安息日の主 ルカによる福音書6章1-5節 2016年10月2日礼拝説教

ユダヤ人にとって安息日は「時間にそびえる宮殿」と呼ばれるほど重要なものです。礼拝用の時間・自分のために使わない時間を一週間のうちの一日設けることは、さまざまな意味で重要です。キリスト教会が週に一度礼拝をする伝統は、ユダヤ教から受け継いだものです。日曜日は元々平日でしたが、欧州全体がキリスト教を受け入れた時に、休日・礼拝の日とされたのでした。

本日の箇所もマルコ福音書をほとんどそのまま真似した部分です。ルカが削った部分ですが、マルコ版イエスは安息日がなぜ重要かを説明しています。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2章27節)。一週間に一度、労働をしないで休むことは人間のためになるというのです。現代風に言えば、労働者の権利として、週休一日制がしっかりと保証されなくてはなりません。礼拝する権利として安息日が大事というよりも、労働しない権利として安息日が大事という説明です。

「しない日」ということは語源的にも裏付けられます。安息日(シャバス)は「止める」という意味の動詞から派生しているからです。イエスもその点を重視しています。

聖書は労働しない権利のことを信仰的に理由付けしています。以前取り上げた出エジプト記の十戒に、第四戒として安息日規定が記されています(出エジプト記20章8-11節。旧約126ページ)。特に大切なのは、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(同11節)という理由です(創世記2章2-3節参照)。神が六日間の労働をし、最後に一日休んだということに倣って、人間も休む。なぜならすべての人は神の似姿だからです(同1章26-27節)。

創世記は、七日目の休みを含めて、天地創造の完成と考えています(同2章2節)。「週末」を充実したかたちでしっかり休むことが一週間の労働をしめくくります。ユダヤ人たちは週の七日目である安息日を、わたしたちの区切りで言えば金曜日の日没から始めます。たまたまでしょうけれども、現代社会が「ハナキン」から「週末weekend」の開始と考えることと重なります。

週末の休日が働き者の神のためになっているので、当然安息日は人間のためにもなります。安息日規定は人間のための休みを確保するという目的で作られました。すべての法律には法律が作られた時の理由や目的があります。とても大事です。人間を一日しっかりと休ませるためという理由や目的を忘れたり、そこからかけ離れた解釈をしたり、そのかけ離れた解釈を守ったりすることは良くないのです。

平和憲法と呼ばれる日本国憲法という法律にも、作られた時の理由や目的がありました。侵略することで周辺諸国に迷惑をかけたので、戦争を放棄したわけです。この原点は大事です。だから、現在周辺諸国が日本に迷惑をかけるかもしれないので軍備をすべきという主張はあまり説得的ではありません。また、そのような主張をもって、かつて侵略を正当化し、周辺諸国に迷惑をかけたことも忘れてはいけないことです。

「人の子は安息日の主である」(ルカ福音書6章5節)。この場合の人の子は「全人類」という意味でしょう。人間のために安息日が存在するということを明確に言い表しています。ここに、安息日規定の目的と理由があります。

そもそもの法律の目的や理由からかけ離れたところで法律をさまざまに解釈したり、意固地に守ろうとしたりするので、「ファリサイ派のある人々」は的の外れたことがらを問題にしています。彼らは、「麦の穂を摘む行為」が刈り入れという労働に当たることを問題にしました(1-2節)。「イエスの弟子たちは安息日に禁じられた労働をしている。だからけしからん」という論法です。

これはおかしな話です。例えば仮に、週末を利用して田園風景を見るために遊びに行って、ちょいと田んぼから稲の穂をつまんで、籾殻から出して食べたとしましょう。これは労働に当たるでしょうか。これはつまみ食いであって、働いているとは言えません。田んぼの所有者から労働賃金をもらっていないからです。むしろ、旅行の一環・休みの一環に含まれるでしょう。

労働というよりもむしろ、この麦の穂のつまみ食い行為は盗みに当たるのではないでしょうか。十戒の中の第八戒「盗むな」や、第十戒「欲しがるな」の規定違反の方が、よっぽど第四戒の「安息日を覚えよ」という規定違反よりもふさわしいように思います。盗みという点を衝かない的外れも気になります。

ファリサイ派の人々のずれた問い立てに対して、イエスの答えもさらにずれたものになっています。「ダビデの故事」(3-4節。サムエル記上21章参照)は、安息日のことについて何も語っていないからです。飢えた人には供え物のパンを分けても良いということは、弟子たちが盗んで食べたことを弁護しています。しかし、「安息日破りだ」との批判に対しては何も答えていません。仮に弟子たちが飢えていたとしても、ファリサイ派の人は飢えた人の盗み行為を何も問題にしていないので、すれちがっています。むしろ、「ダビデの故事」(3-4節)がなくて、代わりに先ほど引用したマルコ2章27節「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」を入れた方が、すっきりするほどです。

ただし、このかみ合わせの悪い問答の底には、共通した重要な問題意識があります。それは「聖」というものをどう考えるかという問題意識です。安息日は「聖なる日」です。神の家(神殿や地方聖所)は「聖なる場所」です。祭司は「聖なる人」です。供えのパンは「聖なる食物」です。それに対して、ダビデもダビデの仲間も、イエスもイエスの仲間も世俗の人です。麦畑は日常の労働現場・世俗の場所です。聖を考えることは、同時に聖の対になるものとしての「俗」とは何か、「汚れている」とは何かを考えることでもあります。

