天に栄光、地に平和 ルカによる福音書2章8-21節 2016年5月15日礼拝説教

イエスが生まれたその日その時、真っ先に誕生を知らされたのは羊飼いたちでした。彼らは野宿をしていました(8節)。イエスが生まれた家畜小屋、寝かされた飼い葉桶と一貫している主題がそこにあります。暗闇の覆うこの世界で片隅に置かれているものたちに、神は光を当て温かい眼差しを注いでいるという主題です。世の中の常識の逆転と言っても良いでしょう。

自分の村に居場所がなく、遠いベツレヘムの家畜小屋で生まれざるをえなかったイエスが、神の子なのです。飼い葉桶に寝かされ(7・12・16節)、人の子扱いすらされていない赤ん坊が、実は神の子であるという逆説があります。

「あなたがたのために救い主(ソーテール)がお生まれになった」(11節)と天使は羊飼いたちに告げます。「救い主(ソーテール)」という言葉は、当時のローマ皇帝アウグストゥスの呼び名でした(1節)。ここにも逆説があります。権力者たちに運命を翻弄された、か弱い赤ん坊が、実は世界全体を救う救い主であると聖書は語ります。今、思い上がり・権力ある者は、いつか引きずり下ろされます(1章51-52節)。

ローマ帝国の「全領土の住民」(1節)は、軍事力と恐怖によって支配されるべきではありません。人々は、支配者たちに対する恐怖を除かれた上で、「民全体に与えられる大きな喜び」(10節)を聞くべきなのです。天使たちは、本当の救い主が生まれたことを羊飼いたちだけに、告げました。ここにも逆説があります。アウグストゥス以外の救い主の誕生はローマ帝国の国家機密です。それが「特定秘密」にも指定されずに、一般市民に伝えられるとは何事でしょうか(マタイ2章参照)。案の定、羊飼いたちは不特定多数の人々に救い主誕生を広めてしまいました(17節)。

このようなさまざまな逆転現象は、天と地の対比と深く関わっています。14節の直訳は、「栄光、いと高きところにおいて神に。そして、地上に平和、(神が)喜ぶ人々において」です。新共同訳に二回登場する「あれ」は、ギリシャ語原典にはありません。動詞を補足しているのです。

わたしは第一の文を平叙文ととり、「栄光はいと高きところにおいて神にある」と補います。第二の文を「だから、地上に平和がすべての人々にあるように」と希求文と解釈します。天には神が居られ平和が実現している。それと同じように地上に平和が地上に実現するようにと祈るという趣旨です。「主の祈り」の「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りとの調和から、許される解釈でしょう。神の意志は天で実現しています。それだから、地上でも神の意志が実現することを希求するのです。

天にある平和とはどのようなものでしょうか。神のみに栄光が与えられ、それ以外の人々は平等になるという平和です(フィリピ2章1-11節)。天使たちが神を賛美している姿に平和が現われています。平和というのは礼拝をするということです。種々雑多な人々が、特定の人間ではなく、霊である神を賛美し、神に祈り、神を拝むときに、人間の作った階段・差別・支配と被支配の上下関係が克服されます。この場面で、特定のガブリエルという天使(1章19・26節)が登場しないことも示唆に富みます。匿名の天使が福音を告げ、匿名の天使の大軍が共に賛美をします。ここに平等な交わりがあります。

天にある平和は一度として地上に実現したことがありません。一般には「ローマの平和」と呼ばれる天下泰平の時代でしたが、聖書は軍事力による支配や、属州を総督たちによって巧みに統治するローマ流の平和を、真の平和とみなしていません。ローマ皇帝を救い主・神の子として拝ませる支配を認めていません。だからこそ、「地上に平和があるように」と祈るのです(14節)。皇帝に栄光がある社会というものは、人間に階段を設ける社会です。皇帝を頂点にして、そこに近ければ栄光(名誉)が強くなるというピラミッド社会です。皇帝の身の回りにいる人たちと、羊飼いたちがここで対比させられています。

天の平和を受け取る人は誰なのでしょうか。「御心に適う人」(14節)の直訳は、「(神が)喜ぶ人」です。平和の受け取り手を「神の意志を行う人」に限定することは、少し狭い解釈です。誰が御心に適うか/適わないかという線引きが起こることも貧しい議論です。そのような貧しい議論が、羊飼いを「歓迎されない職業の人」とみなしたり、マリア・ヨセフ・イエスをナザレ村から締め出したりしたからです。神が喜ぶものすべてが、平和の受け取り手です。

10節に「民全体に与えられる大きな喜び」とあります。ここでの民(ラオス)はイスラエルに限定されず、世界中の民をも意味します。聖書の神は、すべてのいのちを創り、いのちを喜ぶ方です。だから「神が喜ぶもの」とは、すべての人間であり、さらに言えばすべての被造物です。そこには羊飼いも含まれ、羊たちも含まれます。

神の愛は普遍的です。神がすべてのいのちを喜んでいるからです。しかし、この世界には「喜ばれないいのち」があります。世で歓迎されない人々がいます。地上には平等な平和がありません。普遍的な愛を示すために、神の愛は地上では偏愛というかたちをとります。

今まで物語の舞台は真っ暗闇でした。家畜小屋の三人が登場人物だったからです。羊飼いが群れの番をしている場面まで暗い背景です。ところが、天使たちの登場によって舞台に強い照明が照らされます。闇から光へ。劇的な変化です。「主の栄光」(9・14節)は、神がそこに居られることを示します。神はどこに注目しているか、神の顔は誰に向かっているかを示します。

