彼女の方が正しい 創世記38章20-30節 2019年12月1日礼拝説教

「そしてユダは山羊たちの子山羊を彼の友人アドラム人の手によって送った、かの保証をかの女性の手から取るために。そして彼は彼女を見出さなかった。そして彼女の場所の人々に彼は尋ねた。曰く、『かの聖娼はどこに。彼女はエナイムの道に面して(いた)』。そして彼らは言った。『ここに聖娼はいなかった』。そして彼はユダのもとに戻り、言った。「私は彼女を見出さなかった。その場所の人々もまた言った。『ここに聖娼はいなかった』と」。そしてユダは言った。『彼女が彼女のために取るべきだ。私たちが笑いものとならないために。見よ、私はこの子山羊を送った。そして正にあなたが彼女を見出さなかった』」(20-23節)。

 ユダは死んだ息子の妻タマルとの取り決めに従って、買春の代金を支払おうとします。アドラムの町から、友人を使いに出します。友人とはおそらくヒラという人物です(1・12節)。家長のユダが妻の死後、仕事で訪れたティムナの町で買春をしたという事実は、いくら古代とは言えユダにとって不名誉な事件です。スキャンダラスな秘密は最小限の人々で守られなくてはいけません。ユダはその時一緒にいた友人ヒラに子山羊を届けさせ、それによって自分の印章・紐・杖を取り返そうとします。取り決め通りです(16-18節)。

 「エナイム」という地名は(14・21節)、「二つの泉」という意味を持っています。ティムナという町のすぐ近くにある泉を、エナイムと呼んでいたのだと思います。16kmの道のりを子山羊と共に再び歩き、ヒラはティムナの町の人々に尋ねます。その際にヒラはユダを弁護します。「聖娼」という言葉を使っているからです。ユダ自身はタマルを「娼婦」だと思ったとあります(15節)。ヒラは事実のままではユダに不利な噂が流れることを心配し、「ただの娼婦ではなく宗教的な儀式の一部である性交渉をする聖娼(直訳は「聖なる女性」)がユダの相手だった」と弁護のための修正をしています。

 ティムナの人々は口々に、「その場所に聖娼はいなかった」と答えます。町の別の場所にはいたのかもしれません。エナイムにはいなかったというのです。町の人々の言うことは正しいものです。そこには聖娼ではなくタマルがいたのですから。ティムナの住民ではないヒラは、あきらめて子山羊と一緒にアドラムに帰ってきます。そしてユダに報告をします。「私は聖娼を見つけることができなかった。町の人々もエナイムには聖娼はいなかったと言っている」。

 ユダはこれ以上の詮索を打ち切ります。ティムナの町で笑いものになることを恐れたからです。妻の死後、買春をした年配のアドラム人として、ユダは物笑いの種になることを嫌いました。これからも羊の毛を刈るために何回も行く土地です。実印にこだわって嘲笑われるよりも、実印の保持を諦めたのです。わたしたち「印鑑文化」に暮らす者たちからすれば考えられない軽率な判断です。物語は、ユダを読者の笑いものにしています。ならば最初から買春などしなければ良いし、貴重品など預けなければ良いのです。

ユダの言い分は子どもじみています。「自分は子山羊を送った。しかしヒラが彼女を見つけ出さなかったのだ」。友人のせいにしています。「正にあなたが」という代名詞を重ねる強調表現は、この後も主語を変えて繰り返されます。

 「それから約三ヶ月が過ぎた。そしてユダに告げられた。曰く、『あなたの嫁タマルが売春した。そしてまた、見よ、彼女は複数回の売春によって妊娠した』。そしてユダは言った。『あなたたちは彼女を出せ。そして彼女は焼かれるべきだ』。彼女が出されつつある時に、正に彼女が彼女の舅に向かって投げた。曰く、『これらが彼に属するところの男性のために、正に私が妊娠した』。そして彼女は言った。『どうかあなたは認識せよ。これらの印章と紐と杖が誰に属するのか』。そしてユダは認識し、言った。『彼女は私より正しかった。というのも、私が彼女を私の息子シェラに与えなかったからだ』。そして彼は二度と彼女を知ることを重ねなかった」(24-26節)。

 タマルとユダは同じアドラムの町に住んでいます。やもめの服を着て、実家に押し込められて自由な再婚が許されないタマルが、妊娠をしているということが小さな町の噂となりました。もしかするとタマル自身が流した噂かもしれません。全てはタマルの策略だからです。「タマルは売春をしたようだ」という言い方は、「不倫をしたようだ」よりも踏み込んで、彼女を中傷しています。事実を知っている人でないと、中々できない推測でしょう。そこから話が膨らんで、「複数回の売春」となったのは、噂というものの本質をついています。噂というものは事実よりも大きく拡大されるものです。

 噂を聞いたユダは激怒し、タマルの実家に駆けつけます。私刑のためです。法治が確立していない時代、また女性の人権が軽んじられていた時代です。もともとユダはタマルのことを目の上のたんこぶだとも思っています。ここでタマルを亡き者にできれば、三男のシェラは救われると思い込んでいるのです。

だから若干芝居がかかってユダは、タマルの実家に行って「あなたたちはタマルを出せ、彼女は焼かれるべきだ」と強面で迫ります。その言葉通り、タマルが無理矢理に家から出される正にその時、彼女は印章・紐・杖をユダに向かって投げつけます。新共同訳の理解のように、タマルがユダに向かって他人を使いにやる暇は、この緊迫した物語の中にないでしょう。同じ町なのですから、ユダはタマルの目の前にいたと考えます。「使いにやる」も「投げる」も同じ単語です(シャラハ)。「正に彼女が」という強調は、目の前の相手に投げつけた迫力を表現しています。