今までの人の子イエスの行動を振り返ってみましょう(ルカ4-5章)。世俗の職業を持っていた大工のイエスは、聖なる日(安息日)に聖なる場所(会堂)で聖なる書(イザヤの巻物)を読んだ結果、故郷ナザレから追放されました。カファルナウムの聖なる場所(会堂)で聖なる日(安息日)に世俗の労働である治療をして律法を破りました。そのイエスが聖なる日(安息日)に、世俗の場所(シモンの姑の家)で治療をします。イエスは世俗の日の世俗の労働に従事している人々を弟子にします(漁師のシモンや、徴税人のレビ)。世俗の場所(ガリラヤ湖畔)で聖なる書についての解説をします。イエスは汚れているとされた人に触り、治療をします。聖なる人(祭司)だけに許されていた、汚れている人・罪人に対する罪の赦しの宣言を、世俗の人間(イエス)が、世俗の場所(シモンの姑の家)でします。汚れている場所(徴税人レビの家)で、世俗の食事を、汚れている人(徴税人や罪人)および世俗の人々と行います。そして聖となる行為(断食)を不必要なものと断じます。なお、イエスが悪霊から「お前は神の聖者だ」と呼ばれたのは悪口でしょうけれども、逆説的な真理を表しています。世俗の人の一人であり、汚れた者とも交わる者が、実は聖なる人であるという逆説です。

当時のユダヤ社会は、聖なる領域・世俗の領域・汚れた領域に三分割されていました。そしてイエスが全く自由かつ融通無碍に三つの領域を行き来していることが分かります。イエスによって三つの領域がさまざまな仕方で交差します。イエスによって社会が流動化します。人々の凝り固まった頭が柔軟になり、画一化・序列化された行動のタガが外れます。聖と俗の区分、普通と異常の区分、浄いものと不浄のものとの区分。社会秩序・常識・当たり前のことが、本当に神の前で正しいことなのかが問われています。わたしたちの社会通念がぐちゃぐちゃに混乱させられ、一つの新しい価値観(新しい葡萄酒)が混沌の中から浮かび上がり、上から注がれます。それは混沌の中に差す一条の光なのですが、受け止める側が新しい革袋でないと、内部から社会を破裂させてしまうような力を持っています。世界は一つなのではないかという価値観です。

「聖なる」葡萄酒ではなく、「新しい」葡萄酒であることが重要です。イエスの問題意識は、「聖/俗」「正常/異常」「浄/不浄」といった区分を問うという意味で新しいものでした。イエスは、すべての区分を超えて、すべての区分を含んで、すべての区分を曖昧にするかたちで、神の支配する社会を生み出そうとしました。社会の新しいあり方や個人の新しい生き方を示したのです。寛容な個人がゆるやかに繋がり合う一つの世界。それが神の国です。

イエスの目には、誰がより神に近いかという序列はありません。すべての人は神聖な神の子であり、すべての人は根源的に倒錯した人の子です。すべての日は充実した時間であり(神の国は近づいた)、すべての日は平凡な時間です。すべての場所は神の居られる神の国であり(インマヌエル)、すべての場所は苦労の多い日常生活の場です。安息日に・神に出会い・礼拝をするということは、平日に・人々と出会い・労働をすることと、交代可能です。いつもそのような交代が起こるわけでは当然ないでしょうけれども、少なくとも交代する可能性があることを知っておいた方が良いのです。イエスが、境目の流動化を説いているからです。俗なる人類一般こそが、聖なる日である安息日の主であるからです。主日も週日も、人の子および神の子のために立てられたのです。

バプテスト教会はこだわって、「聖」という字を避けています。日曜日のことを聖日と呼ばずに、主日と呼びます。聖餐式と呼ばずに、主の晩餐と呼びます。聖体と呼ばずに、パンと呼びます。聖職者と呼ばずに、教役者と呼びます。聖徒と呼ばずに、信徒と呼びます。すべての信者が祭司であり、牧師も信徒の一人です。これらはイエスの問うたことに忠実であろうとする、一つの姿勢です。宗教者が「聖」を振りかざし濫発するときに、自分も俗人であり罪人に過ぎないということが抜け落ちる危険性があります。

まとめると、安息日≒日曜日は極力何もしない日、心も体も頭も休む日とすべきです。その時に休むということは何かなど、何をなし・何をしないことなのか等々、小難しく考えない方が良いでしょう。逆に疲れるからです。礼拝することが、わたしたちの休みになることを願うべきです。それは他人に対してもそうです。他人が何をなし・何をしないかも気にしなくて良いのです。画一化・序列化を避けて隣人を尊重し信じることが大切です。

また、礼拝することで「聖なる人」となっていくと考えないことです。自分の行いで清くなる人はいません。人は生涯一罪人です。宗教儀式も人の行いの一種ですから、それによって清くなるのではありません。儀式が人を救うのではなく、ただキリストだけがわたしたちを救うのです。キリスト者は罪赦された罪人です。聖となることが礼拝の目標ではなく、休まることがわたしたちの目標です。神を信じることが大切です。

今日の小さな生き方の提案は、礼拝でゆるやかな一つの世界を経験し休まるということです。きつく縛ると画一化・序列化・分断・対立が起こります。日曜日の午前を有意義に過ごすために、芯から休みましょう。