弟子の離反 ヨハネによる福音書6章60-71節 2013年9月29日礼拝説教

先週までの話は、ガリラヤ地方のカファルナウムという町の会堂で、イエス一行が共に礼拝をし、その中でイエスの聖書解釈を聞いたというところまででした(59節)。ユダヤ教徒たちの礼拝は聖書の解釈を論じ合うというものだったのです。イエスの論敵たちは当然、大反発をします(41・52節)。イエスが「自分の生身のからだを食べよ、そうすれば永遠に生きる」と語るからです。この意味は、イエスの十字架と復活は自分のための行為だと信ぜよ、キリスト教会で礼拝をし続けよ、そしてイエスに倣う生き方をせよということです。しかし、そのようなことを理解できない者たちは反発をしたのでした。多くのユダヤ人たちはイエスにつまずいたのです。ある意味で当然です。いまだ十字架刑が起こっていない段階で、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むということの意味を分かりなさいという方が無理な注文でしょう。

今日の箇所はその続きです。それは小さな驚きです。イエスの論敵だけではなく、弟子たちの多くもこの教えについていけなくなったというからです。60節に「実にひどい話だ」とあります。「ひどい」と訳された言葉の意味合いは、「固い」というものです。「咀嚼できない」「噛み砕けない」「理解できない」ということでしょう。61節の弟子の「つぶやき」と、41節のユダヤ人たちの「つぶやき」は、同じ単語です。両者は同質のつまずきを持ったのです。そして66節ははっきりと、「このために弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と記しています。

今まで少しずつ拡大してきた「信頼のネットワーク」が初めて縮小しました。イエスの始めた神の国運動・食卓運動は決して右肩上がりのものではありません。数の面では挫折があります。この点ヨハネ福音書は史実に近い状況を描いていると思います。他の福音書ではここまではっきりと弟子の数が減ったとは書いていません。

それは教会の現実です。ヨハネ福音書の著者や読者が直面していた教会の現実は決して順風満帆ではありませんでした。少しずつ増えたと思ったら、大迫害に遭いガタッと減る。「隣人愛はすばらしい教えだ」という人が増えたかと思えば、「教会の教えは社会批判・皇帝批判だ」「教会は人肉食を奨励している」と言う人が減っていく。こういったことの繰り返しです。このことは教会の宿命・イエスと共に歩むことの当然の帰結です。教会が常に「固い言葉」(60節)を語り、「霊的な言葉」「いのちの言葉」を語り続けるならば、数的には増えないことが多いのです(63節)。「毎週の礼拝でイエスの肉を食べ、イエスの血を飲みましょう。そして霊であるイエスと一体となっていきましょう。自分の生き方を聖霊に導かれる利他的なものにしましょう。そうして永遠のいのちを生きましょう。イエスと共に歩みましょう」。これは理解できないし、理解したくない固い言葉です。つまずいて当然の言葉です。

ここには教会に対する教えがあります。数に一喜一憂しないようにという教えです。一般に仲間が増えることは嬉しいことです。伝道・布教することも良いことです。ただし注意が必要です。人が増えることそのものに価値を置くと、自分たちが苦しくなるかもしれないということに注意が必要です。そういう時に「人数減少についての犯人捜し」が起こったりするものです。その類の内輪もめは不毛です。なぜなら「神からお許しがなければ、だれもイエスのもとに来ることはできない」(69節・44節)からです。わたしたちは、イエス自身の伝道でさえ人が減ったことがあるという事実に目を留めるべきでしょう。この世の理屈(「経済的に右肩上がりが良いことだ」など)とは違う、霊的な発言を教会がするときに、数的には増えないこともありえます。

今日の一つの小さな生き方の提案としては、地道に着実に毎週礼拝をしましょう、そのことに集中しましょうということです。時が良くても悪くても、固い言葉・永遠のいのちの言葉・この世の理屈ではない霊の言葉を語り続け、躓きのもとにもなりうる儀式を行い続けましょう。その結果として数が増えようが減ろうが動じない、淡々と穏やかに毅然として十字架と復活の主を礼拝し続けていきましょう。

日本バプテスト連盟の教会や米国の南部バプテスト連盟の教会の特徴は、伝道プログラム重視という教会形成にあると思います。それをもって「活性化」と呼んでいるように見えます。そこには弱点もあります。数に一喜一憂する危険、プログラムに適する人をもっぱら増やそうとする誘惑、この世で聞こえの良い言葉をもっぱら重宝する傾向、要するに教会の世俗化(株式会社化)という弱点です。バプテストの教会が一つの教会で採算を合わせなくてはいけないという構造上の課題と、世俗化の問題は深く結びついています。

わたしたちはこのような世俗化の誘惑にうちかって、霊と真理に基づく礼拝のみに集中する群れを形づくりたいと願います。イエスは弟子が増えようが減ろうがお構いなく、「わたしはある」という堂々とした姿勢を取り続けました(6:20参照)。それがわたしたちの模範です。

今日の箇所のもう一つの大きなことがらは、「イスカリオテのシモンの子ユダ」(71節)のことをどう考えるべきか・「十二人(イエスの直弟子。ペトロを頂点とする十二弟子)」(67節)のことをどう考えるべきか、ということです。

ここには翻訳上の問題があります。新共同訳聖書は、全般的にペトロを貶めない方向、ユダを貶める方向で解釈し翻訳しています。それはヨハネ福音書の著者の意図と必ずしも合致していません。著者は、以前にも申し上げた通り、ペトロの権威を下げようとしているからです(1:35以下)。たとえば69節でペトロが「あなたこそ神の聖者」と信仰告白をしています。この「神の聖者」は、他にはただ一回マルコ1:24で汚れた霊に取りつかれた人が言うだけで、決して誉め言葉、信実の信仰告白ではありません。ヨハネ福音書のペトロは、イエスを神の子・メシアと告白できなかった人なのです。むしろ神の子告白・メシア告白は、ベタニヤのマルタが言い抜きます(11:27)。