強烈なスポットライトが羊飼いに照射されます。徹夜で重労働をしている者たちに向けられます。王宮に暮らし絢爛豪華な生活をしている者たちにではありません。暖かく柔らかい寝床に休んでいる者たちにではありません。

本多哲郎訳聖書の小見出しは、2章1-7節<村中からうとまれたイエスの誕生――「けがれ」にみちた罪の子>、同8-21節<祝いにかけつけたのは、「賤業」の羊飼いだけ>です。肩身の狭い思いを植えつけられ、小さく縮こまらされた人々に、スポットライトを当てていることが良く分かる小見出しです。かつて古代西アジア社会では、羊飼いは王のたとえとして用いられました(詩編23編も参照)。ダビデ王自身も元羊飼いだったので、旧約聖書の羊飼いは人々を世話する政治指導者として描かれています。しかしイエスの時代には、次々に新設される律法(べからず法)を守ることが困難なことから、賤しい職業とみなされていました。新約聖書は羊飼いを再び良いイメージを持つものに復活させています(ヨハネ10章11節等)。

羊飼いの存在をも喜ぶ愛の神は、救い主が生まれた日に救い主に会うという名誉(栄光)を、この世界で喜ばれていない羊飼いたちに与えました。依怙贔屓です。しかしふさわしい選びでもあります。良い羊飼いは、一匹の子羊が迷子になった時に九十九匹の羊を置き去りにしても必死になって探し出すものだからです(15章1-7節)。ベツレヘムの村中の家畜小屋をあたって、一人の赤ん坊を根気よく探す仕事は羊飼いに向いています。

ここからの羊飼いたちの行動は、平和というものが何をすることなのかを、教えています。

平和は一旦日常の労働を脇に置くことから始まります。羊飼いたちは羊の番を脇に置いて、赤ん坊を探しにベツレヘムに行きます(15節)。神がわたしにスポットライトを当て、神が何かしら新しい呼びかけをなされ、神が意外な新しい仕事を与えます。その言葉に聞き従うために、わたしたちは日常の労働を脇に置くのです。しかし、それはせいぜいほんの数時間のことです。こうしてわたしたちは働き過ぎから解放され、別の「より軽い荷物」を運ぶようになります。平和な礼拝とはそういうものです。

平和は飼い葉桶を目印に、生まれたてのいのちを探すことです。飼い葉桶を囲む夫婦を想像し、羊飼いたちは赤ん坊を探します。「なぜこの家族は家畜小屋に居るのか」を思い巡らしながら、汗をかきます。こうして共感の輪が広がります。排除されている羊飼いたちは、排除されている家族の気持ちが分かります。平和は、この世界で締め出されている人を探し当てることです(16節)。自分よりも弱いものを叩くのではなく、最も小さいものを中心に物事を考えることです。それは、この社会の仕組みを批判的に捉え直すことにつながります。毎週「飼い葉桶と十字架のイエス」と出会う礼拝でそれが養われます。

平和は、自分の体験や意見を人々に知らせ、人々と共に語り合うことです。そして人々が不思議に思うことや思い巡らすことを促すのです(17-19節)。「飼い葉桶に寝かされた赤ん坊が、全世界の救い主である」ということ、「わたしたちはその証人である」ということを、羊飼いたちは会う人会う人に伝えました。このような言葉が武力に優ります。暴力や武力は思考停止をもたらします。しかし、平和は絶えざる熟考であり、熟慮に基づく話し合いです。

「なぜ飼い葉桶に寝かされた赤ん坊が救い主であるのか」、人々はこの時点では納得できないので考え続けます。この問いに対する答えを著者ルカはペンテコステのペトロの説教で明らかにします。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主(キュリオス)とし、またメシア(キリスト)となさったのです」(使徒言行録2章36節)。ここにはルカ2章11節と単語レベルでの対応があります。ペンテコステ後を生きるキリスト教会は、答えを知っており、答えを語り続ける群れです。この答えの言葉を語る行為に平和があります。ローマ軍により処刑された方が神によみがえらされ、神が喜ぶすべての者に永遠のいのちを配り、仕えて生きるという悔い改めの道を教えておられます。わたしたちはキリストによって支配欲という罪を贖われ解放されます。一人ずつ罪赦された罪人が増えていくことにより、平和の輪が広がっていくのです。

そして平和は、神を礼拝すること・神を賛美すること・ただ神にのみ栄光を帰すことです(20節)。天使たちが行ったことを、羊飼いたちもその通り行っていることが分かります。この平和は、前に予告された神の言葉を確認することでもありました。この平和は、神を中心に全員が低い姿勢になることでもあります。この平和は、全員が良い言葉を語ることでもあります。この平和は、ほんの短い時間の実現されるものでもあり、また日常生活へと羊飼いたちを元気に帰すものでもありました(20節)。

わたしたちの礼拝で実現する平和は、前の週の「良い知らせ」が今や実現したことを確認することです。また、神のみに支配されることで、平等の交わりをつくることです。大きな声で賛美することで、リラックスして良い言葉を語ることです。聖書から「良い知らせ」を受け取り、月曜日からの生活で聖書が実現することに希望を置くことです。こうして、平和を実現する礼拝者は、日常生活へと帰っていき、次の週の礼拝を待ち望みます。

羊飼いに顔を向けた神は今日わたしたち一人ひとりにスポットライトを当てています。神の喜びを受けて、この礼拝でこの場に平和をつくりましょう。そして礼拝にヒントを受けた平和を、地上に実現していきましょう。礼拝は天と地の結び目です。それぞれの小さな人生の毎日を礼拝化していきましょう。