導き上る神 創世記50章22-26節 2020年8月16日礼拝説教

22 そしてヨセフはエジプトに住んだ、彼自身と彼の父の家とは。そしてヨセフは百と十年生き、 23 ヨセフはエフライムに属する三代の息子たちを見た。マナセの息子マキルの息子たちもヨセフの両膝の上に生まれた。 

 ヨセフが生まれたのはアラムの地でした(30章22-24節)。父ヤコブが祖父ラバンの家に居候していた時のことです。ヨセフがまだ小さかった頃に、ヤコブ一家は夜逃げをして、ラバンの家から脱出します。カナンの地に入りシケムという町に一時住みます。そのころヨセフは母ラケルから羊飼いの仕事について学びます。シケムからベテル、ベテルからヘブロンに行く途中のエフラタで母ラケルは死にます。弟ベニヤミンの出産が原因でした。

母と死に別れたヨセフは十七歳の時、兄弟たちからエジプトに売り飛ばされます。ポティファルという行政官の執事となったり、冤罪によって獄中に入れられたりしますが、三十歳の時、ファラオに任命されてヨセフは総理大臣に抜擢されます。そしてアセナトというエジプト人女性と結婚し、二人の息子が与えられます。マナセとエフライムです。四十歳ごろに父の家をエジプトに移住させます。ゴシェンの地がイスラエルの居住地となります。そして五十代半ばで父ヤコブの最後を看取ります。

22節はヨセフとその子孫もまたゴシェンの地に住んでいたことを伺わせます。エジプトの総理大臣職を何歳まで続けたのかは分かりません。行政官は羊飼いと異なり引退がありうる職業です。七十代でしょうか、総理大臣専用の馬車や印章をファラオに返して(41章42-43節)、ヨセフはゴシェンの地に行って、兄弟たちの家族と共に暮らしたのではないでしょうか。そこでもう一度ヨセフも羊飼いになるのです。妻のアセナトにとっては驚きの変化です。彼女はエジプトの神官貴族の娘です(41章50節)。まさかエジプト人が差別し忌み嫌っている羊飼いの一族に自分がなるとは思っていなかったことでしょう。

ヨセフの息子たち、マナセとエフライムはヤコブの養子とされていました(48章)。名目上はヨセフと対等の「兄弟」です。だからこの二人は、ヨセフが王宮で現役だったころからすでにゴシェンの地に暮らしていたと考えられます。十三の家族(部族)が集落を形成し、その中で婚姻をし、羊飼いを生業とし、独自の犠牲祭儀を行うヘブライ人、イスラエル民族を形作っていきます。

ヨセフの長男はマナセ、マナセの長男はマキルです。マキルの息子たちがヨセフの膝の上に生まれたということは、家を継ぐ嫡出が続いていることの表現です(30章3節参照)。ラケルの長男ヨセフの長男マキルの長男・・・という具合に。しかし聖書は、兄マナセよりも前に弟エフライムの子孫を紹介します。しかもヨセフは、エフライムの子孫を三代先まで見ることができたというのです。マナセよりもエフライムが早く次の世代まで残していることが分かります。弟の方が大いなる者になるというヤコブの預言が早くも実現しています。

ヨセフの波乱万丈の人生は、五書の次の主人公モーセの人生と重なり合っています。ヘブライ人として生まれ育ち、エジプトの権力者となり、羊飼いとなるという一連の展開が似ています。ヨセフによってエジプトに来たイスラエルが、モーセによってエジプトから出ることになることも、反転した形で対応しています。モーセの場合は羊飼いとなってからイスラエルの指導者となるのですが、ヨセフは引退し静かな余生をゴシェンの地で過ごします。