また他の福音書では十二弟子選任の場面が必ずあるのに、それがありません。ペトロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネという四人を軸に、十二名の名前が列挙されるのが通例です。それに反してヨハネ福音書はここで唐突に固有名を省いたかたちで十二人を紹介します。そしてこれ以後、十二人が登場することもありません。最後の晩餐でさえ何人の弟子が食卓を囲んだのか不明です。この意図もペトロを頂点とする十二弟子の権威に対する挑戦でしょう。

このような書きぶりから他の福音書(特にマタイ)に比べてペトロやペトロを頂点とする十二弟子が格下げされているのが分かります。だから著者はむしろ、ユダもペトロも同じ程度に無理解な弟子だったと言いたいのです。翻訳の問題性を指摘しながら、そのことを説明します。

70節の「ところが」と訳されている接続詞は、順接の接続詞の「そして」です。イエスは淡々と自分が選んだ弟子の一人がすでに自分を官憲に引き渡そうと決意していることを告げただけです(田川建三訳・RSV参照)。そして引き渡すという行為はユダ一人の問題ではなく、他の弟子たちの中にも引き渡す人が複数人いることを読者は知っています(64節)。64節の「信じない者たち」は、「裏切る者」と同種類の人でしょう。ですから、64節の「また」という接続詞を、「すなわち」と訳す方が良いと思います。

この関連で言えば「裏切る」(64節・71節)という翻訳も少し意訳し過ぎです。当時この単語には単純に「引き渡す」という意味しかなかったからです。裏切るという翻訳は道徳的な非難を含んでいます。むしろ原文は具体的事実を語っています。「官憲にイエスを引き渡す」という具体的行為を、複数の弟子たちがしたということ、それをイエスはあらかじめ知っていたということです。

71節「…でありながら」は原文にはありません。語順通り直訳すれば、「というのも彼が彼を引き渡そうとしたからだ。十二人の一人。」です(田川訳・RSV)。「…でありながら」を補う翻訳には「十二弟子の中にいながら、なぜお前は裏切ったのか」というユダへの非難が必要以上に含まれています。

以上のことを合わせて考えると、ユダだけが道徳的に非難されるような方向性が新共同訳には色濃く出ています。しかし著者が言いたいことはその逆でしょう。離れ去った多くの弟子たちの中にもイエスを引き渡す行為・不信実な行為をする者たちがいるだろうし、そのことはペトロたち十二人においても言えるし、現に少なくともユダはその一人だったということを、著者は言いたいのです。68-69節でペトロが一所懸命に、「決して離反しない」と言ってもイエスはまったく評価しません。それはすべての弟子が離反する、イエスを官憲に引き渡す行為に加担するということを言いたいからです。ユダもペトロも十二人も例外がないということです。それをキリスト教教理では、「すべての人は罪人である」と表現します。ユダとペトロはその例示でしかありません。

こう考えると、イエスの「信頼のネットワーク」の中身が分かってきます。それは不誠実な者をなお誠実に信頼するイエスを、そのイエスのみを中心にした共同体です。そこにイエスの凄みがあります。「わたしはある」という態度の貫徹があります。隣人が裏切ろうが裏切るまいが関係なくその隣人を信頼するということ、そこで離れようが離れまいが関係なく自分は神に従うということ、毅然として穏やかに生き抜くこと。もし神が人間となるならば、このような生き方をするものなのです。相手への信頼というものは相手が裏切る自由を含んでいます。そうでなければ信頼は茶番であるか単なる支配でしょう。そしてイエスの信頼は、相手の裏切りへの赦しも含んでいるのです。そのような無条件の愛こそが、相手の自由・信頼に応える自発的行為を促します。

18:5をお開き下さい。これはユダがイエスを官憲に引き渡した実際の場面です。イエスは、イエスを捜し逮捕しようとして来ている武装した者たちの前で、「わたしである(エゴー・エイミ)」と言います。この言葉は以前も取り上げたように、「わたしはある」とも訳せます。神の名(性質)でもあります。イエスは一貫して「わたしはある」なのです。この態度がすべての罪を赦す凄みです。

イエスはユダに対して、「自分を官憲に引き渡したいならすればよい」と語り、裏切る自由を保証しています(13:27)。ユダが自発的に悔い改めて引き渡さないならばそれも良し、引き渡すならばそれでも構わないという考えです。仮にイエスを踏みつけにして殺す側に回ったとしても、なお人には生き直す機会が与えられています。十字架と復活を信じるならば、そのような罪人も誠実な謝罪と賠償の歩みを起こすことができるのです。十字架と復活の救いは、ユダにもペトロにも、ほかのすべての人々にも開かれたものです。

教会はこのイエス・キリストの信実によってのみ成り立つ集団です。罪人のわたしたちをイエスは信頼して「わたしの名の下に集まりわたしの手伝いをしないか」と招いておられます。わたしたちは常に不十分であり、時に不実な弟子たちです。しかし仮にわたしたちが不誠実な時でも唯一誠実な方がおられます。「わたしはある」とイエスがどっしりと構えておられるから、その傘の下にわたしたちは居られるのです。今日の小さな生き方の提案は、肩の力を抜いてこの信頼のネットワークに加わること/加わり続けることです。