命しています。十字架の意義を見抜いた炯眼が女性の評価される理由となっています。メシア就任という点はヨハネもマルコにならいます。

ルカ・ヨハネ共通版では、女性は頭ではなく足に香油をかけ、涙で足を洗います。女性のイエスに対する愛情や、仕えるという姿勢に力点があります。「足を洗う」という奴隷の仕事への言及は、イエスの群れにおいては仕えるということが最重要なのだということを示しています(44節。なおヨハネ13章1-20節も参照)。

次にルカ・ヨハネ共通版を、さらにルカが独自の編集で発展させていった跡を見ていきましょう。

ルカだけは十字架の直前ではなく、イエスの活動の初期にこの出来事を置きます。首都エルサレムの近くではなく、ガリラヤ地方のナインという町での出来事とします(11節)。イエスだけに焦点が当たっているのではなく、ガリラヤ地方の一人一人の生活に焦点が当てられています。今までもガリラヤの人々はイエスとの出会いにおいて、特徴的な反応を示してきました。この箇所もその一つなのです。

ルカは物語の中心を罪の赦しに置き(41-42節、48-49節)、メシアの就任という主題を退けます。罪人と呼ばれている女性の行為が評価されている理由は、「多くの罪を赦された者は多く愛することができるということを証した」(47節)ということにあります。女性はイエスを信頼しきっています。だから「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」という突拍子の無い行動に出ます(38節)。この個性あふれる行いが罪人と呼ばれていた彼女を救ったのです(48-50節。なおマルコ2章5節、5章34節も参照)。罪の悔い改めはルカが好む主題です。彼女は潜在意識の中でイエスが自分の全存在を認めていることを知っています。その感謝の応答(悔い改めの実)が、彼女にしかできない行為となります。

この信仰深い女性と、信仰の薄いファリサイ派のシモンが対比されます(36・37・39・40節)。ルカはファリサイ派の人々から食事に招かれるイエスの姿を積極的に描きます(11章37節、14章1節)。ファリサイ派は徴税人との対比で常に批判されています(29-30節、15章1-2節、18章9-14節)。徴税人が罪人の代表例として挙げられていることを考えると、今日の箇所の女性は徴税人と同じ罪人代表としてファリサイ派と対置されています。世間で罪人とされた人が義人となり、世間で義人とされた人が罪人となる逆転がイエスにおいて起こるのです。逆転もルカの好む主題です(2章51-53節)。

わたしたちはルカ福音書を読み進めているのですから、ルカ福音書の特徴や強調点を尊重しながら、この物語を理解しなくてはいけません。ルカがこの物語をどのように用いているかが重要です。「罪人」とは何か。「罪」とは何か。「罪の赦し」とは何か。そして、わたしたちはこの女性のどのようなあり方にならうべきかを考えたいと思います。それがわたしたちの日常生活に良い変化をもたらすからです。

「罪人」とは何か。ここには翻訳の問題があります。「罪深い女」(37・39節)は、「罪人」ないしは「罪深い者」と訳すべきと考えます。「罪深い女」という翻訳に翻訳者の先入観や、読者を一つの方向性に導きたいという翻訳者の意図を感じるからです。文法的には、男性・女性にこだわらなくても良い場面で、なぜ女性の時だけ「罪深い女」とするのかが問題です(4章8節との対比)。あえて、「女医」「女子大生」などと言う時の先入観にも似ています。つまり、「罪深い女」という翻訳が「この女性が娼婦である」という先入観を広げています。米国でカーソン教授から、「新約聖書で罪深い女が登場したらすぐに『娼婦に違いない』と思い込むな」と教えてもらったことを思い出します。そんなことは本文に書いていないのですが、ほとんどの注解書が「この女性は多分娼婦」と無批判に言いのけます。「多分」という態度は学問的ではないでしょう。それは女性のみを性的存在として見る男性視点の解釈です。

そうではなく、この女性はナインの町で「罪人」呼ばわりされていた多くの人の中の一人です。それが文脈にも叶う素直な読みです(34節)。彼女が職業上罪人と呼ばれていたか、それとも家系上、あるいは病気や障害のためにそう呼ばれていたかは不明です。複数の理由がありえます。何らかの理由で律法を守ることができない人が罪人と呼ばれていたというだけのことです。

