夢の解き明かし 創世記40章12-23節 2020年1月5日礼拝説教

12 そして彼のためにヨセフは言った。「これがその解釈。かの三本のつるは三日だ。 13 三日のうちに、ファラオはあなたの頭を上げ、あなたをあなたの職位に戻し、あなたはファラオの杯を彼の手の中に与える。あなたが彼の献酌官となった最初の公正さにしたがって。 14 それ(状況)があなたにとって良くなった時に、実際もしもあなたと共に(いた)私をあなたが思い出したならば、どうか私に対して慈愛を行い、ファラオに向かって私を思い出させ、この家から私を出させてほしい。 15 なぜなら私はヘブライ人たちの地から盗まれてしまったのだから。そしてここでも私は彼らが私を穴の中に置くようなことは何もしなかった。」

献酌官たちの長は一気に自分の見た夢を話し、固唾を飲んでヨセフの解釈を待ちます。ヨセフの解釈は献酌官にとって、非常に良いものでした。三日のうちに釈放され、しかも元の地位に復職できるというのですから。「頭を上げる」という行為は「恩赦」の表現です。列王記下25章27節に類似の表現があります。バビロンの王が、捕囚とした元ユダの王に温情をかける場面です。これは王の即位の時になされる「恩赦」でした(新共同訳「情けをかけ」)。本日の箇所では、三日後のファラオの誕生日が「恩赦」の時となっています。

話は横道に逸れますが、日本国憲法にも「天皇による恩赦」が規定されています(憲法第七条六号)。昨年の天皇の即位の際にも「恩赦(減刑)」がなされました。21世紀に生きるわたしたちが、3000年以上も前の古代社会と同じ、不合理な制度を採用していることに驚きます。一人の人(天皇は公務員)の人生の慶事が、多くの人の刑罰を軽くするという仕組みは、刑法全体の体系(罪と罰についての社会全体の合意)をゆるがせにします。法治というよりは人治になりがちなので、君主制とそれに基づく恩赦の制度は問題です。少なくとも憲法七条は改憲した方が良いと考えます(できれば一条から八条も)。

ヨセフは献酌官の拘留を不公正であると判断しています。むしろ献酌官が最初に任用されたことはファラオによる公正な判断(ミシュパート)だったと考えます(13節)。ファラオは、宦官であり優秀な人物を献酌官に取立て、しかも献酌官たちの長としたのですから、元々彼の能力を高く買っていました。ファラオは、三日のうちに最初の公正な判断に立ち返るというのです。

ここからヨセフは自分の願いを献酌官にぶつけます。その言葉には彼の人生の振り返りが凝縮しているので、少し立ち止まって掘り下げてみます。

ヨセフの願いはもちろん自分の解放です。ヨセフは監獄の中で献酌官に示した自分の慈愛・奉仕を武器としています。情に訴えて、同じ慈愛を自分に示してほしいと必死の願いをしています。「慈愛(ヘセド)」(14節)は、変わらない誠実さを含む愛情です。首相補佐官にも匹敵する地位・献酌官たちの長には、一人の囚人の釈放をファラオに進言することが可能です。ヨセフは恩赦をテコに自由になろうと、ロビイングを試みているのです。その際に自分に対する差別語「ヘブライ人」(15節)をも記憶の助けにしています。嫌悪と差別の象徴であるヘブライ人という言葉を、逆にヨセフは武器とします。

ヨセフは11年前(37章2節「十七歳」、41章1節「二年の後」、41章46節「三十歳」から推定)の、「兄弟によって売り飛ばされたこと」(37章)と現在の監獄暮らしを同じ枠組みで思い出しています。あの時も何の理由もなく「穴」(ボル)に突き落とされたのでした(37章20節以下)。この「監獄(円形の家)」は別に穴蔵というほどではない軟禁状態ですが、しかし、ヨセフにとっては同じ「穴」(ボル)です。同じ単語ボルが用いられているのは偶然ではありません。理由もなく「目上」の者に突き落とされ、自由が奪われるという体験が共通しています。

ヨセフは売り飛ばされたことを「盗まれた」と表現しています(15節)。この言葉は十戒の第八戒と同じ動詞です(ガナブ)。人間の身体の自由を奪うこと、行動の自由を奪うことは、十戒に列挙されるほどの根源的な罪です。ちなみにユダヤ教徒たちの安息日礼拝ごとの区切りは37章から40章までです。この11年間には一貫した主題があります。それは他者によって不当に拘束される体験です。失われた11年・奪われた11年・盗まれた11年です。

ヨセフの体験は彼の子孫がエジプトの奴隷になることや、バビロンで捕囚になることを前触れしています。さらに、イエス・キリストの十字架という苦難をも前触れしています。この意味で、ヨセフは遥か彼方にキリストを指し示す「メシア的人物」の一人です。

16 そして調理官たちの長は、彼が良く解釈したということを見、ヨセフに向かって言った。「私もまた私の夢の中に(いた)。そして見よ、私の頭の上に三つのパンの籠(があった)。 17 そして最上の籠の中に、ファラオの食物の全てのうち調理官の作った物(があった)。そして鳥が私の頭の上から、その籠から食べ続けている。」 18 そしてヨセフは答え、言った。「これがその解釈。かの三つの籠は三日だ。三日のうちに、ファラオはあなたの頭をあなたに接するところから上げ、あなたを木の上に吊るす。そして鳥があなたの肉をあなたに接するところから食べる。」

