憲法の話⑥

自由民主党改憲草案批判④

主権在民と天皇制

アーメン、わたしは言う――あなたにはわたしの面前で他の神々がありえない

 

日本国憲法

自由民主党改憲草案

第一章 天皇

 

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

・・・中略・・・

 

 

 

 

第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。  ・・・中略・・・

 

第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

② 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。    ・・・中略・・・

一章 天皇

(天皇)

第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。   ・・・中略・・・

(国旗及び国歌)

第三条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。  

2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。  

(元号)

第四条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。  ・・・中略・・・

(天皇の国事行為等)

第六条 天皇は、国民のために、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命し、内閣の指名に基づいて最高裁判所の長である裁判官を任命する。    ・・・中略・・・

4 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

第一項及び第二項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う。  

 

1. 全体の問題

『憲法』の第一章(第一条から第八条)の天皇条項は、国民主権という基本原則に抵触するのではないかという疑いのある部分です。明治憲法において主権者であった天皇が現憲法下で象徴としてかろうじて生き延びたという歴史、言い換えれば天皇の戦争責任をきちんと追及しきれなかった主権者側の弱さの表れが第一章の存在です。結果、『憲法』内部において天皇制と国民主権や人間の平等(第十四条)との間に緊張関係が常態化することになります。人権を国家に守らせるためにある憲法が(特に第三章)、別の条文で(第一章)特定の人を差別扱いすることを是認していることは大いなる矛盾です。ですから「天皇制については憲法ではなく下位法のみによる規定で融通を利かせる方が良い」と主張する憲法学者もいます。実際、第一章を抜くと、前文から第二章「戦争放棄」は滑らかにつながります。

以上を前提にすると『草案』の第一章全般は、国民主権という原則をさらに崩す方向に持っていこうとしているので問題です。すなわち天皇を国家元首とし政治的権限を強化していること、また天皇を神格化し国家主義を強めるために利用しようとしています。この問題の背景には自民党が今まで作り上げてきた「天皇制に関する解釈改憲」の現実があります。たとえば自民党政権は、「元号法」によって一世一元を復古定着化させ(法制化以前にも官庁は「昭和」をかたくなに使用)、「国旗国歌法」によって「日の丸」「君が代」を教育現場の思想統制の道具として使ってきたのです(これまた法制化以前にも公立校で統制の道具として使用)。『草案』はなし崩しの積み重ねをそのまま明文化しています。九条と同じ課題がここにあります。

 

2.各条文の問題

『草案』は「元首であり象徴」と明記します(一条)。これは明治憲法への復古です。なぜなら、明治憲法下でも天皇は「元首であり象徴でもあった」からです。「神聖ニシテ侵スヘカラス」とはその意味です。ですから、元首化は天皇に政治的な権限を与えることでもあり、さらには天皇の神格化でもあるということです。このような復古の根っこには明治以来の侵略戦争に対する反省がないことがあります。

この姿勢は『草案』の前文にも露骨に表現されています。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」と冒頭に記載されているからです。「人権」「国民主権」「三権分立」よりも先に「天皇を戴く国家」とあることに『草案』の本質が表れています。

天皇の政治的な権限拡大は『草案』六条4項に明記されています。内閣の承認なしにも天皇は国事行為を行うことができるようになっているからです。ちなみに自民党は「天皇に対して畏れ多い」という理由で、「内閣の助言と承認」という文言を「内閣の進言」としました。ここでも政治権限拡大と神格化が結びついています。主権者の代表として選ばれた国会議員よりも上位にある人間として天皇が崇められている現実が、このような改憲案を下支えしています。その「畏れ多さ」という権威主義が問題です。

さらに『草案』六条5項は、これまで天皇の「公的行為」としてなし崩し的に認められてきた行為を憲法に明文化しています。時の政権が天皇を政治利用する危険がさらに高まっています。天皇夫妻が訪問すると、「ありがたい」と天災や人災に遭った被災者でさえもお辞儀します。その「ありがたみ」が利用されるのです。ヤスクニの課題が重なります。

国旗が日章旗であることや国歌が君が代であるということを憲法に明記することは天皇の神格化を強化し「国家のための個人」を育成する目的です。明治憲法下の国家神道体制による侵略戦争への反省がみられません。あの日の丸の下でどれだけ多くの人々が殺されていったのでしょうか。あの「天皇への賛美歌」の下でどれだけ多くの人々が人を殺す側に立ったことでしょうか。

国旗国歌のことだけではなく、国民に尊重義務を課すことは近代憲法の性質に相反するものです。近代憲法は、主権者国民が国家を縛るための道具です。これを立憲主義と言います。憲法というものは国家が主権者を縛る道具ではありえません。この点、『草案』が天皇の憲法遵守義務を削除し国民に憲法遵守義務を課していることは見過ごせません(百二条)。

『草案』は国民主権に反して天皇の政治権限を強化しています。立憲主義に反して国家主義を強化しています。人間の平等に反して天皇を神格化しようとしています。現憲法下でさえ良心の自由を踏みにじっている教育現場での思想統制をさらに強化しようとしています。

 

3. 天皇制と信仰

日本バプテスト連盟はこれまでも元号法制化、「建国記念の日」の制定などに反対してきました。また「反ヤスクニ宣言」(1982年)、「戦争責任に関する信仰宣言」(1988年)、「『即位の礼・大嘗祭』強行に抗議する声明」(1991年)、「『平和憲法』改悪に反対する声明」(2000年)、「『日の丸・君が代』の強制に反対する声明」なども総会にて採択し、自らの信仰に基づく政治態度を明らかにしています。これらの行動はわたしたちにとって主権者としての振る舞いであり、また信仰者としての振る舞いです。

わたしたちが畏れ敬うべき方はただ一人、イエス・キリストにおいて啓示された三位一体の神さまです。

キリストへの信仰のゆえにわたしたちはキリストにならって、「アーメン、わたしは言う」と、どのような地上の権力者に対しても率直に意思を述べることができます。拝みたくないものを拝まない自由、歌いたくない歌を歌わない自由がわたしたちには与えられています。

三一神への信仰のゆえにわたしたちは天皇の「畏れ多さ」「ありがたみ」を批判します。三つで一つの愛のお方が、わたしたちに水平・平等の交わりの尊さを教えます。三一神のあり方にならってわたしたちは神ならぬものを見抜きます。

神ならぬものを神とするとき、人を人とすることができません。戦時下わたしたちはこの罪を犯し戦争協力したのでした。「天皇を戴く神の国」であったとき、すなわち国家神道(政教一致)に基づく軍国主義国家であったとき、わたしたちは国内において人権侵害(思想信条の統制・表現の自由の抑圧・拷問・徴兵)、国外において侵略と搾取(大量虐殺・性暴力・収奪・差別)を行いました。

『草案』はいつか来た道への逆戻りです。それゆえに天皇条項において「まだまし」である『憲法』を『草案』のように変える理由はありません。