大祭司一族の前で 使徒言行録4章1-12節 2020年11月29日礼拝説教

1 さて(彼らが)民に向かって話しているので、祭司たちと神殿の長とサドカイ派の人々が彼らに接して立った、 2 彼らが民を教えていることを通して、またイエスにおける死者たちからの復活を告げていることを通して、(彼らは)困惑しつつ。 3 そして彼らは彼らに手を伸ばし、そして彼らは牢獄の中へと翌日まで置いた。というのも既に夕方であったからである。 4 さてその言葉を聞いた人々の多くは信じた。そして男性の数は約五千となった。 

 午後3時ごろに足の不自由な人の癒しがなされ、それに引き続いてペトロの説教がなされました。さらに続いてペトロとヨハネと歩けるようになった人は民を教え、民にイエスの復活を告げます(2節)。新共同訳聖書は「ペトロとヨハネ」「二人」としていますが原文は「彼ら」であり、歩けるようになった人も含まれえます(14節参照)。彼らの布教活動は夕方まで続いたというのですから(3節)、2時間ぐらい神殿の柱廊を占拠していたのでしょう。

 この様子はただごとではありません。祭司たち・神殿の長・サドカイ派の人たちは三人の前に立ち、民と三人を分けます(1節)。ただ単に「来た」というよりも「対峙」している図です。そしてこの厄介な三人を排除するために、牢獄の中に留置します。彼らにはそれだけの権力がありました。特に神殿の長は大祭司に次ぐ地位です。

ペトロとヨハネは抵抗しません。かつて剣を携行しゲツセマネの園で大祭司の手下に打ちかかって右の耳を切り落としたペトロが、今回は丸腰で逮捕されます(ルカ22章50節)。逮捕されることを嫌がってイエスの名前を否定したペトロが、イエスの名前のために逮捕されます(ルカ22章54-62節)。大祭司の知り合いで大祭司の自宅の中庭まで入ることができたヨハネも(ヨハネ18章15-16節)、そのことを何も言わずに逮捕されます。二人とも獄で鞭打たれることも覚悟しています。あの時飲むことを拒否した「苦い杯」(マルコ10章19節)を、ペトロもヨハネも黙って飲んだのです。なぜでしょうか。

歩けるようになった人が率先して牢獄へと向かったからだと推測します。彼は感謝にあふれています。十字架にかけられ復活させられたイエス・キリストに感謝をし、ペトロとヨハネが自分になした善行に感謝をしています。自分を礼拝者として立たせ歩かせた、この二人を助けたい、二人と共に牢獄にも行きたい、一緒に磔にされても構わないと考えています。この男性の佇まいに、ペトロとヨハネはイエスを思い出し、あの時の悔い改めを行います。

 この有り様を見たことも大きな要因だったと思いますが、三人の言葉を聞いて信じた人々が多くいたというのです(4節)。信じなかった人もそれなりにいたことも伺わせますが、成人男性だけで五千人が教会員となったとは、驚異的な人数です。今までは女性たちと子どもたちを合わせて三千百二十人だった群れが、全体では一万人以上の群れとなったわけです。もちろんこの五千人には象徴的な意味も含まれています。成人男性だけで五千人いたガリラヤ湖畔の給食の奇跡と対応しているからです(ルカ9章14節)。五つのパンと二匹の魚を食べた人と同じ数の人々が主の晩餐を分かち合うことになることは、ナザレのイエスが始めた「神の国運動」と「キリスト教会」の連結を意味します。

5 さて彼らの指導者たちと長老たちと律法学者たちがエルサレムにおいて集まるということが翌日に起こった。 6 そして大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司の子孫からの者たちが(集まった)。 7 そして彼らを真ん中に置いて、彼らは尋問し続けた。「何の力において、あるいは、何の名前において、あなたたちは、あなたたちごときがこのことをしたのか」。

 翌日に開催された裁判は、二か月ほど前に行われたイエスの裁判とよく似ています(ルカ22章66節)。指導者たち・長老たち・律法学者たちは七十一名によって成る「最高法院(サンヘドリン)」というユダヤ自治政府の最高決議機関による裁判です(5節)。最高法院は国会と最高裁判所が一体化したような組織です。三分の二はサドカイ派によって占められ(指導者たち・長老たち)、残りの三分の一がファリサイ派(律法学者たち)です。この指導者たちの詳しい説明が大祭司一族です(6節)。七十一人全員が「議員」であり「判事」なので、指導者たちだけを「議員」(新共同訳)とするのは不正確です。

 厳密に言えばアンナスは前大祭司です。すでに女婿のカイアファに大祭司職を譲っていますが、一種の「院政」を敷いていた黒幕です(ヨハネ18章13節)。ヨハネとアレクサンドロについてはよく分かっていません。

 イエスの裁判において最高法院が尋問した内容は、「あなたは自分自身をキリストや神の子だとみなしているのか」というものでした(ルカ22章66-71節)。イエスの答えは微妙なものでした。「はい」にも「いいえ」にも理解できる玉虫色の回答を、最高法院は「自白」の供述として悪用します。神を冒涜した罪で死刑に処されました。

 ペトロとヨハネの裁判において最高法院は「彼らを(14節によれば歩けるようになった人も傍にいた)」真ん中に置きます。イエスの裁判は被告としてイエスだけでしたが、十字架刑において三人でした。ペトロとヨハネの裁判には参考人として歩けるようになった人もおり、合計三人で受けた裁判でした。二つの裁判は似ているけれども異なります。尋問の内容も、イエスに対する尋問と異なります。「何の力において、あるいは、何の名前において、あなたたちは、あなたたちごときがこのことをしたのか」。