調理官(パン焼き職人)たちの長は気を良くし自分の夢をヨセフに紹介します。しかし解釈は不幸な未来への予測、三日後の処刑というものでした。

「パン」は別訳がありえます(新共同訳「編まれた」。ヘブライ語由来の「穴のあいた」を採る場合)。ここではエジプト語由来の「白いパン」を採ります。この単語以外にもヨセフ物語にはエジプト語の借用が多いからです。また、18節には二回「あなたに接するところから」が記されていますが、一回目は写本によっては記されていないので、元来無かったものと推測します(新共同訳「切り離し」の部分)。つまり、献酌官も調理官もどちらもファラオから頭を上げられ恩赦の対象になる。ここまでは同じだということです。その方が20節の実際に起こった出来事と合致します。ファラオは二人の頭を同時に上げたのです。両者ともに同じ扱いであることに不満を感じた後世の写本家が、「あなたに接するところから」を挿入し、物語を分かりやすく色分けしようとしたのでしょう。その結果斬首刑が予告されることになりました。しかし実態は斬首刑の後に木に架けられて晒されたというよりは、木に吊るされたまま放置されたということではないかと思います(エステル記7章9節他参照)。その方が22節とも合致します。ファラオは彼の首を切っていません。

二人の夢はほぼ同じ。ここで要となるのは、ほとんど同じ二つの夢をヨセフが明暗・色分けした解釈の道筋です。夢の解釈=預言とは、自分に与えられている情報をもとに、公正な神の導く歴史を冷静に洞察する行為です。

ヨセフは、この数日二人と過ごし、二人がどのような人物であるのかを直接知りました。これが重要な判断材料となります。多分、ヨセフは献酌官の方が調理官よりも人格的に優れていることを知ります。あとは三日後がファラオの誕生日であることや、その日に恩赦が行われるであろうということは、ポティファルの家にいたので知っています。

これらの基礎情報を元に、献酌官の夢を聞いたとき「恩赦によって献酌官が復職する/すべき/してほしい」とヨセフは考えます。ファラオがどのような人物かはよく知りません。しかし、この献酌官を最初に任用した人物ならば、ささいな罪を理由にして彼を監獄に入れたままにしておくのはもったいないと考えるはずです。さらに、献酌官は調理官よりも地位が上、よりファラオに近い職務です。彼が復職することは、解放を願うヨセフにとってもありがたいことです。ヨセフは期待も込めた解釈をします。

二つ目の調理官の夢を聞いた時に、ヨセフは解釈の方向を修正します。微妙な差があったからです。調理官の夢にファラオは出てきません。調理をファラオは食べられないようです。鳥が食べる状況からは、吊るされ野ざらしにされることしか連想できません。「権力者の気まぐれにより、調理官は恩赦の途中で処刑へと切り替えられるのではないか」。この監獄は、死刑執行人たちの長であるポティファルの家に付設されたものです。ここから何人も死刑囚が出て吊るされていることを筆頭執事だったヨセフは知っています。

その後の三日間は三人にとって気まずい時間となります。調理官はヨセフのことを憎んだか、それとも悄然と自らの死を受け入れたか分かりません。少なくとも、献酌官は気をつかってあまり喜べなかったと思います。

20 そして第三の日に、ファラオを生まれされた日となり、彼の奴隷たち全てのために彼は宴会を行い、献酌官たちの長の頭と調理官たちの長の頭とを上げた、彼の奴隷たちの真ん中で。 21 そして彼は献酌官たちの長を彼の献酌官の上に戻し、彼はファラオの掌の上の杯を与えた。 22 そして調理官たちの長を彼は吊るした。ヨセフが彼らのために解き明かしたように。 23 そしてかの献酌官たちの長はヨセフを思い出さず、彼を忘れた。

 エジプトにおいてファラオは神の子であり人々の崇拝の対象です。「奴隷(エベド)」は礼拝する者という意味も持ちます。全ての者がひれ伏す中で、献酌官・調理官の頭が上げられます。そして二人の顔を見た時にファラオの気が変わり、献酌官のみを復職させ(彼の代わりに長とされていた者と交代させ)、調理官を処刑します。王による任意の恩赦の裏返しは、王が任意に刑を重くすることです。合理的理由は必要とされません。王は傍らにいたポティファルに調理官たちの長の死刑執行を命じます。

復職した献酌官たちの長はヨセフの存在とヨセフとの約束を思い出しません。ポティファルの顔を毎日見ているにもかかわらず、ヨセフの存在は忘れ去られます。こうしてヨセフの苦難はあと2年、合計13年続きます。しかし結果としては、その方がより良い未来を用意することになります。ヨセフが恩赦のおまけとして解放されたら、献酌官の家来や夢解釈の専門家にはなれても、ファラオのナンバーツーになることはなかったでしょうから。恩赦などという王の任意によらず、ヨセフはこの後東地中海世界全体を襲う飢饉に対応するために総理大臣とされます。忘れられるという悪いこともまた良いことに変えられます。神は「ついていない13年」を逆転させる方です。この神において解放なしの隷属や、帰還なしの捕囚や、復活なしの十字架はありえません。

今日の小さな生き方の提案は、「主よ、いつまで私の苦しみは続くのでしょうか」と問うことです。この問いは正しい。確かにわたしたちは誰かに忘れさられ、穴に落とされ、長期間放置され、不条理の苦しみの中におり、いつ這い上がれるのかを知りません。いつまでかと問いながら、わたしたちはさらに「主よ、わたしを思い出してください」と正しく願いましょう。わたしたちは主がわたしたちを忘れず覚えていることを知っているからです。

だからわたしたちは正しくいつまでかと問い、正しく復活を願います。救い主は、ご自身が定めた時に必ずわたしたちを蘇らせてくださいます。その判断の公正さを信じましょう。ヨセフはずっとヤコブと共に居た方が良かったのでしょうか。断じてそうではありません。神の導く歴史に期待しましょう。