罪人とは、人間が拡大再生産するものです。「人を罪人だと決めるな」(6章37節)との教えは、わたしたちが他人をすぐに罪人に仕立て上げる癖を持っていることを示しています。それにより優越感を得るためです。皮肉な言い方ですが、最悪の罪というのは他人に罪判定を下し他人を断罪することなのではないかと思います。自分はできていることを隣人ができない場合に、自分の方がその人よりも人間として優れていると思い込むこと。神に向かって「この隣にいる罪人より自分の罪が軽いことを感謝する」ことです(18章11節)。

ファリサイ派のシモンは、明瞭にこの罪人を生み出すという罪を犯しています。彼は彼女が家に入った時に、「罪人だ」と断じ、その罪がイエスに伝染し、イエスも「罪人の仲間」となったと考えています。(39節)。シモンは二人も罪人を拡大再生産しています。ここに罪の典型例があります。

さて、この「罪」は物語において一貫して複数形で用いられています(47・48・49節)。借金の例え話においても、「五百デナリオン」「五十デナリオン」と数量的に表されているように(41節)、この物語は罪を数えられるものと考えています。単数形の罪、いわゆる「原罪sin」ではなく、「律法違反の諸々の罪」が話題になっているのです。

キリスト教会が伝えている「罪からの救い」は単数形の罪・原罪からの解放です。原罪とは、人間が根源的に倒錯しているということを示した教えです。罪人の拡大再生産も、原罪の一つの現れです。どんなに良い行いであっても、実は自己中心な意図があったり、結果として悪い行いになったりするものです。生まれながらに人間は逆立ちして生きているような存在だからです。良いことと思い込んで義人イエスを処刑するという愚行を行うことに原罪の本質が一番良く現れています。キリストは十字架によって全ての人に倒錯を教え、復活によって倒錯した者をそのままで生かし(赦し)、永遠の命を配り、倒錯をしない生き方へと悔い改めさせました。

物語の進行上、十字架・復活には遥かに至っていないのですから、ここで単数形の罪の赦しを持ち込む必要はありません。たとえばこの女性がイエスに対する愛を複数の行為によって示したとしても、女性の持つ単数の原罪が解消されるわけではありません。彼女が赦されたのは多くの罪なのであって、単数の原罪ではありません(47節)。人間の行いが神の救いを引き出したのではありません。

では、この物語でイエスが赦した複数の罪とは一体何を指すのでしょうか。二人の人の借金の例え話を手がかりに考えていきましょう(41-43節)。「金貸し」は神の例えです。そして五百デナリオンという多額の借金をした者が女性、五十デナリオンの方がファリサイ派のシモンに例えられています。比較の中で生きていて隣人より優れていると思っている人は、神に対して借金が少ないと言われています。言い換えれば、低額の借金をした人は、金貸しとしての神をあまり必要と感じないで生きることができる人です。医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です(5章31節)。すでに富んでいる人は借金をしないで生きていけます(6章24節)。

人との比較の中で安心する人は、自分が神に対して借金をしながら生きていることを忘れています。たとえば、日常生活の中で律法を守ることができているのは、神から命を与えられているからです。空気や太陽の光や雨の水を与えられているからです。健康が与えられているからです。大切なものは全部ただで神から与えられているのに、自分の生活を自分で得たかのように思い上がってはいけません。ある日突然命が奪われることだってありうるのですから(12章13-21節)。神から見れば律法をより守れたか守れなかったかは、同時に帳消しにできるぐらいの小さな違いです。なぜ神を見て謙虚にならずに、他人を見て傲慢になるのかが問題です。シモンに対してイエスは、あなたの毎日犯す比較の罪を覚えよと教えています。だからあえて、細かく両者の行為を比較して、比較され貶められる者の痛みを教えているのでしょう(44-46節)。この点で、金貸しとしての神を常に必要とし、神を求めている罪人たちの方がファリサイ派よりも「より優れている」のです。

その一方でイエスは女性に対して、「あなたが毎日後指さされて肩身の狭い思いをさせられている罪なんぞというものは存在しない」と教えています。「赦す」の別訳は「そのままにする」です。「罪有り」というレッテルは貼りたい人に貼らせておけば良いのです。そんな複数の罪というものは人間が勝手にこしらえたものなのだから、気にしないで堂々と生きれば良いと言うのです。創り主の神はそれらの諸々の罪を気にしないからです。

今日の小さな生き方の提案は、人と比べることを止めることです。むしろわたしたちは大らかな神の前に立つべきです。神の前でわたしたちは多くを赦されて命を与えられています。そのことに素直に感謝して精一杯の愛を神に示しましょう。シモンのように隣人に対して意地悪なことを考えるのではなく、この女性のようにただ神の前で自分らしく生きるということです。