新しい葡萄酒 ルカによる福音書5章33-39節 2016年9月25日礼拝説教

先週イエスの弟子たちの行動と、ファリサイ派の行動が異なることが、徴税人や罪人たちとの食事で明らかになりました。ファリサイ派が憎んでやまない徴税人であるレビをイエスは弟子にし、さらにイエス一行は元徴税人レビの自宅で盛大な宴会を催したのでした。全体的にルカ福音書は「徴税人」びいきです(18章9-14節、19章1-10節)。

今日の箇所は先週の続きです。イエスの弟子たちの行動は、ファリサイ派だけではなくバプテスマのヨハネの弟子たちの行動とも異なることが明らかになります。徴税人と共に食べるということだけではなく、宗教的な断食という苦行をしないということにおいて、イエスの仲間たちはファリサイ派ともヨハネ宗団(エッセネ派の分派)とも違うというのです(33節)。

イエスは二種類の譬え話を用いて説明しています。結婚の譬え(34-35節)、新旧ミスマッチの譬えです(36-39節)。一つずつ見ていきましょう。

イエスの一行は修行として断食をしません。その一つの理由は、イエスと一緒に居ることが喜びだからです。断食は苦行です。決して嬉しいものではありません。結婚式の披露宴で客に断食をさせる主催者がいるだろうかとイエスは問います(34節)。

ヨハネ宗団は苦行によって神に近づくことができると考えていたのでしょう。断食をし、祈祷をささげ、浄めの儀式をし、人間の煩悩を断ち切っていくときに、人間の側から神に近づいていくイメージです。このイメージだと神に近づくまでは極めて苦しい修行が続きます。さらにいつ出会えるのかも分かりません。また苦しい修行は、しばしば能力主義を引き起こします。できる人とできない人との比較と競合です。神に近づくはずが、人を蹴落とすことになる場合すらありうるでしょう。「ファリサイ派の人と徴税人」の譬えは、この類の倒錯を示しています(18章9-14節)。

徴税人のレビに起こった出来事を考えてみましょう。メシアが突然日常業務に就く彼の目の前に現れました。誰からも声かけられず、触ってももらえない彼に、「わたしの後ろについてきなさいよ」と親しく声をかけたイエス。花婿というのは突然現れるのです。キリストの弟子になることは、キリストと結婚するということに喩えられる場合が今もあります。弟子レビの送別会は結婚披露宴に似ていました。そこでレビは断食を客に強いるでしょうか。「わたしは嬉しいので、どうか一緒に喜んでください」と言うのではないでしょうか。

もう一つの理由は、断食という古い宗教伝統と、イエスの始めた新しい鼓動は合わないということです。イエスに従う新しい生き方は、新しい服や新しい葡萄酒に喩えられます。今までの伝統的な生き方は、古い服や古い革袋に喩えられます。断食という宗教的な修行は古い生き方の一つです。新しい生き方と合いません。この両者の関係は、新しいものが古いものを内部から引き裂くというものです。ユダヤ教の中から、キリスト教が分派したことを指しています。

イエスの仲間たちは宗教的な理由で食べないことを評価しません。むしろ喜んで共に食べるということを高く評価します。ここにユダヤ教を引き裂き、ユダヤ社会を揺るがせ、ローマ社会にまで衝撃を与えた新しい生き方があります。

結局人に力を与え、社会を変える原動力は、喜びと新しさです。ルカ福音書4章(マルコならば1章)から始まるイエスの活動は人々に力を与え、仲間になりたい人がぞくぞくと与えられていきました。イエスに癒された人々には喜びがありました。イエスの解く聖書の教えに新しさがありました。イエスが律法をあえて破る行為をし、その理由付けを聖書によって説明する時に、喜びと新しさが人々に感動を与えたのでした。渋い顔で断食をし祈ることを勧めることで、汚れた霊に取り憑かれた人や熱病患者の女性、流れ者の漁師、ハンセン病患者、麻痺によって肢体不自由の人、徴税人が救われるでしょうか。

イエスは断食を重視しないだけではなく、宗教的な理由で特定の人と共に食べないことをも批判します。徴税人や娼婦とも共に食卓を囲む時、宗教の嫌らしさが批判され、乗り越えられていきます。だから喜んで共に食べるのです。ここまではマルコもルカも同じです。わたしたちも喜びと新しさを自分たちの生き方にあてはめなくてはいけません。ここで批判されている断食に似た宗教的な行いを、わたしたちも一掃しなくてはいけません。

ところが、ルカは福音書の続編である使徒言行録を書いているので、マルコには無い面白い味が出ます。折角ルカを読んでいるのですから、ルカの風味も大事に味わいましょう。ルカの問いは、何も宗教的な行いをしないとしたら、教会に集まる積極的な意味はあるのだろうかというものです。

使徒言行録で紹介されている教会は、宗教的な意味で共に食べることを積極的に勧めます。しかもそれを礼拝儀式の中心に据えました。主の晩餐です。ルカの描く初代教会は礼拝を「パンを裂くこと」と呼ぶほどです(使徒言行録20章7節)。この重要性を踏まえて泉バプテスト教会においては(カトリック等と同様に)、主の晩餐という宗教的・儀礼的食事を積極的に毎週行なっています。先週のレビの自宅の盛大な宴会をルカは主の晩餐と重ね合わせていました。今日の箇所においても、同じ重ね合わせがあります。自分の目の前に置いて参考にしていた元本であるマルコ福音書2章18-22節を、ルカは微妙に改変しています。ルカ独特の言葉遣いに留意しながら、確認していきましょう。

