新しい契約 エレミヤ書31章31-34節 2022年5月22日礼拝説教

 「新しい契約(新約)」という言葉を最初に使った人は、旧約聖書のエレミヤです。彼は前7世紀から6世紀にかけて生きた預言者です。後1世紀に発生したキリスト教会は、エレミヤ書31章31-34節をイエス・キリストの救いと関係づけて解釈をしました。出エジプト記24章(神と神の民代表との会食)で成立した契約を「旧い契約」とみなし、十字架と復活によって成立した契約を、エレミヤが預言する「新しい契約」であると信じたのです。そして初代教会は主の晩餐(神と神の民との会食)の度に、教会が新しい契約に生きる群れであることを確認していました(コリント一11章25節、ルカ22章20節)。もしもエレミヤが「新しい契約」という言葉を遺していなかったら、初代教会の教理や実践は生まれなかったでしょう。この意味でイザヤ書53章に並ぶ重要な聖句です。

 四回「ヤハウェの託宣」が繰り返されています。囲い込んでいる配置から、31節と32節、33節と34節をそれぞれ一まとまりに読むようにと指示しているので、2節ずつ読み解いていきましょう。

31 見よ、日々が来つつある。ヤハウェの託宣。そして私はイスラエルの家およびユダの家と新しい契約をちぎった。 32 私が彼らの父祖たちとちぎった契約のようにではない、エジプトの地から彼らを導き出すために彼らの手を私が掴んだ日に(ちぎった契約のようにではない)。彼らこそが私の契約を破った時に、私は彼らを治めていた。ヤハウェの託宣。 

 預言というものは詩文です。そしてヘブライ語にとって散文(物語)よりも詩文学が先に生まれました。歌が物語より先、預言が律法より先です。詩は、俳句において特に明らかですが、無時間的です。過去・現在・未来という時系列を客観的に記すものではありません。ヘブライ語動詞は、英語やギリシャ語のように過去・現在・未来を表現しません。語り手の主観で、動作が完了していると断言するか、それとも完了していない含みを表現するかなのです。

 「ちぎった」は完了形です。特殊な表現方法として、「そして」と結びつく時に、「ちぎる」と未来の出来事のように翻訳することができます。確かに文脈から未来の出来事の予告でしょう。新しい契約はこれから結ばれるはずです。しかし、エレミヤ(あるいはエレミヤの信じるヤハウェの神)の心の中では救いと契約締結はすでに完了し、起こってしまっているのです。その主観が、「ちぎった」という完了形に現れています。「必ずちぎるぞ」という、神の強い意志ととらえても構いません。

 31節と32節において「ちぎった」はまったく同じ動詞のまったく同じ完了形です。このことで同じ神の並々ならない決意が、二つの契約締結に共通していることが言い表されています。神から見て、民を救うことは「私の契約」と言われます(32節)。しかし民イスラエルから見て、決して「私たちの契約」とは言われません。聖書の契約は、お互いに義務を課す、双方合意のもとにある契約とは異なります。例えば労働の対価としての賃金給付という、対等の双務契約ではありません。神の一方的救済を忘れないための契約が、神の手によって一方的になされるのです。葡萄園の経営者によって賃金は常に全員に1デナリオン給付されています。その恵みを忘れないこと、誠実であり続けることが葡萄園の労働者に求められています。

僕が主人に何を返すかは自由です。神がおのれの民を統治する方法は強権的ではありません。忘れる自由すらある、背反する自由すらあるのです。忘却、無視、逸脱、裏切り、これらの背信行為をする自由がないところに、約束は意味をなしません。神の願いは、信頼の共同体をつくることにあるからです。

 ユダヤ教徒はバビロンからの帰還が許された時に(前539年)、エレミヤ書31章の預言が実現したと信じました。しかし、彼ら彼女たちは、恵みへの応答としてエルサレムに「神の住まい」である神殿を再建築しました(第二神殿の建立。前515年)。果たしてこれは本当にエレミヤの本意だったのでしょうか。エレミヤはエルサレム神殿の存在を「強盗の巣窟」と痛烈に批判した預言者です(7章11節)。目に見える神殿に、見えざる神を「閉じ込める」ことはできないはずです。

福音書に記されているナザレのイエスは、増改築中の第二神殿、通称「ヘロデの神殿」を、エレミヤ書を引用しながら痛烈に批判しました。そのために神殿貴族たちに殺されました。キリスト教徒は、イエスが十字架で処刑され、三日目によみがえらされた時に、また、キリストによって永遠の生命が配られ、教会が設立された時に(後30年)、エレミヤ書31章の預言が実現したと信じました。神は神殿に住むのではなく、わたしたちが神殿となり、わたしたちの内に神が住む。イエスの霊の宮となるのです。それだから必ず神はわたしと共に居ます。わたしたちのあずかり知らないところで、救いは一方的に完了しました。わたしたちはただその救いを受け入れるだけで良いのです。「あなたも神の子であると知るために、わたしは十字架で殺され、あなたに復活の生命を与えた」という福音にアーメンと応えるだけです。すると、すでにイエスが心に住んでいたことを実感するという救いが与えられます。

