平和の君 イザヤ書8章23節後半-9章6節 2022年12月4日(待降節第2週)礼拝説教

 先週のインマヌエル預言は、正義の戦争などというものがありえないということを教えています。神が我らと共にいるから戦争を始めることも不正であるし、神が我らと共にいるから必ず戦争に勝つということもありえません。インマヌエルという名前は、そのような皮肉な象徴(しるし)です。

 本日の箇所は、生まれる前にはあまり積極的な意味を持たなかった赤ん坊が、次第に大きな期待を抱かれ、積極的な意味の救い主へと成長していく様子がうかがえます。預言者イザヤの中で、メシア待望が徐々に強くなっているのです。シリア・エフライム戦争後に生まれインマヌエルと呼ばれたヒゼキヤ王。イザヤはヒゼキヤにどのような王となってほしかったのでしょうか。

23 その最初の時に彼はゼブルンの地およびナフタリの地(を)軽んじた。そしてその後彼は重んじる。その海の道(を)、ヨルダンの向う側(を)、その諸国のガリラヤ(を)。 1 その闇の中を歩き続けている民は大きな光を見た。暗黒の地に住む人々(に)光が彼らの上に輝いた。 2 貴男はその国ではないもの(を)増やした。貴男はその喜びを大きくした。彼らは貴男の面前で喜んだ。その刈り入れの喜びのように。彼らが戦利品を分け合う時に彼らが喜ぶのと同様に。 

 北イスラエル王国の中でガリラヤ地方は最も北部にあるため、アッシリア帝国に最初に蹂躙された場所です。占領直後にアッシリアは地中海沿岸部(「その海の道」)・ヨルダン川東岸地域(エルサレムから見て「ヨルダンの向う側」)・ガリラヤ地方を重視して、三つの行政区を置いて統治しました。23節は、アッシリア王(「彼」)の占領政策のことを指しています。「その諸国のガリラヤ」という言い方は、アッシリアに占領されている諸国の一つとなっているという意味でしょう。アッシリア王は、最初勢いに任せて町々を破壊しようとしたけれども、後に気が変わって自分たちで利用しつくそうとしました。沖縄のことを思い出させます。

 いつでも軍隊や軍事占領政策に翻弄されるのは庶民です。ガリラヤの庶民は、「闇の中を歩き続ける民」や「暗黒の地に住む人々」に喩えられています(1節)。ヒゼキヤ王は、そのような占領された旧イスラエル人にとって「大いなる光」「光」だというのです。闇と光は、創世記1章の天地創造の第一日に用いられている単語です。北イスラエル王国滅亡時、地は形なくむなしい混沌状況に陥りました。しかし神が「光あれ」と命じるならば、闇を切り裂き、混沌を秩序へと回復する光がいつでも創造されます。それは絶望のただ中に与えられる希望という光です。

 2節は理解困難な一句を含みます。「その国ではないもの」を古代以来一文字読み替えて「彼のためにその国」とします。しかし、そのままで意味が通じなくもありません。神(「貴男」)は、アッシリア帝国ではないものを増やし、それによって神が喜び、ガリラヤ住民も喜ぶ神の前で喜んだと理解すれば良いと思います。アッシリア帝国という当時の世界最強の国は侵略と軍事占領、武力による支配の象徴です。武力によらない支配、神の支配、神の王国が草の根で数的に増えることがここで期待されています。武力によらない平和です。アッシリア軍は戦利品を分け合う時に喜ぶでしょう。しかし、神の民は刈り入れを喜ぶのです。軍隊は他人の物を強奪するでしょう。しかし、神の民は辛子種一粒から大きくなったものや、いつの間にか30倍・60倍・100倍に増大した、神の賜物を収穫します。ガリラヤは非常に豊かな土地です。

3 というのも彼の重荷の頸木を、また彼の肩の杖を、彼の内にあるその抑圧者の鞭(を)、貴男はミディアンの日のように砕いたからだ。 4 というのも騒音における兵士たちの草履の全てと、血によって巻かれ続けている服、それが火の燃料の燃焼物となったからだ。 5 というのも子どもが私たちのために生まれたからだ。息子が私たちのために与えられた(からだ)。

 3節から5節前半には、同じ接続詞「キー」が用いられて、三つの理由が述べられています。それらは、すべて武力によらない平和を希求することの根拠です。この間の動詞(砕いた・なった・生まれた・与えられた)はすべて完了視座であり、強い言い切りです。「アッシリア軍による平和」という虚構を、否定する理由はイザヤの透徹した目です。

 3節でイザヤは未来を見渡します。アッシリア王の持つ(「彼の」)捕囚民にかける「頸木」、彼の持つ統治権に喩えられる「肩の杖」、彼が心の中で抱き続けている、占領民を厳しく統治する「鞭」を、神(「貴男」)は打ち砕くと言い切ります。イザヤは過去の奇跡を引き合いに出します。ギデオンが奇跡的な勝利を収めたように(「ミディアンの日」)、弱い者が強い者をひっくり返すというのです(士師記6-7章)。

 続く4節でもイザヤは未来を見渡して、アッシリア軍の軍靴と軍服が自然と「火の燃料の燃焼物となった」と言い切ります。「火の燃料の燃焼物」とは薪が炭になっている状態のことでしょう。軍隊のための衣服や履物が、火の燃料とされ、そしてその火によって剣が打ち直されて鋤とされ、槍が打ち直されて鎌とされます。軍隊のための兵器が、農具に変えられ、豊かなガリラヤの地が耕され、種が蒔かれます。