そしてタマルは投げつけた勢いのまま目の前のユダに向かって啖呵を切ります。「この印章・紐・杖が誰のものかあなたが認識せよ。これらの持ち主のために、正にこの私は妊娠したのだから」。ユダは一瞬にして認識します。印章・紐・杖はユダの所有物だということ、タマルが三か月前のあの時ティムナの近くの泉で娼婦に変装していたことを。そしてそれはユダに対する抗議であり、タマルの名誉を回復し、タマルの人生を守るための行いだったことを、ユダは認識しました。「家長だったら、家の構成員の生活をきちんと保護しなさい」とタマルは訴えています。現在ならば、「福祉国家だったら、国の構成員の生活をきちんと保護しなさい」という訴えと同じです。

「彼女はわたしより正しかった」。こう認識し、自分の罪を告白したユダは、もう一度タマルを自分の家に迎え入れます。三男の嫁ではなく、自分の妻として保護します。しかし、二度と性的な関係をタマルと持つことはなかったというのです。性的な関係を持たない夫婦という図が、39章に登場するポティファル夫妻と重なります。ポティファルが宦官だからです。ヘブライ語では宦官とも高官とも解せますが、ギリシャ語訳が宦官と訳しているので、ポティファルは宦官だったと理解します。また、ヨセフとポティファルの妻の関係と、ユダとタマルの関係も似ています。物語は鎖のように繋がって前に進んでいきます。

 創世記38章は、ヨハネ福音書8章のいわゆる「姦淫の女」の物語とも似ています。「姦淫」という罪名をかぶせられ殺されかけた女性が大逆転によって生かされ、殺そうとした男性が自分の罪を知るという構造が同じです。ただし異なっている点もあります。創世記38章はすべてタマルの自作自演です。彼女は自分の苦しい境遇を変えようとして知恵をこらし、勇気をもって奇想天外な逆転劇の脚本を書き、主演女優として演じきったのです。タマルの方が能動的なヒロインです。タマルはほとんど塞がっていた狭い道を、自分で切り開いて突破したのです。その姿が息子のペレツに継承されていきます。

「そして彼女の出産の時となった。そして見よ、双子が彼女の胎内に(いた)。 そして彼女の出産の時に以下のことが起こった。すなわち、彼は手(を)与え、助産師が取り、彼女が彼の手に真紅のより糸を結んだ。曰く、『これが最初に出た』と。そして彼の手を戻した時に次のことが起こった。すなわち見よ、彼の兄弟が出た。そして彼女は言った。『どのようにして、あなたはあなたに面する裂け目を裂いたのか』。そして彼は彼の名をペレツと呼んだ。そして後に、彼の手にかの真紅のより糸(がある)彼の兄弟が出た。そして彼は彼の名をゼラと呼んだ」(27-30節)。

ペレツとゼラという双子の誕生は、エサウとヤコブという双子の誕生と共鳴しています(25章参照)。そしてこの後のヨセフに与えられた二人の息子の物語とも共鳴しています(48章参照)。三組の二人兄弟に共通することは弟が優位に立つという下克上です。その最も著しい例が、ペレツとゼラという双子兄弟です。ペレツは、本来弟であったのに、生まれる前に兄弟を押しのけて兄になったというのです。ヤコブは兄エサウのかかとを掴んだけれども、後から出てきました。ペレツは、兄ゼラよりも先に出てきて、自分が兄となりました。祖父ヤコブに優る人物が、ヤコブの四男ユダに与えられた、しかもタマルを通して与えられたということを、聖書は驚くべき福音として記しています。「どのようにして、あなたはあなたが直面している狭いひび割れを突破して、狭い道を切り開いたのか」。神を畏れる助産師でさえも驚愕する力です。このような幼子のようでなければ神の国に入ることはできません。

ペレツとゼラの名付けは誰がしたのでしょうか。ヘブライ語本文は「彼は」としています。タマルとユダが同居していないと思い込む多くの翻訳は、名付けの主語を曖昧にします。あるいはサマリア五書などに基づき「彼女は」と読み替え、助産師またはタマルが名付けたと考えます。しかし、操作をしなくても、そのままで意味は通ります。ユダが名付けたと考えれば良いからです。タマルの望み通り、ユダがタマルを家で保護する(夫婦となる)ということは、ユダは双子の出産に立ち会えるということです。だから父親としてユダが心を込めて名付けをしたのでしょう。ここにユダの悔い改めがあります。

先週、ユダが長男エルの名付けだけを行ったこと、三男の誕生の時には別居していたことを述べました。ユダは生まれ変わりました。彼は双子の出産に立ち会います。そしてタマルに敬意を表し、タマルを継承してわずかな裂け目を突破して自分の人生を切り開いた息子にペレツと名づけました。父ヤコブに優る息子が、自分の四番目の子どもとして生まれたことを、ユダは心から喜んでいるのです。ユダ自身も四番目の息子です。そしてユダは、三男のシェラにではなく、四男のペレツを自分の後継者とします。世界で小さくされているものが優先的に選ばれるという福音を、よく認識したからです。このペレツがイエス・キリストの直接の先祖となります。

今日の小さな生き方の提案は、諦めないということです。社会の仕組みという壁に直面しても、自分自身の限界を感じても、自分の人生や自分自身を諦めない。悪法が聳えていても、悪法を利用することも変えることもわたしたちにはできます。自分自身にがっかりしても、悔い改めて生き直すこともできます。神がいないように思える時にも、そのような人間の醜い葛藤をくぐり抜けて、最後には救いの計画が用意されています。わたしたちは諦めないで狭い道を突破しましょう。ユダの神・タマルの神・ペレツの神を仰ぎましょう。