従うということ ルカによる福音書9章57-62節 2017年5月21日礼拝説教

キリストを信じて従うことは、イエスの後ろを歩くことに喩えられます(ギリシャ語akoloutheo、ヘブライ語halak ahere)。この文脈でそれは、エルサレムへと向かう道の先頭を歩くイエスの後ろに従うことです。55節でヨハネとヤコブの方に「振り向く」方は、一行の先頭を歩いているのです(マルコ福音書10章32節参照)。率先してエルサレムへ向かうイエスの姿は、目的に向かって集中している人の生き方に喩えられます。

「神の国を言い広め」(60節)、「神の国にふさわしい」者を増やしながら(62節)、神の国を実現するという目的のためにイエスは歩き続けます。今日は「神の国」のルールや、「神の国」の住人がどのような人々なのかを考えたいと思います。三人の人物が登場します。この人々とイエスとの対話を通して、イエスに従うということ、神の国に暮らすということがどのようなことを指すのかを考えてみましょう。それはわたしたちの教会生活の模範となります。

神の国は一番小さいものが尊重される社会です(48節)。皆の中で最も小さい者こそ、大きい者です(7章28節)。単にあべこべになるのではありません。小さい者が大きい者を支配するのではありません。大切にされていない者が大切にされることによって、全員がお互いに大切にするという社会です(4章18節、7章22-23節)。イエスが人間として尊重されずに、小さくされながら殺されたことは、ヒントとなります。

神の国はさまざまな人が集まりうる社会です。反対の意見の人がいてもかまいません(50節)。「外国」「外国人」という考え方がない社会です(55節)。喩えて言えば神の国はとても枝ぶりの豊かな木です。そこには、どんな種類の鳥も巣を作り宿ることができます(13章19節)。イエスが寛容ではない、排他的な思想を持つ者たちに殺されたことは、ヒントとなります。

神の国の憲法は愛と正義です。公正に扱われていない人、肩身の狭い思いを強いられている人、つまり「最も小さい者」に対して、「偏って愛すること」が「愛」です。また、力を委ねられた人が、無闇に力をふるったり、逆に力を使わなかったりして「最も小さい者」を拡大再生産することを「罪」と呼びます。この罪はすべての人にありますが、決して赦されるものではありません。神は罪を常に指摘します。それが「正義」です。正義と愛は裏表の関係にあります。正義なしに、罪が明らかにされないので、愛するべき対象も明らかになりません。愛なしの正義は目的を失い、憎悪の連鎖・報復の連鎖を止めることができません。正義の目的は、尊重と寛容の神の国を実現することです。

エルサレムでイエスが神に見殺しにされ十字架で虐殺され、三日目に神によってよみがえらされたときに、愛と正義が綱渡りのような仕方で同時に実現しました。神は最も小さい者を生み出し続ける世界全体を裁きます。正義の神だからです。しかし、神は世界を愛さざるをえません。神ご自身が全世界を創り、その中にさまざまな命を喜んで創られ保たれているからです。その中の最も小さな命でさえも神は惜しむ方であり、そこに傾き、偏って愛する方です。

神はこの世界の不正義(支配欲・貪欲・保身)を用いて神の子を殺します。それによって罪を教えるためです。それによって全世界の罪の代わりに神の子を裁くためです。同じ神が神の子をよみがえらせます。それによって愛を教えるためです。それによって全世界に永遠の命を配るためです。これがエルサレムでなされる神の国の実現・憲法の制定です。そこを目標にイエスは歩き続け、その途上で自分に従う者を増やして神の国をかたちづくっていきます。

三人のうち最初の人物は、「イエスに従いたい」と願っています。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」(57節)という志願の言葉はとても頼もしいものです。もしも教会の信仰告白でこのような決意が述べられたら、わたしたちは感動するでしょう。しかしイエスは、このような熱狂に対して釘を刺しています。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」(58節)。

「野宿者イエス」の姿は、日本バプテスト連盟のホームレス支援特別委員会が大切にしているものです。ルカ福音書の内容と重ねるならば、飼い葉桶に寝かせられている赤ん坊と、頭を横にする場所がないメシアの姿が似ています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2章7節)。キリストはこの地上では居場所がないものです。その延長に十字架という、「この世界が神の子を締め出す行為」があります。木に架けられたまま縦に殺される姿は、頭を横にした安らかな死に方ではないのです。

同じように神の国の住人は、この世界で尊重されなくなる場合がありえます。キリストとわたしたち教会が追求している愛と正義は、この世界のルールと異なる場合があるからです。「どこへでも行きます」と言いながら、十字架まで一緒に行くのは困難なわけです。ペトロという人が実際にそうでした(22章33節)。「牢に入って死んでも良いと覚悟している」と大口を叩いたのです。ところがイエスの予告通り、ペトロはイエスを三度も否定して同じ牢獄で同じ拷問を受けることもなく隣の十字架に架けられることもなかったのです(同34節と54-62節)。

