暗くなってゆく灯心 イザヤ書42章1-4節 2022年12月18日(待降節第4週)礼拝説教

 アドベントの第四週となりました。先週までに紀元前8世紀のエルサレムに生きた預言者イザヤの残した「メシア預言」を三回取り上げました。キリスト教徒は、700年後にイザヤの待望した救い主を、イエス・キリストに当てはめたのでした。それは大胆な解釈でした。しかしそれと同時に、それはイザヤその人の20年以上にわたる熟慮の内容に重なるものでした。はじめイザヤはダビデ王朝に期待していましたが、徐々に民族主義を乗り越えていきます。祖国の滅亡を予感し、軍事政治による王国の支配ではない、正義(ツェダカー)・公正(ミシュパート)による平和を打ち立てるメシアを待ち望みます。

 本日の箇所はイザヤの弟子集団が書いた部分です(前550年ごろ)。40-55章は南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされた後、捕囚の地バビロンでイザヤ書に加筆された部分です。イザヤの弟子たちは、王国の滅亡を師匠イザヤの預言の的中と確信しました。そして、ダビデ王朝によらない救いとは何か、軍事政治によらない支配とはどのような人々によって創られていくのかを考え続けました。「王」ではなく「僕」によって平和は打ち立てられるはずです。こうして40-55章には「主の僕の詩」と呼ばれる詩が収められています。この人物が誰であるのかは学説が分かれますが、本日はイザヤの弟子集団の指導者であり40-55章を中心的に加筆した人物としておきます。

1 見よ。私の僕。私は彼を掴む。私の選んだ者。私の全存在は喜んだ。私は私の霊(を)彼の上に与えた。公正(を)諸国のために彼は引き出す。 2 彼は叫ばない。そして彼は上げない。そして彼はその通りにおいて彼の声を聞かせない。 3 傷められ続ける葦(を)彼はこわさない。そしてくすぶる灯心、彼はそれを吹き消さない。真理のために彼は公正(を)引き出す。 4 彼はくすぶらない。そして彼はたゆまない。その地において公正(を)彼が据えるまで。そして彼の教えのために島々は待つ。

 預言という文学は、「神の伝言」というかたちで語られます。ここで「私」と言っているのはヤハウェ神のことです。40-55章を主導的に加筆した人物の同僚たちが、自分たちのしている預言書加筆作業の指導者のことを指して「ヤハウェの僕」と呼んでいます。この匿名の指導者を「第二イザヤ」と呼びます。そして「主の僕の詩」は、「神目線」に立って第二イザヤを評価します。だから「主の僕の詩」部分の加筆は、第二イザヤが死んだ後になされたのかもしれません。たとえば53章の「苦難の僕」については、確実にそうです。

 第二イザヤという文筆家は「言葉」によって、捕囚とされたユダヤ人共同体に解放の希望を与えていた思想家です。しかしそのためにバビロン当局によって思想犯として処刑されたと推測されます。彼はおそらく仲間たちの代わりにただ一人処刑されたのです。仲間たちは彼の死を惜しみ彼を記念して「主の僕の詩」をイザヤ書に加筆します。第二イザヤがどのようにして平和を創り出そうとしていたのか、預言という文学のかたちで評価をするのです。

見よ。私の僕。私は彼を掴む。私の選んだ者。私の全存在は喜んだ。私は私の霊(を)彼の上に与えた。」(1節)。平和を創り出す人は、神によって掴まえられた人です。使徒パウロも、自分は神を捕えたのではなく、神に捕えられたのだと言っています(フィリピ3章12節)。このような視点の逆転なしには、人は信仰を持つことはできないと思います。信仰とは神を掴むことではなく、神に掴まえられる経験です。

平和を創り出す人は、自らが平和に生きている人です。個人の内心の平和は自己肯定感と言い換えられます。自己肯定感は自分の存在を肯定する神によって養われます。神がその全存在を肯定し、喜んでいることを知っている人に平和があります。「地には平和、御心に適う人にあれ」と天使が歌っている通りです(ルカ2章14節)。平和な人の上に平和を創る力(「私の霊」)が与えられます。

では平和とは何でしょうか。この箇所に三回繰り返されている「公正」(ミシュパート)という言葉が平和の基礎・基本要素を教えています(1・3・4節)。ミシュパートはシャファト(裁く)という動詞の派生語です。イスラエルにおいては裁判による統治が基本でした。同じ動詞の派生語にショーフェート=士師という言葉があることはその証拠です。士師は民の指導者の称号です。ミシュパートは「公正な裁判による統治」という意味の抽象名詞です。武力によらない平和や、言論による統治というものの具体がミシュパートによって言い表されています。

仲間たちから見て人格円満の第二イザヤという人物は、捕囚のユダヤ人共同体を公正に裁いていたのでしょう。そして、このような人が世界中に居れば良いのにと、彼ら彼女たちは思います。公正を諸国のためにも引き出してほしいと願うのです。グローカル(globalとlocalの合成語)な発想です。足元の実践が、世界全体に引き渡ってほしいという希望です。実際第二イザヤという人も仲間たちと同じく、ミシュパートをバビロンから世界中に伝播させようと考えてもいたのでしょう。4節の「島々」は、地中海の島々のことと推測されます。遠くバビロンから祖国ユダの地、さらに西の地中海の島々まで、「彼の教え(トーラー)」は伝播されるべきなのです。それがこの人々がイザヤ書に加筆し、それを書き写して伝播させようとした動機だったのだと思います。

