新しい神殿の栄光 ハガイ書2章1-9節 2023年2月26日礼拝説教

ハガイ書は書かれた日付が明記されている珍しい預言書です。ペルシャ帝国を統治する「ダレイオス王の第二年六月一日」(1章1節)は紀元前520年8月29日(太陽暦)のことです。同じく「七月二十一日」(2章1節)は10月17日、「九月二十四日」(2章10・20節)は12月18日のことです。今から2500年前の三か月半が預言者ハガイの活動期間です。この短さも特徴的です。おそらくハガイは前587年で破壊されたエルサレム神殿(ソロモン王の建てた「第一神殿」)を見たことがある人です。2章3節の書きぶりから推測できます。前590年代に生まれ、神殿を見た時には子どもだったハガイ。彼は前587年にバビロンに連れて行かれ、帰還が許された前539年以後エルサレムに戻ってきます。前520年時点でハガイは七十歳を超える年配者であったと推測します。そして三か月半という活動の短さから、前520年ごろに死亡したとする学説もあります。

ハガイという預言者は、ただ一つの具体的な使命に生きた預言者です。それは神殿建築です。「わたしの祝祭」という意味の名前/あだ名は、彼がヤハウェの祝祭を神殿で行うことに特別な重みを感じていたことを示唆しています。ちなみに「七月二十一日」(1節)は「仮庵祭」という三大祝祭の一つのクライマックスにあたる日です(レビ記23章39節)。彼が子どもの頃に見た神殿は実物よりもさらに大きく感じられたことでしょう。そこでなされる祝祭は少年ハガイの心に深く刻まれています。

エルサレム神殿の瓦礫を見ながら、老ハガイは神殿の再建築を志します。実は前539年の帰還直後にも建築計画はありましたが挫折していました(エズラ記3-4章)。この挫折を乗り越えるべく二人の指導者(ゼルバベル、ヨシュア)と、住民全体を巻き込む神殿建築運動をハガイは指揮・主導します。なおハガイはエズラ記5章1節・6章14節にも登場しています。そして同6章15節によると、新しいエルサレム神殿は前515年に完成します。「第二神殿」と呼ばれます。ハガイの運動は四年後に結果を出しています。自らの死を前にしてハガイは一つの仕事を成し遂げるために預言者となったのです。

1 その七(月)において、その月に属する二十と一の(日)において、ヤハウェの言葉がその預言者ハガイの手によって生じた。曰く、 2 「ぜひとも貴男は言え、ユダの総督シャルティエルの息子ゼルバベルに向かって、また大祭司ヨツァダクの息子ヨシュアに向かって、またその民の残りの者に向かって。曰く、 3 『貴男らの中の誰が、彼の栄光における、先のこの家を見た、残されている者か。そしてどのようにして貴男らはそれを今見続けているのか。それと同じように貴男らの目の中に何もないかのようではないか。 

 ハガイが励ます主要な相手は、政治の指導者「ゼルバベル」と、宗教界の指導者「ヨシュア」です。ゼルバベルはダビデ王家の一族です(ヨヤキン王の孫)。「ユダの総督」と呼ばれます。統治範囲は不明確ですが、ゼルバベルはペルシャ帝国から任命された行政官としてエルサレム周辺を治めていました。ペルシャ帝国ににらまれない範囲で、帝国の安寧秩序を妨げない限りで、彼はユダの住民を統治することが許されていました。なるべくことを荒立てたくないという思いが、ゼルバベルの中にはいつもあります。彼の名前の意味は「バビロンの若枝」。バビロン生まれのバビロン育ちです。