イエスはちやほやされることや調子の良い発言を牽制しますが、第一の人物が従うということそのものを拒否はしていません。従うということは周りと関係はありません。関係ないのですから大口を叩かず、淡々と冷静にイエスの後ろを歩くことが大切です。イエスに従うことは、この世界の名誉を相対化します。キリスト者となることで周りから高い評価を与えられるのならば、それは倒錯です。従うということは公開処刑された方に従うということだからです。

第二の人物は、イエスから直接「あなたはわたしに従いなさい」と勧められています(59節)。この点で第一の人物・第三の人物と異なる場面です。神の国は任意団体ですから、「従いたい」という本人の意思がとても大事です(57・61節)。しかし、神の国は招かれ、参加が促されるものでもあります(14章7-24節)。また、探し出され、救い出され、そこへと入れられるものでもあります(15章1-10節)。

そして囲い込みサンドイッチ構造から言えば、この段落全体の中心は第二のやりとりにあります。中心だからです。だから、「イエスの非常識な発言群」こそ、神の国の本質を現しています。

「あなたはわたしに従いなさい」とスカウトされた第二の人物は、まったく常識的なことを言っています。「主よ、まず父を葬りに行かせてください」(59節)。父親が死んで葬儀が急に入ったのか、それとも父親が危篤状態に陥ったのか、あるいは父親が老いてきてその介護に従事したいのかは不明です。いずれにせよこの人の従わない理由は理解できるものです。読者はここで、イエスの答えが常識的であることを期待します。「よく分かります。お父さんをお大事に」や、「大変な時に声をかけてすみません」が、期待される答えです。

当時の常識に照らしても、ユダヤ人社会において父親の葬儀はとても重要なものでした。家父長制社会です。親の葬儀のためならば、あの厳しい安息日の規定も一切無視しても良いと考えられていたそうです。第四戒の安息日規定よりも、第五戒の父母尊重規定の方が上になっていたということです。現代のわたしたちにも理解できる習慣です。

イエスは厳しい言葉を語ります。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)。死んでいる者たちは親戚のことでしょう。血縁関係の相対化がここで言われています。血族親戚は大切なものですが、しかし絶対的なものではありません。神のみが絶対です。むしろ血縁は個人を縛ったり民族主義を助長したりもします。

イエスの言葉は、アブラハムの召命物語の神の言葉と反響し共鳴しています。「あなたは自分のために行きなさい、あなたの地から・あなたの生地から・あなたの父の家から、わたしが示す地へと」(創世記12章1節、私訳)。この神の言葉に従ってアブラハムの旅が始まります。この時、アブラハムの父親テラは生きていました(創世記11章26・32節、12章4節)。おそらく大喧嘩の末に、アブラハムらは勘当されたのでしょう。

神は「あなたはあなたのためにわたしに従いなさい」と言いました。その理由はおそらくこのままではアブラハムが駄目になると思ったからでしょう。メソポタミアの神々を生まれながらに信じるだけでは思考停止した、「死んだような生き方」になると思ったから、アブラハムに厳しい決断を迫ったのでしょう。民族の宗教は時に人を駄目にするのです。血縁がすべてを運命づけるのならば、個人の人生には絶望と諦めが与えられやすいものです。従うということは自由を得ることです。与えられた環境は絶対ではありません。

第三の人物も、常識的な言葉を言っています。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」(61節)。これに対してもイエスは厳しい答えを述べます。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)。このやりとりは、列王記上19章20節のエリシャとエリヤのやりとりをもとにしています。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」(エリシャ)、「行って来なさい」(エリヤ)。

第三の人物とのやりとりはルカ福音書にしかありません。ここでルカは、イエスがエリヤよりも上の人物であると印象づけています。より厳しい要求をしているからです。今までもルカ福音書は、「イエスがエリヤの再来であるバプテスマのヨハネ以上の者である」と書いてきていました(7章24-28節他)。こうして、第三のやりとりは、第二のやりとりを補助しています。家族に挨拶をする行為は、父親を看取ることよりも軽い話題ですが、血縁との関係である点で似ています。血族は絶対的ではありません。

それと同時に、この第三のやりとりは、従うということの本質も伝えています。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」行為が、従うということにふさわしくないと言っているからです。前に進むと言う人は、後ろを振り返ってはいけないのです。イエスの背中を見て歩くと言っている人は、それ以外のものを相対化するものです。

まとめて言えば、この世界で評価されたいという名誉欲の相対化、この世界でわたしたちを縛りがちな血縁主義の相対化が大切なことです。愛と正義を求めてイエスの背中に付き従い、そこに集中する時にそれ以外のものは塵芥のようなものになります。それが永遠の命を活き活きと生きる生活です。

今日の小さな生き方の提案は、横を見ない・周りを気にしない・自分の歩みを振り返らない生き方です。それらは絶対的なもの・神に類するものではありません。遠くを見据えて大きな社会正義を求め、目の前の隣人に小さな愛を行うことに集中する。「キリストに倣う」神の国の住人らしく振舞いましょう。