契約の書 出エジプト記20章18-26節  2016年1月24日礼拝説教

三ヶ月かけて十戒が終わりました。この後は、新共同訳聖書の見出しに従うと「契約の書」という法律のかたまりを読んでいきます(出エジプト記20章22節-23章33節)。「契約の書」という呼び方は、出エジプト記24章7節に由来します。

旧約聖書という本は(特に旧約聖書の中の法律文)、読みにくいものです。イエス・キリストが出てこないからです。また大昔の、しかも日本からはるか離れた西アジアの文書だからです。一口に法律と言っても、時代と文化が異なるので、法律の背景となる事情がよく分かりません。

キリスト教徒は、独特の工夫をして、旧約聖書を楽しんでいます。それは「イエス・キリストというレンズをあてて読む」という仕方です。今日の箇所でそれを試してみましょう。

出エジプト記20章18-26節は、前半と後半に分かれます。18節から21節までは、十戒のエピローグです。神が直接、十戒を民に与えたけれども、民の側は自分たちの代理人としてモーセを選び出すという物語です。22節から26節から、「契約の書」と呼ばれる法律の冒頭部分、「祭壇について」の規定が記されます。

まずイエス・キリストというレンズを、モーセという人物にあててみましょう。この場合は人物の比較です。この二人が非常によく似ていることが分かります。旧約聖書の登場人物にはイエスに似た人物が多くいます。これらの人物は、新約聖書に登場する(紀元後1世紀)、「来たるべきメシア」・救い主・イエスを、部分的に先取りしています。映画の予告編のようなものです。

「イエスは真の神の子であり真の人の子である」という信仰を、キリスト教会は持っています。その意味するところは、イエス・キリストが神と人間の仲介者、つまり「神から遣わされた者でありながら、わたしたち一人ひとりと同じ目線を持つ弁護士である」ということです。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という唯一神教の中でキリスト教は変わり種です。人間イエスを神の子として信じているからです。論理的一貫性を保っていないという短所はあるものの、わたしたちはむしろその長所を強調しています。それが「神と人との橋渡し役の救い主がおられる」という信仰です。

唯一神教の神は、人間とは遠い存在です(18・21節「遠く離れて立ち」)。「絶対他者」と呼ばれます。人間からは絶対に近づき得ない(近づいてはいけない)絶対的な存在です。「神を見ると死ぬ」という考えは、「人は罪深い」ということと一対の「神は聖である」という信仰と関係があります(19節。イザヤ6章も参照)。唯一聖である方だけが、罪を裁くことができます。

信者からすると、この神観念はかなり厳しいものです。わたしたちは常に神を畏れなくてはいけなくなります(20節)。おっかない親や教師の前でびくびく過ごす子どものようなものです。バランスが悪いと人間は萎縮してしまいます。禁止と奨励・励ましと慰め・笑いと憤り・悲観と楽観のバランスが、人間の生活には必要です。刑事裁判においても、被害者の側につく検事と、加害者の側につく弁護士がいなくてはいけません。

イエス・キリストは弁護士です。唯一絶対の神は検事であり裁判官です。人間は、神の語りを直接聞くことに耐えられません。検事である神の告発。その内容の正しさに、加害者・罪人であるわたしたちは耳を覆います。確かに気づかずに誰かを踏みつける倒錯をわたしたちは犯しています。裁判官である神の判決。その内容のあまりの厳しさに、わたしたちは素直に従うことができません。確かに「罪の支払う報酬は死」ではありますが。

イエスは神に向かって、わたしたち罪人の弁護を行います。「アッバ、この人たちを赦してください。何をしているのか分からないのだから。倒錯していることにすら気づいていないのだから」(ルカ23章34節)。これを執り成しと言います。間に入って、弁護をすることです。

キリスト教信仰は、遠く離れた絶対他者である神への信頼と同時に、いつも傍にいる絶対的な友であるイエスへの信頼です。この両者の霊である聖霊が、わたしたちと常に共におられるので、わたしたちは、遠さと近さ・正義と愛・励ましと慰めを、バランスよく同時に体験します。三つで一つの交わりと関係性が、わたしたちの人生を豊かにします。ここに三位一体の神を信じる大きな長所があります。

モーセは紀元前13世紀の人物ですから、イエスよりも1200年以上も前の人物です。この場面ではモーセという昔の人が、神と人との間を執り成す仲介者・弁護士であるイエスと、同じ役割をしていることが分かると思います。イスラエルの人々は、神と直接やりとりすることに恐怖しています(18-19節)。聖なる神と面と向かい、神に面接試験をされることは、仮にその目的が罪の予防にあったとしても、根源的に倒錯している罪人には耐えられないことだからです(20節)。そこで、モーセだけが神と面と向かって話し合いをする「民の代理人」となります(21-22節)。きわめて例外的な扱いです(33章11節)。

こうして、モーセは1200年後に登場する、ナザレのイエスを指し示します。教会における旧約聖書の楽しみ方の一つは、イエス・キリストに部分的に重なる人物を探すことです。そのためには、イエスという人がどのような人であったかを知っておくと便利ですが、しかし順番は前後しても同じです。モーセという人にイエスが似ているという発見でも良いです(時系列的には正しい)。時間的先後ではなく、質的先後関係が重要です。キリストを優先的な救い主と信じ、モーセを劣後したものとみなす。これが教会の立場です。