 前539年に民を率いて帰還したゼルバベルとヨシュア(エズラ記ではイェシュア)は神殿再建工事に着手しましたが挫折しました。大祭司ヨシュアは礼拝については再開しましたが、礼拝施設の建築は中断させられました。「その地の民(アム・ハ・アレツ)」の反対が強かったからです(エズラ記3章3節、4章4節)。もしも礼拝施設が建築されたら、その建築費のために増税がなされるのではないか、異なる宗教行為へと強制されるのではないか、その地の民は危惧していたと思います。ゼルバベルもヨシュアも神殿建築の再着手には引け腰です。この二人を説得しなくては話が始まりません。

二人の指導者だけを説得しても足りません。さらにハガイは「先のこの家」(3節)=第一神殿を見たことのある同世代人に語りかけます。その人たちは歴史の貴重な証人として「残りの者」(2節)「残されている者」(3節)です。「その者たちは手をあげてみよ」と問いかけます。その場に少数ながらいたことでしょう。「崩壊した第一神殿をどのようにして今見続けることができるか」というハガイの問いに誰も答えられません。同じ問いは、大多数のバビロンで生まれた者たちの子孫に対してもなされます。答えは同じです。第一神殿を見たことがない人も、どのようにしても今それを見続けることはできません。全ての者の目の中には神殿跡地の瓦礫しかありません。

 両者ともに見えないのならば同じです。過去との比較は意味がありません。見えない未来の神殿に目を注ぎ、一丸となって一つの事業にとりくむべきなのです。年配者たちは「どうせ貧弱なものしか建たない」などと言って若者たちをくさらせてはいけないのです。若者たちは「自分たちにはイメージできない」などと言って諦めるべきではないのです。「老人は夢を見、若者は幻を見る」べきです(ヨエル書3章1節)。もしかするとゼルバベルは第一神殿/敗戦を知らない若い世代を代表し、ヨシュアは第一神殿/敗戦を知っている年長者世代を代表しているのかもしれません。

4 そして今貴男は強くあれ。ゼルバベルよ――ヤハウェの託宣――。そして貴男は強くあれ。大祭司ヨツァダクの息子ヨシュアよ。そして貴男は強くあれ。その地の民の全てよ――ヤハウェの託宣――。そして貴男らはつくれ。というのもわたしは貴男らと共に(いる)からだ――ヤハウェ・ツェバオートの託宣――。 

 ハガイは名指しでゼルバベルとヨシュアを励ましています。「強くあれ」と(4節)。この言葉は、イスラエルの軍事・政治・宗教指導者であったヨシュアという人物に神が語りかけた言葉です(ヨシュア記1章9節)。「強くあれ」、「なぜならヤハウェが共にいるのだから」という理由付けまでもが同じです。結局のところ指導者に必要なことは気の確かさという強さです。威張ることではなく、内面の堅固さが民をまとめ上げる際に必要です。ハガイは「逃げるな。腰を引くな」と二人に詰め寄っています。

 それだけではありません。ハガイは、かつて神殿建築工事を中断させた人々にも語りかけています。「その地の民」(アム・ハ・アレツ)です。エズラ記と全く同じ単語が使われていることに注目です。増税を恐れ、他宗教崇拝の強要に反発した人々。バビロンに連れて行かれず、さまざまな民と国際結婚をしていた民。バビロンからの帰還民(「残りの者」)に対して戸惑いながら共存している住民たち。それが「その地の民」です。

ハガイは、この人々に向かっても「強くあれ」と語り、一緒に神殿建築をしようと呼びかけています。前539年の建築工事の失敗の原因を、「二人の指導者が反対意見を組み込まなかったためだった」とハガイは考えているのでしょう。「貴男らはつくれ」(アーサー)と、最後に複数の主語の人々が命令されています。創世記2章4節で天地創造の神の行動のために用いられている動詞です。ゼルバベル・ヨシュア・残りの者たちだけではなく、その地の民という異質な者たちの協力こそが必要です。貴男ら全員が神殿を創造せよ、「というのもわたしは貴男らと共に(いる)からだ」。ハガイの口調は「ヤハウェの託宣」を連発しながらせり上がっていきます。最後には「ヤハウェ・ツェバオート」(万軍の主)という組み合わせまで登場し、5節以降につながります。

