新たに生まれる ヨハネによる福音書3章1-15節 2013年6月9日礼拝説教

いつかの新聞で「老人には二種類ある」という文章を読みました。次のように文章は続きます。「老人には二種類ある。すなわち、元若者であった老人と、元々老人であった老人との二種類だ」というのです。実際の年齢と、いわゆる「老人」であるかどうかということは関係がないということでしょう。この場合の「老人」は悪い意味で使われています。言わば老け込んだ人というような意味合いでしょう。年齢がどんなに若くても老け込んだ人はありうるでしょう。

ということは、「元々若者であっていつまでも若者である人、決して老人とならない人」という第三番目の種類の人もいるのかもしれません。わたしたちの幼稚園の保護者には最近エベレスト登頂に成功した三浦豪太さんがいます。ご一緒に登頂成功した父親の三浦雄一郎さんという方は、多分一度も「老人」となられなかった方なのかと、テレビなどを観る度に思いました。実際の年齢は80歳ですが、しかし「老人」ではない。なぜかと言えば、常に夢があって、その夢に向かって自分の体を鍛えて変えていくからです。あきらめていないし変化を恐れていないからです。つまり老け込むということは変化を恐れて「今のままで良い」と考えることなのでしょう。

 

今日の聖書の箇所にも、決して老け込まない人が出てきます。ニコデモというおじいさんです。この人は国会議員兼最高裁判事のような立場の人です。

※  余談ですが、このニコデモという名前は、わたしにひとりの園児の名前を思い出させます。今年のTシャツのデザインをしてくださった保護者の娘さんの名前です。楽屋落ちで恐縮ですが。

ニコデモはいつまでも若い人です。自分の考えに凝り固まらずに、新鮮な考えを喜ぶからです。ニコデモはイエスの泊まっている宿に夜一人で尋ねます。なぜかと言えば、イエスという人の教えが、今までの自分の考えていたこととずいぶん違うと思って、そこに新鮮な驚きを持っていたからです。若い人はいつも新しい考えを聞きたがるものです。ただし若干のはばかりがあったのでしょう。同僚の議員・判事たちをイエスが批判しているので(先週までの話)、夜目立たない形で訪れたのでしょう。

ずいぶん前にイチロー選手が登場していた日産のコマーシャルに「変わらなきゃ」というのがありました。その後、同じシリーズのコマーシャルで「変わらなきゃも変わらなきゃ」というのがあり、なるほどなと思いました。ニコデモもそのような気持ちでイエスを訪ねたのでしょう。彼は若者です。変化を恐れていないし、自分の理想・夢をいつも追いかけているからです。

昔のユダヤも今の日本と同じで、目上と目下という関係が重んじられていました。目上であるニコデモが「ラビ(わたしの先生)、あなたは神と共にいる方です」と、若いイエスに言うことは大変な勇気ある発言です。ニコデモは自由な人です。

イエスはニコデモの自由なあり方に共鳴して答えます。「アーメン、アーメン、わたしは言います。新たに生まれる人は神と共にいます」。

ニコデモは尋ねます。「新たに生まれるということはどういう意味ですか」。

イエスは答えます。「風のようになることです。どこから来てどこへ行くのかわからない、あの風のように生きるということです」。

ニコデモは尋ねます。「風のように生きることがどのようにしてできるのでしょうか」。

イエスは笑い飛ばして答えます。「今、あなたがしていることが、新たに生まれること、風のように生きることですよ。あなたはユダヤ社会では出世をして地位のある人なのに、わざわざわたしを見に来たではないですか。話を聞きに来たではないですか。新しいことに開かれた心と、自分を変えたいという意思と行動、それが常に新たに生まれること、常に若者であることです。そのような人はとても自由に行動します。あなたのように。そしてそのような人が神と共にいる人なのです。なぜかと言えば、神は自由に動き回る風のような方だからです。」

この言葉を聞いて、ニコデモは非常に喜びました。そして、その日から彼はイエスの弟子となったのです。彼の同僚の国会議員・最高裁判事たちはほとんどがイエスに反対する人たちでした。その中で、二人だけイエスの弟子となる人がいました。ニコデモとヨセフという人です。そして二人とも時々議会や裁判所で勇気ある発言をすることになります。とても自由な人たちです。普通周りに流されたり、新たな考えに従ったりはしにくいものです。しかし、彼らの心は若者であり自由であり続けたのですね。数の力に縛られずに、自分が本当に大切だと思うことを公に正直に言う自由な人だったのです。ニコデモはこの日から、夜だけではなく昼間の勤務の時間も「わたしはこう思う」と自由に発言する勇気が与えられました。

 

今日わたしがお薦めしたいことは風のような自由です。いつも変わる準備をもって生きるということです。それが題に付けました「新たに生きる」という生き方です。「永遠の命を得る」とか、「神の国に入る/見る」とか「神ともとから来る」とか「神と共に生きる」とか、いろいろな言い方があります。しかし要するに、毎日新たに生まれ変わるという意味だと思っていただいて構いません。