 ヘブライ語は契約を交わす時に、「契約を切る」という言い方もします。割符のように半分に裂いて、双方が持つことに由来すると言われます。契約時に動物を真っ二つに引き裂くことも行われていたと推測されてもいます(創世記15章10節)。そこで私訳は「ちぎる/千切る/契る」としました。十字架の虐殺を「キリストの体を裂く」と表現し、主の晩餐で「パンを割く」と語ることは、ヘブライ語の契約締結の表現に由来します。

 教会にはエルサレム神殿は不要です。神は特定の建物にのみ居られるのではありません。「イエスが主である」と告白する二・三人の交わりの中に、聖霊の神がおられます。このような形で「神は私たちと共に居る」方です。この信仰を現わす形がパンを割く交わりというものです。主の晩餐を通して、わたしたちはイエスの救いを覚えて決して忘れないようにします。契約の更新が毎週なされ、恵みを忘れないようにしているのです。礼拝は弱い私たちの記憶の助けのためにあります。

33 なぜならばこれが、これらの日々の後に私がイスラエルの家とちぎる契約だからだ。ヤハウェの託宣。私は私の律法を彼らの内奥の中に与えた。そして私はそれを彼らの心の上に書く。そして私は彼らに属する神に成った。そして彼らは私に属する民に成る。 34 そして彼らは二度と教えない、男性が彼の隣人を、また男性が彼の兄弟を、次のように言いながら。「貴男らはヤハウェを知れ」。なぜならば彼ら全ては、彼らの小さい者から彼らの大きい者まで、私を知るからだ。ヤハウェの託宣。なぜならば私が彼らの罰を赦すからだ。そして私は彼らの罪を二度と思い出さない(からだ)。

 またもや完了形が使われています。断言口調の強い言い方が、今度は律法(トーラー)批判に用いられています。神は、律法(トーラー)を、信徒一人ひとりの心の中に与えてしまいました(33節)。申命記という権威ある法律が「律法の書」(列王記下22章8節)・「契約の書」(同22章2節)として用いられていた時代のことです。後に、申命記はトーラー(モーセ五書)の一部を成す正典の中の正典です。エレミヤは大胆にも神殿だけではなく律法も不要だと言いのけます。神が信徒の中に住み、神の言葉が直接信徒の心の中に与えられているのだから、書かれた文字としての神の言葉や、巻物の安置所としての神殿は要りません。神が霊であるからです。外形的な神の家・神の言葉、さらには割礼もエレミヤの批判の対象です(9章24-25節)。内心の自由こそエレミヤが大切にしていることです。

 この急進的な内面重視の主張に呼応したのが、エレミヤと同じベニヤミン部族出身のパウロです。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(コリント二3章6節)。明らかにパウロはエレミヤ書31章を念頭に置いてこの部分を書いています。パウロ系列の教会では「新しい契約」という言葉は常套句だったのでしょう。新約聖書が生まれる前のキリスト教会の礼拝は厳密な正典宗教ではありません。エルサレム神殿を追い出され、会堂での正典朗読を形式的と批判して会堂からも追い出され、ギリシャ語圏で教勢拡大がなされたことからも、そのことは推測できます。

 ペンテコステによって誕生した教会が重んじたのは聖霊です。書かれた文字(旧約聖書)を自由に霊的に解釈する解き明かしです。文字を意地悪く引用して割礼を強要することではなく、霊によって意外な者同士が隣人となり愛し合うという愛です。イエスに倣って率先して仕えることです。まず、神が民に属するものとなられました(完了形。33節)。その愛に応えて民が神に属するのです。イエスが弟子の足を洗い給仕することで、弟子たちは愛するということを学び、やもめたちを中心に食卓共同体をつくったのです。

 教会という交わりには、偉い人が上から教え込むということがありません。「主を知っている」と自慢する者が「主を知れ」と偉そうに語ることがありません。これらのマウント行動は男性に多いものです。小さい者から大きい者まで同時に、体の奥底に愛が行き渡っていれば、相手を支配しようという言動はなくなります(34節)。教えるということではなく、むしろ学ぶということが大切です。小さい者も大きい者も、子どもも大人も、相手が「神の愛を知る者」であることを前提にして、相手から学び、互いに愛し合うことです。

 「二度と教えない」(33節)と「二度と思い出さない」(34節)は呼応しています。民が高ぶらないことは、神の寛容さに根差す行為です。神の救いが愛の模範です。それは相手の罪/罰(アヴォン)を赦すこと、罪(ハッター)を思い出さないことです。弟子たちは、復活のキリストから赦されました。自分たちの裏切りの罪、見棄てた罪、否定した罪を赦されました。その愛に打たれて、教会という交わりをつくろうと立ち直ったのです。エレミヤの預言は復活のキリストにおいて実現しました。だからイエスは主であると告白する教会は、自分がされて嬉しかったことを隣人にします。それが恵みへの応答です。

 今日の小さな生き方の提案は、新しい契約に生きることです。エレミヤ―イエス―パウロの線を意識すると、言葉/文字重視・形式主義・男支配・権威主義・報復などへの批判が浮かび上がります。これらは旧い価値観です。十字架と復活による救いは無条件の赦しです。聖霊による教会形成は寛容さに基づくものです。定義し分類分けをし排除をするのではなく、全てを包み込み包含しようとする交わり。これがいつまでも古びない新しさを持っています。「一つの言葉」は求心力を持ちますがそれゆえに人を序列化します。中央に近い人が強いのです。霊は遠心力を与えわたしたちを散らします。それが平等を保障します。霊による愛の交わりを形づくっていきましょう。