死からいのちへ ヨハネによる福音書5章19-30節 2013年8月4日礼拝説教

「父」「子」「聖霊」の三者がひとつの神であるということが、キリスト教の大きな特徴です。四つの福音書の中でヨハネ福音書には、三位一体という教えが最も色濃く現れています。特に、「父」と「子」、神と神の子イエスがひとつであるという言葉が、何回も登場します。今日の聖句もその一つです。

本論に入る前に、その前提になる重要な課題を済ませておきます。それは「父である神」についてです。父なる神の問題はキリスト教の歴史にとっての痛みです。「神が父である」という考えはイエスが神を「わたしの父」(17節)と呼んだことに由来します。ヘブライ語「アビ」、アラム語「アッバ」です(マコ14:36)。旧約聖書においては実は数回しか神は父と呼ばれていません(新約では、ヨハネ福音書のみで100回以上)。ですから、神が父である、特にイエスの父であるという考えはキリスト教会が流布したものです。

イエスが神を「わたしの父」と呼んだとしても、それが今日のわたしたちにとってそのまま受け入れられるのかということは、別途真剣に考えなくてはいけません。なぜかといえば、「父である神」という考えによって、性差別が助長されたという歴史がキリスト教の中にあったからです。そしてそれは今も続いているからです。具体的には、聖職者・教役者を男性に限るという伝統は(「神父」)、「神も神の子も男性だったから」という理由から始まったのです。そして今もって女性司祭(「神母」?)はカトリックで認められず、プロテスタントにおいても女性牧師は少数にとどまっています。教会の中の男性中心主義を助長する教えや制度は隣人愛に反します。本当に神に性別がありしかも男性であるのかどうかをわたしたちは自分の頭で考えなくてはいけません。

もし神が男性ならば、神は信者の持っている「男らしさ」に振り回されてしまうでしょう。時代・地域・文化に応じて男らしさは異なります。後天的・社会的なものによって「~らしさ」はつくられるからです。信者は自分の持っている男らしさを神にあてはめて、たとえば「力強い」「決断力がある」といった紋切り型の性質を神が持っていると考えてしまうのではないでしょうか。「神が愛である」ということは、男らしさより広く深い意味を持っているはずです。

さらに、神は「父親」であるのでしょうか。これが一種のたとえだとしても、現代の日本社会においてこの呼び名は正しく神の本質を言い当てているでしょうか。東北アジアにおいては儒教の影響で家父長制が極めて強いものです。横暴な父親でさえも権威でありえます。神はそのような父親に似ているのでしょうか。また、父親からの虐待・性暴力を受ける子どももいます。そのような経験を持つ人にとって、父親は神のたとえとなりうるでしょうか。あるいはもっと「平均的」な家庭を想定しても、仕事人間でほとんど家にいない日本の父親が神に似ていますと言われても困るでしょう。率直に言って、聖書の語る神と重ならないように思えます。というのも神は、あの風変わりな父親、二人の息子を持った父親(ルカ15章)にたとえられるからです。

当たり前のことですが教理よりも神ご自身の方が重要です。わたしたちは文字や論理を信じているのではなく生ける神を信じているのですから。また紙に書かれた文字である聖書は、霊である神そのものではありません。だから信者は聖書を基にしつつも、常に霊的に批判的に解釈しなくてはいけません。イエスが神を「わたしの父」と言い抜いたのは、当時のユダヤ教の教理に対する極めて過激な批判であり、当時の聖書や制度を批判的に解釈した結果なのです。

ですからわたしたちも三位一体という教理をお題目にしてはいけません。それを唱えれば安全ということになるならば、教理に挑戦してイエスが殺されたという事実を軽くしてしまうでしょう。イエスと同じガッツは、キリスト教会内の少数派にこそ継承されています。本当に「父なる神」で良いのですかと問う人々の中にイエスの霊が宿っています。以上のような問題意識のもと、わたしは今日の箇所の「父」という単語を、「神」と読み替えて話を続けます。

イエスが自分を神と等しいものとみなしたということは何を意味するのでしょうか(18節)。そのことがわたしたちの生き方にどのような示唆を与えるのかを考えましょう。それは「死んだような生き方」から、「永遠のいのちを生きる」ことへの転換を促すはずです(25節)。

神の子と神の関係はこの聖句で非常に入り組んだものとして表現されています。それが「等しい者」の具体的現れです。たとえば、イエスは自分では何もできないけれども(19節・30節)、神の真似をすることによって、または神から指示をされることによって(20節)、神と同じ行為をすることができます。その一方で、イエスには自分の意思に従っていのちを与える権限がありそうです(21節)。神は公平な裁判についてすべてをイエスに委ねています(22節・27節)。しかしそう言ったかと思うと、イエスは神から聞くままに裁くだけであって、何も委ねられていないようでもあります(30節)。

できるのかできないのか、自分の意思があるのかないのか、委ねられているのかいないのか、なんだかよく分からなくなってきます。要するに何が言いたいのかと問いたくなる発言です。わたしなりにまとめると、「頼む人・頼まれる人は一心同体である」ということだと考えます。それが神と神の子の間に起こっています。そしてその信頼関係が神と神の子らにおいて起こること、さらに神の子らの間で起こることが、神の望みであると考えます。「頼む人・頼まれる人が一心同体であるような交わりをつくりなさい」という勧めです。