「飲んだり食べたり」(33節。30節にも)は、マルコにありません。マルコ版において批判者は、「なぜあなたの弟子は断食しないのか」と直接に問うています。「飲むこと・食べること」という風に分けることで、「葡萄酒を飲むこと・パンを食べること」である主の晩餐が示唆されています。

「新しい」という単語をルカは好んで使います(36節)。この単語は、最後の晩餐の記事に登場します。ルカ福音書22章20節、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(154ページ)。マルコは「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14章24節)としています。パウロの友人であるルカは、「新しい契約」という言い方をパウロから引き継いでいます(Ⅰコリント11章25節)。

このしい契という言葉が、新約聖書の語源です。キリスト教はユダヤ教から分岐して生まれました。その際に、ユダヤ教徒を侮蔑しつつ、「あなたたちは旧い契約に固執しているが、自分たちは新しい契約に立つ」と主張したのでした。今日、過度に新しい契約を強調することは、ユダヤ教徒との対話を困難にするので気をつけなくてはいけません。また、旧約聖書を軽視する姿勢を促すことにも注意しなくてはいけません。「旧約聖書」という呼び方の代わりに、「第一の契約書」や「ヘブライ語原典」と呼ぶ理由は、侮蔑的な態度に対する悔い改めにあります。なお、「新しい契約」という表現を最初に使ったのは旧約聖書の人物である預言者エレミヤです(エレミヤ書31章参照)。パウロもルカも真似ているだけです。旧約聖書以来の伝統やユダヤ人の歴史の重要性を示す事実です。新約聖書は旧約聖書の基盤なしには成り立たないし、キリスト教会はユダヤ人の神の民としての歩みの一つの継承なのです。

ルカは39節の部分をマルコに付け加えました。「古い葡萄酒を好む人がいても良い」という趣旨の言葉です。この付け加えは完全にピンぼけです。論理的に期待される付け加えは、「古い葡萄酒は古い革袋に入れるべきだ」でしょう。今まで論じられていない話題を持ち込んでいるので、譬えの役割すら果たしていません。しかしながら、ユダヤ教徒との対話を重視するべきだとする立場から見れば、この付け加えには現代的意義があるとも言えます。旧い契約をあえて採る人・古い葡萄酒を好んで飲み続ける人がいても悪くないからです。ルカの宥和的態度にも馴染むものです。

ともあれ、ルカが「新しい」という言葉を好むということは重要です。レビ家の盛大な宴会を、最後の晩餐と結びつけているからです。イエスが罪人と呼ばれていた人々と食卓を囲んだことと、十字架前夜の食卓が結びつきます。出発点と到達点のような関係です。イエスと共に過ごすことは、婚礼客が花婿と一緒にいる喜びに喩えられます(34節)。

こうして、「花婿が奪い取られる時」(35節)が明らかになります。それは十字架の時です。神の子イエスが十字架で処刑された時、弟子たちは大きな悲しみに包まれます。食事も喉を通らない状況です。復活までの日々、彼ら彼女らは結果として「断食」をしました。復活者イエスと出会った時、彼ら彼女らの「断食」は解かれ、再び共に食卓を囲みます(ルカ24章、ヨハネ21章)。それもつかの間、復活後40日が経つと、イエスは昇天してしまいます。またもや神の子無しの断食と祈りの日々が十日ほど続きます(使徒言行録1章)。

ペンテコステの日、イエスの霊・聖霊が弟子たちに降ります。この時、花婿が奪い取られている日々が終わりました。この時、教会が誕生し、主の食卓が聖霊を中心に礼拝の中で行われるようになりました(同2章46節)。神の前での断食はしない、むしろ神と共に食べる、なぜならイエスと共に居ることがこの上なく嬉しいから。これこそキリスト教会が始めた新しい宗教伝統です。主の晩餐は結婚式の披露宴にあたります。

主の晩餐にはもう一つの側面もあります。初代教会はしばしば「人肉食宗団」と陰口を叩かれていました。毎週日曜日に集まって、教祖イエスの体を食べ・その血を飲むという怪しげな儀式を行っていると噂されていたからです。「新しい葡萄酒」は、「新しい契約の血」の象徴です。敵や味方も含む全ての人の根源的な倒錯(単数の罪)のせいで流され、全ての人の代わりに流され、全ての人のために流されたイエスの血。十字架につけられたその時、「イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」(23章34節、使徒言行録7章60節も参照)。

十字架は圧倒的な肯定です。一方的かつ完全に赦されてしまっていたという恵みの出来事です。加害者が被害者に全面的に赦されることは人間社会ではありえませんし、期待すべきでもありません。裁判上の「和解」は妥協に満ちた条件闘争です。聖書の語る「和解」は神の子イエスだけにできる救いです。この赦しを知った者・恵みに気づいた者は、ただ頭を垂れて、「主よ、罪人のわたしをお赦しください」としか言えません。

十字架の出来事を忘れないために、五感を駆使してわたしたちは主の晩餐を行います。毎週新しい葡萄酒を飲むことで、内側から古い自分が引き裂かれ、痛みを伴うかたちで罪の赦しが思い出されるようになるのです。痛みを伴う喜びに、いつまでも古びない新しさがあります。

今日の小さな生き方の提案は、いつまでも続く喜びと新しさを身に付けることです。永遠の命とも呼びます。わたしの罪を赦し・全存在を肯定する方と共に生きること、勤行ではない内容で主の晩餐を中心にした礼拝を捧げ、毎週古い自分に死ぬこと、そこで復活の力を受けて悔い改めの実を日常生活で結ぶこと、このサイクルにいつまでも続く喜びと新しさがあります。