マナセの天幕にお世話になり曾孫たちと遊びながら、羊飼いヨセフはしみじみと振り返ります。カナンの地での十七年、エジプトに来てからの九十三年。特に父の死が思い出されます(47章27節以下)。一対一での遺言、二人の息子を連れたお見舞いの場面。ヤコブはヨセフのためにシケムに墓を購入していたという事実を告げました(48章22節)。エジプトに葬るなと何度も遺言したヤコブ。約束の地への埋葬に強いこだわりがありました。父ヤコブに倣って、ヨセフもまた子孫たちに遺言をしなくてはいけないと思い立ちます。

24 そしてヨセフは彼の兄弟たちに向かって言った。「私は死につつある。そして神は必ずあなたたちを任命し、あなたたちをこの地から、彼がアブラハムのためにイサクのためにまたヤコブのために誓った地に向かって、上らせる」。 25 そしてヨセフはイスラエルの息子たちに誓わせた。曰く、「神は必ずあなたたちを任命する。だからあなたたちは私の骨をここから上らせよ」。 

 24節の「彼の兄弟たち」は必ずしもルベン以下の兄弟たちを意味しません。兄たちがヨセフよりも先に死んでいた可能性もあるし、兄弟にはマナセとエフライムも含まれうるからです。つまりこの「兄弟たち」は「同胞」や「一族郎党」という意味です。25節「イスラエルの息子たち」という表現も、出エジプト記以降何回も登場します。イスラエル民族という意味です(出エジプト記1章1・7・9節も同じ「イスラエルの息子たち」)。

 死ぬ直前ヨセフは、自分がエジプトに呼び集めて救ったイスラエルの民に向かって、神がどのような方かを伝えて神の民イスラエルがなすべき道を教えます。それがエジプトを出ることであり約束の地に入ることです。

 「神は必ずあなたたちを任命する」(24・25節)。動詞を二回連ねて強調する表現が、二回も繰り返されています。動詞paqadはこの二節だけで四回も使われています。「任命する神」こそがヨセフの信じる神です。アブラハムとサラとハガル、イサクとリベカ、ヤコブと四人の妻の神は、「共なる神」でした。神は族長たちに姿を見せて現れ、彼ら彼女たちと旅を共にしました。「共なる」は前置詞>im(イム)で表現されます。族長たちがどこを歩いても、神は常の状態として共におられます。インマヌエルの神による救いです。

一方ヨセフは神を直接見ることはありません。神は見え聞こえ触れる形で人生に介入しません。まったく思いもよらない形で神は使命を与え、人生においてなすべきことを命じる方です。兄弟たちに売り飛ばされた時、叫び助けを求めても神は救いませんでした。冤罪を被って牢獄に入れられた時も、神は沈黙を守りました。神は常に共にいないかもしれない。ヨセフの実感です。またエジプトの王宮で仕事をし、エジプト人と結婚しているヨセフにとって、ヘブライ人の神が常に共にいることは、やや「有難迷惑」です。そこまで共にいなくても良い。少し距離を保って、大きな歴史を導いてくれるだけで良い。時々大胆な采配を振るってくれる神こそがヨセフの信仰対象です。

 ヨセフの信仰の内容を考察するために、動詞paqadについて深掘りしてみましょう。パカドには、存否確認、軍隊召集、人口調査、保護監察、審判、任命などの意味の広がりがあります。根っこには相手に対する信頼があり、その信頼に基づいて相手を訪問したり相手に命じたりするという意味合いです。このパカドは、ヨセフ物語中はっきりとした傾向をもって過去に四回登場している動詞です。39章4・5節は、ポティファルがヨセフを家の執事(管理監督者)に任命している場面です。40章4節は、ポティファルが牢獄にいるヨセフを給仕役の長と料理役の長の管理監督者に任命している場面です。41章34節は、ヨセフのファラオへの発言の中に登場します。飢饉に対応するために監督官(これもパカドから派生した言葉)を任命せよという進言をヨセフはファラオにし、結局自分がその監督官たちの監督をする総理大臣に任命されることになります。