後半に移ります。「契約の書」という法律集の冒頭部分も、イエス・キリストというレンズをあてて考えてみましょう。この場合は、思想的発展を見るべきです。この箇所は十戒の直後に置かれている条文であり、しかもその冒頭が「祭壇について」という条文です。契約の書は同時代の西アジアの法典(ハンムラピ法典)と異なり、文脈がきわめて宗教的です。だから、キリスト教信仰という視点から読み直すことに適しています。

23-26節の規定をまとめると、「礼拝儀式に使う祭壇のためには人工物ではなく自然のものを使いなさい」という主張です。鋳造の神像を作ることの禁止(23節)、盛り土の祭壇の使用(24節)、自然石の祭壇の使用(25節)、階段の造作の禁止などは(26節)、「自然のものを祭壇に用いなさい」ということでしょう。それが第一戒・第二戒・第三戒の「細則」となります(3-7節)。

自然のものは、人が作ったものではなく、神が創ったものです。礼拝は手で触れない聖霊の神を拝むことです。具体的には神の名前を唱えることによって、わたしたちは礼拝をします。その伝統は、賛美歌でイエスの名前をあげて褒めることや、祈りの中でイエスの名前を通して祈ることに引き継がれています。名前というものは、霊である神がそこにおられることを示しています。

人間が作った物が、礼拝の中で拝まれてはいけません。建物そのものや、祭壇そのものは神ではないからです。宗教施設は救いを象徴するものです。教会の信仰は他力本願です。人間の造作(自力)によって救いを獲得できるかのような理解に導かないためには、自然のものを祭壇に用いることに一理があります。プロテスタント教会が簡素な礼拝堂を好むのは、「霊の神」を深めた思想的発展のゆえです。

当時の礼拝は犠牲祭儀によってなされました。わたしたちの日々の罪を羊や牛など動物たちに負わせて代わりに死んでもらう、それによって神に殺されずに生きるという信仰です(贖罪信仰)。祭壇は犠牲獣を置く場所なのです。イスラエルの民が共有している贖罪信仰を基にして、イエス・キリストの十字架の死を、神が神の子を犠牲獣として捧げたと信じるのが、キリスト教の贖罪信仰です(ヘブライ10章11-14節)。主の晩餐台は祭壇であり、パンとぶどう酒は犠牲となった神の子の象徴です。ここに贖罪信仰の発展があります。

「焼き尽くす献げ物」(オーラー)と「和解の献げ物」(シェレム)という単語も、イエス・キリストというレンズをあてて考えてみましょう。ヘブライ語オーラーは、ホロカウトマ(犠牲の意)というギリシャ語に翻訳されました。ホロカウトマは、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)の語源です。オーラーは昇るという意味です。献げ物を焼くことにより煙が天に昇り、神がその香りを嗅いで宥められるという考えに基づきます。アウシュビッツ強制収容所の高い煙突から、ユダヤ人の遺体を焼くことにより立ち上る煙と、イメージが重なります。無数のイエスがそこに居ます。

贖罪信仰は、イエスを最後の犠牲(オーラー/ホロカウトマ)と考えるものです。アウシュビッツの悲劇、誰かを犠牲にして得られる平和の偽善性を、わたしたちは贖罪信仰から批判します。これも贖罪信仰の現代的展開です。オキナワ、フクシマ、ヤスクニにも通じることがらです。

和解の献げ物(シェレム)の場合は、動物の全身ではなく一部分(脂身・尾状葉)を焼きます。残った部分は皆で食べたようです(24章参照)。ここにイエスの食卓運動と教会の「主の晩餐」「愛餐」の原型があります。

ヘブライ語シェレムは、「完全・円満」を意味します。シャローム(平和)と同じ語源です。イスラエルの民は、仲違いしている相手と和解の契約を交わすときに、敵である相手と共に食事をとります(創世記26章15-33節、同31章43-32章1節)。それによって円満な交わりを再構築します。そして普段は面と向き合うことができない神とも、そのような和解契約の食事ならば共に食卓を囲むことができると考えます(出エジプト記18章1-12節、同24章)。隣人だけではなく、神の前で神と共に食事をとるときに、真の平和で円満な交わりが完全にかたちづくられると考えるのです。

イエスは罪人として排除されていた人々を食卓に招きました(マルコ2章13-17節)。それだけではなく、罪人を「生み出していた」ファリサイ派たちをも食卓から排除しませんでした(ルカ7章36-50節)。そこでファリサイ派たちの悔い改めが起こり、和解の契約がなされることをイエスは期待していました。和解は、神の前で神の子と共に食事をとるときに実現する、真の平和です。主の晩餐において、イエスはパンとぶどう酒であるというだけではなく、準備する人・進行役・配餐役・奏楽者・参加者一人ひとりなのです。和気藹々とした円満な交わりをつくろうとする一人ひとりにキリストが表れています。

今日は、弁護士イエス、身代わりの犠牲イエス、食卓の主人イエスについてお話をしました。教会の信仰の基盤として旧約聖書とイスラエルの信仰伝統があり、それが今に至るまで発展し、未来に向かって展開していくということを示すためです。

わたしたちは円満な主の食卓に招かれています。そこから散らされ日常に派遣される意味は何でしょうか。贖われた者が贖う/執り成す者になるためです。仕えられた者が仕える者となるためです。自分の十字架を担われた者が、他者の十字架を担うためです。利他的な生き方を少しでも明日から始めましょう。