たとえば、わたしたちが自分の子どもに買い物を頼んだとします。または自分の保護者から買い物を頼まれたとします。その時、自宅とスーパーマーケットと場所が離れていても、二人は一心同体でしょう。もし買い物にいかなければ両者ともに晩ご飯を食べられなくなります。どうしてもしなくてはいけない仕事が二人を一心にさせるのです。そして、共通の利益によって二人は同体とみなされます。

子どもは見よう見まねで買い物をします。品物を選んでレジに行ってお金を出して袋に詰めて帰ります。この意味で保護者が見本を見せて示していなければ何もできません。しかし、すべて同じことをすべきかと言えばそうでもありません。カレールーをS&B社製のものにすべきかハウス社製のものにすべきか等は、子どもに任せられています。どの野菜を選ぶか、たとえば今日のカレーにナスを入れるかどうかも、子どもは自分で決められるでしょう。さらに、腐りかけた食材を使うことはありえません。これも判断できます。

周りはどうでしょうか。この子どもは自分のための食事を買い物しているとは思わないでしょう。多分、保護者から頼まれて買い物をしていると思うはずです。周りの人は、子どもだけではなく背後の家族を一体と見ているのです。「がんばってね」と励ます大人は、頼まれた子どもだけではなく、頼んだ保護者をも承認しています。実に微笑ましいと感じているわけでしょう。

神はイエスを遣わしました。愛するというお使いのためにこの世界に派遣しました。神を愛するということ、隣人を愛するということ、互いに愛し合う群れを作ること、これを実践して欲しいと頼まれたのです。永遠のいのちを生きるというお使いです。イエスは神が旧約聖書で行なった愛をまねて、2000年前のパレスチナで愛を実践しました。

ガリラヤ地方の人・サマリア地方の人といった軽蔑されていた人をあえて選んで偏って愛されたのは、イスラエルという奴隷の民をあえて選んで解放した旧約の神の真似です。安息日にあえて安息日規定を破らせたのは、安息日のもともとの意味を取り戻すためでした。神を愛すること、礼拝することとは何かということを教えるためでした。旧約の神が死者を復活させたことにならって、イエスも死者を復活させます(11章)。旧約の神が公正な裁判を実現する方であるように、イエスも地上で悪人が栄えていることを不正義と断じ、公正な裁判をもたらします。愛というものは正義を含むからです。イエスは、イスラエルという民を真似て、信頼のネットワークを作っていきます。神は背中ですでに愛を教え(旧約聖書)、また大筋をイエスに指示し、細かい詳細をイエスに委ね、地上へと派遣します。この頼むこと・頼まれることの相互の信頼関係にいのちがあります。一心同体であるときに永遠のいのちが湧き出るのです。

「死んだような生き方」というのは、本気で信頼を寄せる相手を持たない生き方ではないでしょうか。また「死んだような生き方」というのは、相手からの信頼に真剣に応えない生き方ではないでしょうか。

わたしは聖書に書いてあるイエスの姿を見るときに、「もし神が地上に来たらこういうことをするのだろうな」と思うのです。この不公平な世の中で、神は公平な裁きをするのですから、不当に貶められている人に偏った愛を示すはずです。言葉においても行動においても、この地上でもっとも小さくされた人を祝福し生きる力を与えるはずです。そうすれば正義と愛が同時に実現します。まさにイエスはそのように人々を愛しました。その結末が十字架の処刑です。

この方に本気で信頼を寄せることができるのは幸せなのだと思います。不思議なことに目には見えない復活のイエスを信頼する時に、イエスからの信頼を感じることになります。聖霊はそういう働きをなさるのでしょう。イエスのいのちが自分の中に宿るのです。小さな自分に尊厳が与えられ、「頼んだよ」と言われているような気になるのです。キリスト信者には「愛」というお使いが頼まれるわけです。「頼み頼まれる人生」が始まります。ここに死からいのちへの移り変わりがあり、永遠のいのちを生きることの始まりがあります。

この信頼関係は、すべてのいのちにあてはまります。神の創られた自然界はこのような頼み頼まれる関係に満ちています。植物の繁殖を助ける虫がいたり、ある動物のからだを掃除するほかの動物がいたり、食物連鎖も大きな目で見たらその一環ととらえられます。この意味で野の花も空の鳥も永遠のいのちを輝かせて生きています。

一方、人間の世界はどうでしょうか。今以上にわたしたちには信頼すること・信頼に応えることが求められています。神と神の子の関係は、教会を含め人間社会のめざすべき理想だからです。三位一体論という教理はそのように実践の出口として考えたほうが建設的です。

選挙結果や橋下徹や石破茂や麻生太郎の暴言(主権者からの厳粛な信託に応えていない態度)を見るにつけ、信頼のできる人を議員として派遣する必要を感じます。この人々を見ても愛の神を想像できないので、わたしは信頼できません。何に信頼を寄せるべきか、わたしたちの視点も問われています。こんな小さなわたしを信頼してくれたイエスに倣うなら、意外な人々に注目し信頼し頼んでいくことが必要でしょう。それはこの世で小さくされている人々、子どもや貶められている人々です。視点を変えて信頼のネットワークを広げていきましょう。

またイエスから頼まれていることに責任をもって応えなくてはいけません。愛するというお使いです。神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合いましょう。そうすればわたしたちは神と一心同体です。永遠のいのちを生きられます。死からいのちへと移りましょう。すべての人がいのちへの道に招かれています。