 折々の管理監督者への任命(パカド)がヨセフの人生を拓いていきました。それは全体の歴史の管理監督者である神の企図・計画でした。神はさまざまな人の任命を通して、ヨセフの人生を保護監察・管理監督し、多くの民を救う人物としてヨセフを任命したのでした。

 任命する神への信頼と信仰に基づいて、ヨセフはイスラエルの民に遺言します。「神はあなたたちを必ず任命する。イスラエルに使命を与える。それはエジプトから約束の地に入るという任務だ。それによって、全ての民に『救い』というものがわかる。奴隷が自由の民となる『贖い』こそが救いだ。神は責任を果たし自分の民を買い戻す。それによって、神は自分の立てた約束を忘れずに必ず果たす方だということが、全ての民にわかる。神と神の救いを地上で示すためにイスラエルは任命され用いられる。神はあなたたちを上らせる。お供えされる捧げ物のようにして、地上から取り分けられる」。

 十三部族の代表者たちは、神妙に死にゆくヨセフの言葉を聞いています。さらにヨセフは続けます。「神があなたたちを上らせるのと同じように私の骨も上らせてほしい。父ヤコブが私のために買ったシケムの墓地に埋骨してほしい。私の骨が、あなたたちに対する神の任命の『しるし』となるだろう。」

26 そしてヨセフは百歳と十年(で)死に、彼らは彼をミイラにし、彼はエジプトにおいて棺の中に置いた。

 「彼ら」はエジプト王ファラオやエジプトの役人たちかもしれません。あるいはアセナトやマナセ、エフライムというエジプトの文化を熟知した人物たちかもしれません。ヨセフもヤコブと同じく、エジプト流のミイラにされました。しかしその棺は、ゴシェンの地でマナセ部族かエフライム部族が代々大切に保管していたと思われます。恒久的保管のためにミイラ化したのでしょう。

 出エジプト記13章19節にヨセフの骨が再登場します。モーセがヨセフの遺言を守って、ヨセフの骨を携えてエジプトを出るという場面です。モーセは約束の地を前に死に、ヨセフの子孫であるエフライム部族出身のヨシュアが後継者となって約束の地にイスラエルを導き入れます。ヨシュアは、シケムで告別説教をした後に百十歳で死にます。ヨシュアが葬られた直後、ヨセフの骨がシケムに埋骨されます(ヨシュア記24章32節)。

 イスラエルの民はヨセフの棺を見る度に彼の遺言を思い出していました。何百年経っても、指導者が変わっても、任命する神を信じるヨセフに任命されたからです。シケムの墓地に埋骨する。この小さな使命もまた、より大きな使命である出エジプトと入パレスチナの原動力になりました。神はそのためにヨセフの骨を用いたのです。原文の「彼は・・・置いた」が不自然なので、古代訳も「彼らは・・・置いた」としたり、「彼は・・・置かれた」が提案されたりします。しかし、この「彼」をヨセフではなく神と考えれば、意味は通じます。歴史を導く神が、イスラエルへの任命のしるしとしてヨセフの遺体をエジプトに置く、しかも決して朽ちない形のミイラとして棺の中に置いたのです。それを見る度に、イスラエルの民が独自の使命を思い出すためです。

 今日の小さな生き方の提案は、ヨセフと共に「任命する神」を信じることです。神はわたしたちの人生を時々訪れ、守り導き、小さなわたしたちを信頼して新しい任務を与えます。進学したり退学したり、就職したり転職したり、結婚したり引退したり引っ越したりします。神の召集と任命に応えていくことで、わたしたちの人生が拓かれていきます。歴史を導く神を信じましょう。「任命する神」のしるしが主の晩餐です。神に任じられ遣わされ、十字架で殺された方をわたしたちは毎週記念します。その方の霊を受け取り、志を引き継いで約束の地に向かって共に旅をするためです。わたしたちは神の国をつくりながら、神の国を目指します。この旅の同行にすべての人が招かれています。