大胆に語る 使徒言行録4章23-31節 2020年12月13日  礼拝説教

23 さて(彼らが)去らせた後、彼らは仲間たちのもとに来た。そして彼らは祭司長たちと長老たちが彼らに向かって言ったこと全てを報告し続けた。 24 さて(彼らが)聞いた後、一致して彼らは声を神に向かって上げた。そして彼らは言った。「統治者よ。あなたこそが天と地と海とそれらの中にある全てをつくった。

 奇妙な裁判は終わりました。判決ではなく脅しだけがなされ、ペトロとヨハネと歩けるようになった人は「仲間たちのもとに来」ます(23節)。「仲間たち」の意味合いは「自分たち」です。ペトロとヨハネだけではありません。今まで物扱いされ、美しい門に置かれ続けていた人が、自分自身へと回復させられています。仲間のいるところがすなわち彼自身になれるところです。さらに、この三人だけでもありません。この事件を経て全体が男性だけで五千人になったと言われているのですから、この事件を実際に見た人・直後に三人の話を聞いて入信した人たちも、「仲間たちのもとに来た」ことでしょう。23節の一つ目の「彼ら」をどの程度まで広げて理解するか、私たちの信仰が問われています。ペトロとヨハネだけに限定してはもったいないのです。

 仲間たちのいた場所は、聖霊が降ったあの宿屋ではないでしょうか。最後の晩餐が行われた、広い二階座敷のある宿屋です。この時点で、宿屋を経営する人や雇われている人々はみなキリスト者になっているかもしれません。少なくとも百二十人は入ることができる二階に大勢の人がすし詰めになって、釈放された三人の話を聞き続けます。23節二つ目の「彼ら」は、裁判の場面を経験した三人であることは明らかです。祭司長たちと長老たちの言ったことを全て報告できるのは三人だけです。

 彼らが言われた言葉は脅迫でした。「ナザレ人イエスという名前について一切話してはいけない」(18節)。この脅しの言葉は、信徒たちに神への叫びを呼び起こしました。「一致して」とは、同じ言葉を唱和したというよりも、異口同音に大声で祈ったという意味でしょう。あるいは一人の人が祈り、それをみんなが聞き、また二人目が祈りという形で数珠つなぎの祈りをしたのかもしれません。「連祷(リタニ―)」です。ある人は神の性質を語り、ある人は聖句を引用し、ある人は具体的事件を引用し、ある人は神に願うのです。権力者たちの脅迫は、教会に祈りの課題を与え、さまざまな声を合わせて共に祈ることを要請しました。初代教会は祈りの家です。

 「第一の祈り手」は天地創造の神を告白しました。「統治者よ。あなたこそが天と地と海とそれらの中にある全てをつくった」(24節)。この人は権力者に対して、真に権力を持っている方を対置させています。祭司長たちも長老たちも、真の統治者ではありません。むしろ、全世界を創造された神こそが全世界の統治者なのです。歴史を導く神は天地創造の神です。

この創造信仰は、旧新約聖書を貫く姿勢です。その昔ユダヤの民はバビロン捕囚の下で、太陽や月や星を拝む権力者バビロニア人に対置して、太陽や月や星を創造した神への信仰を告白したのでした(創世記1章)。創世記から申命記までを収めた「五書」が編纂されたのはバビロン捕囚下と推測します(前六世紀)。創造論は進化論に対する対抗や競合ではありません。真の統治者と偽の統治者の対置と見分けが、創造論の真の問題なのです。初代教会の信徒たちにもその太い線が継承されています。迫害と脅迫に遭った場合、私たちは天地創造の信仰に立ち帰るべきです。

25 あなたはあなたの子の私たちの父のダビデの口の聖霊を通して言った。『なぜ諸民族は走り回り、また諸々の民は空しいことに構ったのか。 26 地の王たちは(そばに)立ち続け、また支配者たちは一緒に集まったのか、主に逆らって、また彼のキリストに逆らって』。

 創世記1章を意識した創造主への呼びかけを聞いた別の信徒たちが、別の角度から祈りを続けます。彼ら/彼女たちは詩編2編を引用します。「偽の統治者たち」の有様が、詩編2編に描かれているからです。

25節の冒頭は極めて稚拙な言葉遣いです。「~の」が連続しているからです。直訳するとくどい言い方ですが、ここは多くの人の言葉が重なってこのようになったと推測します。ある人は「あなたの子(イエス)を通して」と言い、ある人は「私たちの父のダビデの口を通して」と言い、ある人は「聖霊を通して」と言ったのでしょう。ルカはそれをまとめて一つの前置詞「~を通して」とします。誰を通してもいずれにせよ、神(あなた)が語った言葉です。

「なぜ諸民族は走り回り、また諸々の民は空しいことに構ったのか。地の王たちは(そばに)立ち続け、また支配者たちは一緒に集まったのか、主に逆らって、また彼のキリストに逆らって」。この引用文は、ギリシャ語訳旧約聖書にぴったりと一致します。信徒たちは三人の報告を聞いた時に、宿屋で聖書を開いたのです。その時、詩編2編が当てはまると考えた信徒たちがいました。そして連続した祈りに聖句を差し込みました。「第二の祈り手たち」です。

偽の統治者たちは、詩編2編の「地の王たち」「支配者たち」に当てはめられました。聖句を引用した「第二の祈り手たち」は統治者という言葉から連想したのでしょう。第一の祈り手の語る天地創造の信仰からすでにずれています。さらに詩編2編はイスラエル以外の諸々の民を想定している詩です(25節)。詩編2編は信徒たちの直面している課題にうまく合致していません。十字架の事件に当てはまる外国はローマ帝国だけだからです。「諸民族」とは言えない状況です。ここにもずれが起っています。