5 エジプトから貴男らが出て来た時に貴男らと共にわたしが契った言葉と共に(あるからだ)。そしてわたしの霊は貴男らの真ん中に立ち続けている。貴男らは恐れるな』。 6 なぜならヤハウェ・ツェバオートは次のように言ったからだ。『もう一度まもなく彼女とわたしは、その天を、またその地を、またその海を、またその乾いた土地を揺さぶりつつある。 7 そしてわたしはその全ての国々を揺さぶった。そしてその全ての国々の望みは来た。そしてわたしはこの家を栄光(で)満たした。』ヤハウェ・ツェバオートは言った。 8 『その銀はわたしに属する。そしてその金はわたしに属する――ヤハウェ・ツェバオートの託宣――。 9 先より後の、この家の栄光は大きくなる。』ヤハウェ・ツェバオートは言った。『そしてこの場所の中にわたしは平和を与える。』――ヤハウェ・ツェバオートの託宣――。」

 4-9節には、「ヤハウェ・ツェバオート」という組み合わせが6回も繰り返されています。鍵語です。ヤハウェは神の固有名、ツェバオートは神の特徴を示すあだ名です。この組み合わせは預言者に多く(300回中247回)、特にハガイ・ゼカリヤ・マラキの三人が特愛の表現です(91回)。前6世紀後半以降の時代の人々は、神をヤハウェ・ツェバオートと呼びたがります。ツェバオートの意味は、「万軍」よりは「森羅万象」という意味にずれています。ユダヤの民が武装解除され非軍事化されているからです。軍神ではなく、天地万物を創り保つ神。これこそヤハウェ・ツェバオートが指し示す神の性質です。

天地を創った大いなる神が小さな民と共にいるので神殿建築も「絶対大丈夫」というのです。霊の神は民の真ん中におられます。だから恐れることはありません(5節)。もう一度「彼女(わたしの霊)とわたし」(神の霊と神)が天地を震わせ揺さぶり、それによって再創造するというのです(6節。創世記1章2節)。神ご自身が神殿を建てるのだから大丈夫です。絶対的権力ペルシャ帝国も神が揺さぶっておいたから口出ししません。大丈夫です。神礼拝はすべての国々が宗教の違いを超えて望んでいることなのだから、神殿建築は実現します。大丈夫です(7節)。神は、この家を自分の家として住みます。「栄光」とは神の臨在を意味します。いったん離れた栄光が再び新しい神殿に帰ってきます(7・9節。エゼキエル書11章23節・43章4節)。神が選んだのだから大丈夫です。建築資金の心配もいりません。金も銀も被造物なので神の所有物です。だから建築による増税もなく大丈夫です(8節)。「そしてこの場所の中にわたしは平和を与える」(9節)。だから大丈夫です。聖書の神は、新しい具体的な使命、諦めかけたけれどもやはり成し遂げるべきなのだと掴みなおした志を、「絶対大丈夫」と温かく励ます方、神は強める(エゼキエル)方です。預言者ハガイは、短い活動の中でそのことを証明しました。

 今日の小さな生き方の提案は、老若男女を問わず誰でも志を持つことです。あるいはさまざまな人々が集まり礼拝しているわたしたちが、何か具体的な一つの志を持つということです。わたしたちは何かを新しくつくることや、一度挫折したことをつくりなおすことに、恐れをなして逃げたくなる弱い者たちです。「強くあれ」と、主イエス・キリストは励ましておられます。そして「絶対大丈夫」と優しく微笑んでおられます。天地万物を造られた方は、天と地の間に起こることについて何も恐れる必要がないとおっしゃっています。大いなる方の霊は、どんな小さな人にも群れに対してもそのど真ん中には居られます。神はわたしたちと共に居られます。だから絶対大丈夫です。