わたしたちは参観日に限らずいつでも日曜日の礼拝にどんな人も(最近ではどんな犬も)来てほしいと願っています。しかし逆から考えると何か「得」がないとわざわざ日曜日の午前中に教会にまで行ってみようかという気持ちにはなりません。教会がみなさんにお出しできる「得」とは何かと考えます。誰も楽しくないところには来ないでしょう。また誰も意味のある時間を過ごせないならばその場所に来続けないでしょう。

子どもの授業参観は何が楽しいのでしょうか。またどのような意味で「意味のある時間」なのでしょうか。わたしにも子どもがいますが、授業参観に行くことは結構楽しかったですね。そこには新しい発見があるからです。普段あまり幼稚園や学校に行きません。だから場所を知るだけでも面白いのです。さらに自分の子どもがどんな様子でクラスにいるのか勉強しているのか、これも新しい発見です。先生の授業もやはりもの珍しい、特に教師の教え方は自分の子ども時代からは格段の進歩があります。自分が実際に見に行って、そして新しい発見があって、そしてさらに自分が変わるのです。これが楽しくて意味のある時間の過ごし方です。

教会の礼拝もそのような楽しさがなければ人は集まらないでしょう。どんな人が来ても、「お、ここには何かある」「今日は一つためになった」「ほんの少し生き方を変えてみよう」と思わせる内容が、授業参観と同様に必要なのでしょう。そうすれば、自然と人は増えていくのです。いつも変わる準備がある自由な人が、自由を求めて集まってくるものなのです。教会が提供できる「得」は、新たな生き方の小さな提案です。これを毎週地域にお配りするために、教会は存在するのです。

 

そこで、本日向けの「新たに生まれる」ことの一例をひとつだけ申し上げて、みなさんに本日分の「お得感」を提供して終わりたいと思います。それは、「アーメン、アーメン、わたしは言います」という生き方です(3・5・11節)。

「アーメン」という言葉は「本当に」「その通り」という意味の言葉です。お祈りや賛美歌の最後に付ける場合、言葉の内容に同意しているということを意味します。相手の祈りの言葉に、本当にその通りだと思えばアーメンと相槌を打つということです。この一つのトリビアだけでも「得」かもしれませんね。

普通、アーメンは他人の発言の最後に一回だけ付けるのですが、イエスは自分の発言の最初に言う癖がありました。しかも二回重ねて言う場合も、今日の箇所のようにありました。大変めずらしい言い方です。このアーメンの使い方に、穏やかで毅然とした態度が伺えます。誰からの同意がなくても良い、自分は自分の意見を言うという構えです。

そして「わたしは言う」とイエスは必ず主語を立てています。日本語訳(「はっきり言っておく」)ではわかりにくいのですが、原文のギリシャ語では、「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」とはっきりと主語を立てて語っています。

この主語を立てるという語り方が、今日の小さな生き方の提案です。日本語は主語を立てなくても話し合いが成立する言語です。代わりに敬語表現が発達しているからです。「いらっしゃった」と言えば、目上の人が来たのだとわかりますし、文脈次第ではそれが誰なのかも特定できます。「申し上げます」と言えば、「わたしは」が無くても通じます。さきほどの日本語訳でも主語は省かれています。

これは日本文化と深く関わったことです。言語は文化の代表だからです。わたしたちは主語をあいまいにしたり、隠しておいたりすることに価値を持っています。そのことは自分の意見を言うということに対してはマイナスになります。しかしその分、相手の気持ちを推測するということに対してはプラスになります。

おそらく日本社会に暮らしていれば自然に相手の気持ちを推測すること、空気を読もうとすることは身につけるでしょう。だから、自分の意見を毅然として穏やかに伝えることが、新しい生き方の提案となります。主語をきちんと立てて、言いたいことを失礼のない形できちんと伝える人に少しでもなれたら良いと思うのです。これは対話ができる人になる第一歩です。多分、TOEFLで高得点を取ることができるようになっても、外国の方々と討論をしたり仲良くしたりすることは難しいでしょう。言語と文化は一体です。主語を立てる生き方、自分の言葉に責任を負う生き方を共有できないと、対等の話し合いはできないと思うからです。

小さな提案です。主語を意識して生活してみましょう。それは少しだけ波風を立てるかもしれません。わがままと言われるかもしれません。しかしそれは最初だけです。むしろ「あの人は」という主語、「あなたは」という主語で話し合う時にこそ、紛争はよりこじれていくからです。またストレスも溜まっていくからです。良い意味で「わがまま」な人が増えるときに、逆にどんな人とも肩を組める社会、老け込まない社会、柔軟な社会がつくられていきます。

幼稚園でも子どもたちに自分の意見を言える人になってもらいたいと願って子どもの意見を引き出しています。それは実は大人社会でも同じなのでしょう。「わたしは言う」とお互いに穏やかに堂々と言える人になりたいと願います。