 「このこと」(7節)とは、目の前の人物を歩けるようにしたことです。彼らは一晩留置している間に、美しい門に毎日置かれていた男性と、歩けるようになった男性が同じ人物であることを確認していました。そしてこの男性が、十字架で殺されたナザレのイエスを復活のキリストと信じていることも確認していました。最高法院は、裁判の場でペトロとヨハネにイエスの名前を否定させようとしたと推測します。歩けるようになった人と二人を分断させようとしたのです。「あなたたちごときが」と強く訳出しました。代名詞主語の強調に居丈高な態度がにじんでいます。イエスの裁判の際に逃げ出した弟子たちを、彼らは侮っています。「死刑の恐怖で脅せばもう一度イエスの名前を否定するだろう」と高をくくっているのです。

8 その時ペトロは聖霊に満たされて彼らに向かって言った。「民の指導者たち、また長老たちよ。 9 もし私たちが本日強くない人の善行について——この男性が何において癒されたのか――調べられているのならば、 10 以下のことがあなたたち全てのために、またイスラエルの民すべてのために知られるべきだ。すなわちあなたたちが十字架につけ、神が死者たちの中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名前において、彼においてこの男性があなたたちの前で元気に立っている。 

 かつてイエスは言いました。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなど心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ12章11-12節)。この約束がペトロに実現しました。彼は聖霊に満たされた後/聖霊に満たされたので、権力者たちの前で言うべきことを堂々と語りました。質問に対してずばり回答しています。何において癒されたのかという問い、何の名前においてこのことをしたのかという問いに対して、「ナザレ人イエス・キリストの名前においてわたしたちはこの男性を歩けるようにした」と明言しています(9-10節)。権力者たちが二か月前に十字架刑に処した、あのナザレ人イエスの名前を、このまま拘留され十字架にかけられても良いという覚悟で、ペトロは明らかにしています。

 「強くない人」(9節)はペトロ自身を指すかもしれません。ガリラヤ地方の言葉とナザレ人の仲間であることを否定し、イエスという名前を否定し、大祭司の自宅の中庭から逃げて泣いた、強くない人ペトロ。復活のキリストの赦しを受けて、ペトロも復活させられたのです。主なる神の聖霊を受けて、ペトロ自身強くない仮庵でありながら、聖霊の住む堅固な神殿とさせられました。ペトロは歩けるようになった男性に自分の姿を重ね合わせています。

11 この男性は石である。それはあなたたち家を建てる者たちによって見捨てられた(石)、それは隅の頭へと成った(石)。 12 そして他の誰においても救いはない。なぜなら天の下に人間の中に他の名前は与えられていないからである、それにおいて私たちが必ず救われる(という名前は)」。

 11節の「この男性(フートス)」という言葉は、9節・10節でも使われ、そこでは歩けるようになった男性を指しています。11節においては二重の意味があるでしょう。イエスをも指し、歩けるようになった男性をも指すと解します。ペトロはこの男性に十字架で殺され三日目に起こされたイエスの姿を見ています。神殿の片隅に棄てられていた石が、神殿の礎石となった。人間扱いされていなかった一人の人が神に尊重され礼拝者となったことは、神殿を一つ建て直すほどの大きな救いなのです。この男性を見ながら、「ナザレ人イエス・キリストを見よ」とペトロは語ります。

 「天の下に人間の中に」(12節)は、「人間社会全体の中で」という意味でしょう。人間の社会で生きる私たちが必ず救われる名前は、ナザレ人イエス・キリストだけとペトロは証言しました。人間社会ではないその他の被造物社会においては、イエス・キリストの名前なしにも救いはあります。神に委ね切った動植物はそのまま救われています。また、人間社会においても、もしかすると私たちがそれによって救われる名前はあるかもしれません。ガウタマ・シッダールタ(釈迦)、ムハンマド、モーセ、老子、ソクラテスなどなど。しかし必ず救われる名前は、ナザレ人イエス・キリストだけです。キリスト教はこの固有の名前にこだわる宗教・信仰です。それは弟子たちがこの名前を否定するところから、逆に掴み直し、この名前において救われたからです。

 今日の小さな生き方の提案は、ナザレ人イエス・キリストという名前を「着る」ことです。この物語は一貫して「名において」と、イエスという名前の中にある救いを語っています(3章6節、4章7・10節)。すっぽりと包まれる感覚です。イエスの霊は私たちの中に入り、信仰告白へと私たちを導き、問い詰められる場面でも必要な証言をする勇気を与えます。それに対してイエスの名前は、私たちを覆う衣服です。聖霊は私たちを内から変えます。しかしイエスの名は、私たちを棄てられた石ころのまま、その外側を大切に覆います。イエスとは「主は救う」という意味の名前です。自分を石ころのように捨てるペトロに対して、「あなたは岩だ、あなたを基礎として教会を建てる」とイエスは言い続けました。復活前も復活後も。「主は救う」という名前に包まれて、あの弱いペトロも仲間たちと共に「イエスは主。この名の中に救いが必ずある」と告白できました。無理に良い人や強い人にに変わる必要はありません。自分にも人にも打ち捨てられた姿のままで、それを覆っていただくだけで良いのです。そうすれば立ち・歩くことができます。それが名を着るという救いです。