5節でイザヤは生まれたばかりのヒゼキヤ王に目を転じます。3-4節は、アビの子ヒゼキヤに対する期待の言葉です。その意味でメシア預言と言っても良いでしょう。武力によらない平和を創り出す王がすでに生まれている。私たちのために与えられた。7-8章のインマヌエル預言においては、赤ん坊は何も積極的な役割を果たしていませんでした。しかし9章は異なります。武力によらない平和づくりが可能である根拠は、現に生まれたヒゼキヤ王にあります。ヒゼキヤ王は丸腰の弱小国ユダを率いて軍事大国アッシリアを奇跡的に退かせる、そしてヒゼキヤ王は積極的に軍事予算を農業予算へと振り返る政策を採る、彼は必ずそうする、その確信がイザヤを言い切らせます。この子どもが私たちのために生まれ与えられたのだから、武力によらない平和は必ず実現すると、イザヤは信じています。

5 そしてその統治が彼の肩の上にあった。そして彼は、彼の名(を)不思議、助言者、勇士、神、永遠の父、平和の君主と呼んだ。 6 その統治は増加のために…、そして平和のために終わりは存在しない。ダビデの王座の上に、また彼の王国の上に、それ〔王国〕を立てるために、またそれ〔王国〕を据えるために、公正でもって、また正義でもって、今からまた永遠まで。ヤハウェ・ツェバオートの情熱はこのことを行う。

 5節後半に、ダビデ王朝における理想的な統治者の姿が示されていきます。アッシリア王が持っていた「肩の杖」(統治権)は、ヒゼキヤ王の肩の上に置かれます。「彼は・・・呼んだ」という原文を新共同訳は受け身に読み替えています。「彼の名前は・・・呼ばれた」という風にです。しかし直訳でも意味は通ります。「神は・・・ヒゼキヤの名を・・・と呼んだ」と理解すれば良いでしょう。単語の区切り方にもよりますが、ここには六種類のあだ名が挙げられていると解します。五番目まではすべて一単語の名詞です。「永遠の父」も原文では一単語です。最後の「平和の君主」だけが二単語の連語です。直後の6節に「平和(シャローム)」がもう一度繰り返されているところを見ると、平和の君主というあだ名こそが本命です。神はヒゼキヤ王の呼び名に悩み、「不思議」「助言者」「勇士」・・・などと呼んでみますがしっくりきません。最後に「平和の君主」と呼んで、これをこそ彼の名前にしようと決めたのです。アッシリア帝国の統治をひっくり返す人物として期待されているからです。神の民は平和のうちに治められるべきです。

 時代の子としてイザヤは、神の民の統治は「ダビデの王座の上に、彼(ダビデ)の王国の上に」あるべきだと考えています。ダビデの血筋から王は選ばれ続けるべきという血統主義に立っています。イザヤ自身が祭司の血統の貴族だったからだとも思います。この血統主義はイザヤの限界として今日批判されなくてはならないでしょう。「なぜキリストはダビデの子なのか」とイエス自身が批判している通りです(マルコ12章37節)。

 しかし同時にイザヤは同時代の預言者として、アモスやミカと同じく神の民の基本原則を示しています。それはダビデの血筋とは関係がありません。「それ〔王国〕を立てるために、またそれ〔王国〕を据えるために、公正でもって、また正義でもって」。「公正」(ミシュパート)と「正義」(ツェダカー)です。この二つが無ければ平和な統治は基礎を失います。ダビデの子であっても駄目なのです。ヒゼキヤ王に求められていることは、公正な裁判を行うことと、社会のひずみを修復することです。武力による統治において、裁判が歪み、格差が横行しがちです。統治者には公正と正義に基づく平和の創出が求められます。それは今から永遠に至るまで不断に続けなくてはならない努力でしょう。「平和のために終わりは存在しない」と言われているからです。インマヌエルと呼ばれる人物に、新しい任務が与えられます。「神我らと共に」と信じる者はすべて、「絶対に正しい戦争」のために生きるのではなく、「もしかすると愚かと嘲られるかもしれない平和」のために生きるのです。公正と正義を基にして武力によらない平和を創り出し続けることが求められています。

 マタイ教会は、イザヤ9章の預言をガリラヤで神の国の到来を告げたイエス・キリストを指すメシア預言だと理解しました(マタイ4章14-16節)。ローマ帝国軍の駐留するガリラヤ地方で、イエスこそが闇の中の光、ナザレのイエスが平和の君主であると信じました。ガリラヤの豊かな農産物・水産物、そして自然を背景にして、イエスは、王のようにではなく僕のようにガリラヤの悩む民に仕えました。病む者に触れて癒し、空腹の者にパンを与え、軽んじられている人々の嘆きを共に嘆きました。その一方で権力者には、公正と正義の実現を求めました。ガリラヤの民は、インマヌエルを実感し、神の王国/支配の到来を実感しました。こうしてマタイは、イザヤ7章と9章を結びます。

 今日の小さな生き方の提案は、ナザレからベツレヘムをとらえ直すことです。インマヌエルと呼ばれた赤ん坊が、何を基盤にして、誰と共に生きたのかということに思いを馳せましょう。新生讃美歌176番の1節と2節を統合して歌うことです。飼い葉桶の中に眠る主イエスよ/あなたは貧しさの中に生まれた(1節)。「ガリラヤの湖畔を歩む主イエスよ/あなたは嘆く人たちと共に生きられた」(2節)。ローマ皇帝の勅令に振り回されて人間扱いされずに生まれた救い主が、ローマ帝国や自国政府の重税や法律によってあえぐ人々と共におられた救い主です。この方が軍馬ではなく子ろばに乗って、武力によらない平和をエルサレムで成し遂げられました。「自衛のための正しい軍事費」が増大し続けています。その巨額なお金を教育・福祉・第一次産業に振り分けられないでしょうか。戦争の時代に平和を希求し続けましょう。