母の会礼拝説教 隣人となる レビ記19章18節 2013年9月5日

今日の聖書は9月の暗唱聖句です。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれることがあります。それは今日の聖句をイエスという人が大切にして生きたからです。一言で言えば、「利他的な生き方に価値がある」と教えて、自分もそれを実践したということです。

イエス自身がこのレビ記19:18を一つのたとえ話で説明しています(ルカ10:25-37)。道端に倒れているユダヤ人男性がいました。強盗に遭って半殺しにされたのです。そこへ一人の宗教者(祭司)が通りかかります。しかし道の向こう側を通り過ぎます。次に別の宗教者(レビ人:「レビ記」の命名由来)が通りかかりますが同じように通り過ぎます。

そこへサマリア人が通りかかります。サマリア人はユダヤ人から差別されていました。日本人とアイヌ人や琉球人、朝鮮人、台湾人との関係に似ています。このサマリア人は自分のできる範囲で精一杯倒れている人を助けます。その人を宿屋に連れて行き怪我を介抱し宿賃・医療費を支払い、「また立ち寄る」と宿屋に約束して自分の仕事に向かいます。

これが「自分自身を愛するように隣人を愛する」ということの具体的説明です。多くの教えがつまったたとえ話です。以下、四点ほど申し上げます。

①    偽善は止めましょうという教えです。特に宗教者は偽善的になりがちなのでそこをイエスは批判しています。いいことを言う人はいいことを行わなければだめです。

②    売名行為を止めましょうという教えです。慈善行為を宗教団体は自分たちの布教に役立ててもいけません。これも偽善(売名行為)になりうるでしょう。サマリア人はサマリア人の宗派を持っていました(サマリア教団)。倒れているユダヤ人・宿屋の主人を改宗させようとしていないことが大切です。

③    ただの人として接しましょうという教えです。国とか国籍とか民族とかさまざまな違いを主張することの問題、特にお互いの仲を悪くするために煽ることをイエスは批判しています。

④    善い行い(他人のための行為)を自分のできる範囲で行いましょうという教えです。このサマリア人は自分の仕事の隙間で助けています。仕事や自分の日常生活も両立させています。24時間介護ではありません。どんなに善意があっても共倒れではいけません。できる人が・できることを・できる時に・できる範囲で行う時に持続可能になるのです。「自分も愛し大事にする」とも言えるでしょう。

東日本震災の被災者支援活動は今も続いています。まずは隣人となろうとすること、そしてその後どのような考え方が望ましいのかを判断する必要があります。わたしは今申し上げたことを規範にしています。また日本バプテスト連盟の被災地支援海外窓口役として、日本が侵略した国々からの寄付にも感動しています。具体的に何を行うか/行わないかは個人の判断です。みなさんはいかがでしょうか。