このずれを放置したまま当てはめ作業は続きます。

27 というのも実際のところ彼らはこの町において集まったからだ。あなたが油注いだ聖なるあなたの子イエスに抗して、ヘロデもピラトも、諸民族やイスラエルの諸々の民と共に、 28 あなたの手とあなたの目的が予定したことをなすために、起こすために(集まったからだ)。 

 第三の祈り手が明確に当てはめます。「地の王たち」「支配者たち」とは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスと、ローマ総督ピラトのことを指すというのです。ヘロデがイエスの裁判に関わったということはルカ福音書だけが伝えている出来事です。ルカと使徒言行録は一つながりの本です。ヘロデは過越祭のためにたまたまエルサレムに立ち寄っただけであり、イエスを殺すために「集まった」(27節)わけではありません。ピラトもヘロデと相談をしているわけではなく、厄介者の裁判をヘロデに押し付けようとしただけです。

 しかし初代教会の信徒たちにとって、このような「偶然」は存在しません。全ては神の「必然」です。歴史を導く神が、予め用意していた救いの出来事を起こすために、ピラトとヘロデを集めてキリスト殺しに関与させたと、彼ら/彼女たちは信じました(28節)。使徒信条の中に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一文があります。ピラト、すなわちローマ帝国を名指しで批判する精神は、脈々と受け継がれることになります。第三の祈り手は、ピラトとヘロデのしたこと、あるいはしなかったことをきちんと指摘します。「この権力者たちは釈放すべきイエスを死刑に処した。しかしそれは神の救いの計画を実現させたに過ぎなかった」。

 ヘロデはイドマヤ人のルーツを持つユダヤ人です。教会に集う外国人から見れば、れっきとしたユダヤ人でありユダヤ人社会の統治者です。詩編2編はユダヤ人を含みませんでしたが、第三の祈り手は、その聖句を現実に引き寄せてずらしていきます。「ヘロデもピラトも、諸民族やイスラエルの諸々の民と共に」(27節)。ユダヤ人ヘロデを含めると同時に、「イスラエルの諸々の民(十二部族全体という趣旨)」も、十字架の責任者とされます。この論調は、ペトロとヨハネの説教に一貫しています。「あなたたち、または私たちイスラエルがイエスを殺した」。こうして、ピラトからヘロデへずらし、ローマ帝国からイスラエル全部族にずらしたことにより、祭司長たち・長老たちの罪があばかれます。

29 そして今や主よ。あなたは彼らの脅しについて見よ。そしてあなたはあなたの奴隷たちに、あなたの言葉を全く堂々と語ることを与えよ。 30 同時にあなたの手を伸ばせ、またあなたの聖なる子イエスの名前を通して癒しとしるしと奇跡とを生じさせよ」。 31 そして彼らが祈ると、彼らが集まっていた場所が揺れた。そして彼ら全ては聖霊に満たされ続けた。そして彼らは堂々と神の言葉を語り続けた。

 第四の祈り手が締めくくります。祭司長たち・長老たち最高法院のメンバーたちが行った卑劣な脅迫を、神が見るように、神が裁くようにと彼/彼女は祈ります。「地の王たち」「支配者たち」である最高法院は空しいことに構っている。今なお神のキリスト・イエスに逆らっている。イエスを殺した罪を悔い改めていない。ナザレ人イエスの名前を一切口にするなとは何事か。どうか私たちが神に聞くことができるように。どうか私たちが聞いた神の言葉を堂々と語ることができるように。どうかイエスの名前を通して癒しとしるしと奇跡を起こすことができるように。

 教会に「アーメン」という相槌が響いたと思います。ペンテコステの時と同じ感動が起り、その場が揺れました。二か月前、師匠イエスは釈放されず宿屋に帰って来ることはありませんでした。しかし今、大きく増えた弟子集団たちのところに、釈放された仲間が帰ってきました。一粒の麦がもし死ななければ、このような快挙は生まれませんでした。イエスが死んで、いや殺されて、いや甦らされて、いやご自分の霊を配って、神の救いの歴史が進展します。あの弱い弟子たちが、強められ共に立ち、共に祈り、共に前に向かって歩いています。ばらばらになって逃げずに神の言葉を堂々と語り、逮捕されても裁判を受けても正面から突破して釈放されるようになったのです。彼ら/彼女たちは、「十字架前夜」を生き直しながら、神の言葉を語り続け仲間を増やしています。ここに神の手による癒しとしるしと奇跡があります。神の言葉とは書かれた聖書であり、それを現実生活にずらしていく解釈(証)です。

 今日の小さな生き方の提案は、初代教会の祈りに倣うことです。一人の人が祈ると、次の人がそれに呼応して祈り、別の人が聖句を持ち込むと、次の人がそれに呼応して祈る。祈りは鎖のようにつながり、わたしたちが直面している出来事をさまざまな角度から照らします。そのような連祷は、ただ一人の方による救いの歴史を浮かび上がらせます。ナザレ人イエス、神の子、神のキリスト、私たちの救い主、全世界の創り主であり全世界の歴史の導き手です。

 祈りの中に聖句を混ぜ込んでいくことをお勧めします。強引な引用でも構いません。ずれているぐらいが丁度良いかもしれません。不協和音が新しい世界を切り開きます。聖書という神の言葉は、霊的に解釈されることを望んでいます。現実と文字の落差に聖霊が働きます。人を裁いて殺す文字が、霊によって人を生かす神の言葉となります。共同の祈りの中で聖書が神として生きて働き私たちを生かします。この醍醐味を初代教会と共に追体験しましょう。