2節以降は、人物描写に焦点を絞っています。「彼は叫ばない。そして彼は上げない。そして彼はその通りにおいて彼の声を聞かせない。」仲間たちから見て、第二イザヤは文筆家・編集者であって演説家・雄弁家・プレゼンテーターではないというのです。大声で叫ばない人、いろいろな意味でいろいろなものを「上げない」人、巷では声を聞いたことがない人なのだそうです。「上げる」(ナーサー)の基本の意味は「持ち上げる」です。物を担う時に使います。物によって、たとえば「旗」であれば「掲げる」と訳します。「神の名」であれば「唱える」「騙る」などとも訳せます。手であれば「手を挙げる」と訳します。「声」ならば「声を上げる」という日本語がぴったりです。そして聖書には「心を上げる」という表現もあります。それらすべてを含んで、第二イザヤという人は誰をも何をも上げない人です。自分自身は上ずらない人、上滑りしない人です。そして他人をお世辞で持ち上げることもせず、煽り上げて扇動することもしません。平和を創り出す人とはこのような人です。

傷められ続ける葦(を)彼はこわさない。そしてくすぶる灯心、彼はそれを吹き消さない。」(3節)。苦しみ悩む隣人に対して、第二イザヤの関わり方は特徴的です。彼は「壊れそうな状況に陥っている人」に対して、彼の関わり方は丁寧で慎重です。何らかのハラスメントを受け続けている人に対して、「あなたにも落ち度があったのではないか」とか、「その程度のことで傷ついたなどと言わずに頑張りなさい」とかと言いません。これらの発言は二次加害というものです。そのような言葉によって、ハラスメント被害者は完全に壊れてしまいます。すがる思いで信頼して打ち明けたのにもかかわらず、その希望の灯が無理やり吹き消されてしまうような感覚です。

第二イザヤという人は、おそらく悩み苦しむ隣人の傍らに座り続け、何も言わずに痛いところをさすってくれるような関りをする人だったのだと思います。くすぶる灯心の風よけになり、そっと見守るという関わり方です。希望の灯を消さないようにするけれども、油を差したり、灯心を伸ばしたり、風を送ったりという加工をしない。灯心自身が燃えたいように燃やす。そこまで見守って待つのです。公正に基づく平和とは、一つの定規に当てはめて人を一律に扱うことではありません。窮地に立たされている人を、その人の尊厳を尊重しながら支援すること、それによって社会のへこみを埋め戻すことです。

 「彼はくすぶらない。そして彼はたゆまない。」(4節)。くすぶる隣人の支援をする一方で、第二イザヤ自身は決して希望を失いません。世界にも、隣人にも、自分にも絶望しません。心が折れることもなく、淡々と地道に自分の信じる公正に基づく平和な社会の実現のために歩みを続けます。平和を創り出す人とは、このような人です。王のように権力を振りかざし誰かを支配するのではなく、僕のように隣人に仕え、公正に扱われていない人を公正に尊重し、それをひけらかすわけでもなくまた諦めるでもなく、地味に楽観的に続けていく。このような人こそ、ヤハウェの僕、メシア、キリストです。

 第二イザヤがバビロンの地で生きかつ殺されて600年ほどが経った時、ナザレのイエスがパレスチナで活動を始めました。仲間たち同士が仕え合う共同体を創る「神の支配運動」です。仲間たち同士で給仕役・足洗い役を買って出る交わりの網を、旅をしながら広げていくのです。イエスは傷つけられ続けている人々に対して、第二イザヤのように関わりました。合法的宗教的に汚れているとされた人々に触りました。その人々の家を訪ね客となりました。法律によって結婚を5回も強要された女性と心の通う対話をしました。子どもの病気や死に嘆く父や母に寄り添いました。飢えている者たちにパンを提供し満腹させました。イエスはくすぶる灯心を消しません。これが平和です。

 イエスはどのような心持ちで活動を続けて行ったのでしょうか。聖霊に満たされ神の霊が原動力だったと言われています。自己肯定感が充満し、自分にも他人にも失望していない人だったと思います。しかし苦しむ隣人のために権力を振るう論敵に対して公正を要求し続ける人でした。それを明るく淡々と地道に行い、誰をも恨まず誰をも羨まず、自分の使命として担い続けます。イエスは自身の灯心も消しません。

このイエスが第二イザヤのように仲間たちの身代わりに十字架で処刑されました。その後イエスの仲間たちは、復活のイエスに出会い目撃し、一方的に罪を赦され、イザヤ書53章の苦難の僕がイエスであると信じます(使徒言行録8章32-33節)。その信仰を基にしてキリスト教会が建てられました。教会という交わりに平和の実現があります。キリスト者たちは、ヤハウェの僕とはナザレのイエスである、イザヤはイエスの到来を予告したのだと信じました。マタイ福音書が明確に本日の箇所を引用している通りです(マタイによる福音書12章18-21節)。彼ら彼女たちは旧約聖書全体を読み直し、イエス・キリストの生き方と死に方に当てはまる様々な箇所を見出します(ルカ福音書24章25-27節)。それらが旧約聖書に散在している「メシア預言」と呼ばれる箇所なのです。メシア預言は「イエスが主である」という信仰を強化します。

今日の小さな生き方の提案は、クリスマスが光の祭典、ロウソクを用いた礼拝であることに思いを馳せるということです。人間は「考える葦」でもありますが、傷つけられ続けている葦でもあります。ここにはくすぶる灯心を抱いている人もいることでしょう。キリスト信仰が与えられる時、私たちは絶望の一歩手前で必ず食い止まります。人は希望によって生き、そして絶望に至らないということによって死なないのです。心にキリストが生まれ、心のロウソクに火が灯される時、私たちは決して死にません。自分の尊厳が守られ、心が折れずにたゆまず歩き続ける力が与えられるからです。