油注がれた者 サムエル記上16章5-13節 2021年8月22日 礼拝説教

5 そして彼〔サムエル〕はエッサイと彼の息子たちを清め、彼らのために犠牲(の食卓)に呼び、6 彼らが来た時に以下のことが起こった。すなわち、彼はエリアブに注目し、「確かにヤハウェに向き合う、彼の油注がれた者」と言い、 7 ヤハウェはサムエルに向かって、「彼の外観と彼の立ち姿の高さをあなたは見るな。なぜならわたしは彼を斥けたからだ。なぜなら人間が見ることに『否』(だからだ)。なぜなら人間は目のために見るからだ。そしてヤハウェはその心のために見る。」と言い、 

 モアブ人ルツとユダ部族に属するボアズの孫にエッサイという人がいました。大きな麦畑の農園主、さらには羊飼いとして手広く商売をしている人でした。ベツレヘムという町の名士、おそらく長老(4節)の一人です。

 ヤハウェはこのエッサイの八人の息子たちの中から、イスラエルの王を選んだというのです。穏やかではない話です。というのも、イスラエルの王としてベニヤミン部族のサウルが現に存在しているからです。ヤハウェは預言者サムエルを通して、サウルを王としました。その際にサムエルは犠牲の食卓をサウルと囲み、サウルに油を注いだのでした(9-10章)。本日の箇所は、サウルへの油注ぎ(任命式)と酷似した、ダビデへの油注ぎ(任命式)です。

サウル王がいるのになぜダビデが王に任命されるのでしょうか。サムエルとサウルの決裂がきっかけとは言え(13・15章)、ヤハウェやサムエルのやり方には疑問が残ります。サムエル自身も(2節)、そしてベツレヘムの長老たちも(4節)、王の任命権者であるサムエルの来訪を「穏やかではないことがら」と認識しています。クーデターです。嫌な予感がします。サウル王に対する競合者が村から任命された場合、その人をなるべく隠して穏便にことを済まそうと長老たちは考えています。そうでなければサウル王に村ごと滅ぼされるかもしれません。ベニヤミン部族とユダ部族には、ベツレヘム出身の女性をめぐって根の深い怨恨関係があるからです(士師記19章以下)。

 老サムエルは牛を一頭引いて長老たちを犠牲の食卓に招きます。そして長老たちの中からエッサイを見出し、エッサイの息子たちだけを長老たちとの食卓に呼びます。エッサイは困ったでしょう。「自分はモアブ人の血も引いているから自分の子どもたちは反サウル王クーデターに巻き込まれない」と思っていたかもしれません。そういうところにヤハウェの籤は当たるものです。

 エッサイは八人いる息子たちの中で七人の息子たちを、町の長老たちの居並ぶサムエルの食卓に呼びつけました。サムエルは七人を同時に見て、先頭を歩く長男エリアブに注目しました。サウル王のように背が高かったからです。エッサイは覚悟をしました。「長男が指名されたら、我が家はどうなるのだろうか」。長老たちもエッサイの心中を察しています。みな家父長制にどっぷりと漬かっているとはいえ、どこの家のどの子どもが指名されても嫌な場面です。そもそもサムエルは人を見る目がありません。自分の愚かな息子たちにも跡継ぎの地位を保障してしまう人物です(8章1-3節)。そのサムエルに選ばせることは公正なのでしょうか。

ヤハウェはサムエルと異なる視点を持っていました。サムエルの「注目する」(6節)と、ヤハウェの「見る」(7節)は異なる動詞です。神の視野の方がより広く、「みとめる」という意味も含まれます。天地創造における「良いと見る」の「見る」です。「ヤハウェに向き合う、彼〔ヤハウェ〕の油注がれた者」は、人間一般がおちいりやすい、見当違いの視点で選ばれるべきではありません。人間は、自分の目を喜ばせるために、「上に立つ人」を選びがちです。しかし、ヤハウェは「その心のために」油注がれる者を選ぶのです。「その心」は神の心も指しうるし、選ばれる人の心も指しえます。まとめれば神の心と自分の心を向き合わせられる人が、任命されるべきなのです。

エリアブではない。サムエルはショックを受けながら、もう少しじっくりと一人ひとりを見たいとエッサイに注文をします。

8 エッサイはアビナダブに向かって呼びかけ、彼は彼をサムエルの前を通り過ぎさせ、彼は、「この男性をも、ヤハウェは選ばなかった」と言い、 9 エッサイはシャンマ(を)通り過ぎさせ、彼は、「この男性をもヤハウェは選ばなかった」と言い、 10 エッサイは彼の息子七人(を)サムエルの前に通り過ぎさせ、サムエルはエッサイに向かって、「ヤハウェはこれらの男性たちを選ばなかった。」と言い、 11 サムエルはエッサイに、「その若者たちは完了したか」と言い、彼は、「まだ最も小さな者が残った。そして見よ。(彼は)羊を世話し続けている。」と言い、サムエルはエッサイに向かって、「あなたは遣わせ。そしてあなたは彼を取れ。なぜなら彼がここに来るまでわたしたちは(食卓を)囲まないからだ。」と言い、 

 父エッサイはサムエルの注文通り、次男アビナダブ以降を、サムエルの前を通り過ぎさせ、じっくりと見ることができるようにします。しかしそれでもヤハウェからの「指名」はおりませんでした。とうとう七人全員の「審査」が終わりました。サムエルはエッサイに問います。「誰か隠していないか」。エッサイは八番目の末息子がここにいないことを初めて白状します。

 多くの解釈者はエッサイがダビデに期待していなかったから呼ばなかったと採ります。しかしそうでしょうか。もしエッサイの祖母ルツのお気に入りだったらどうでしょうか。「七人の息子たちより良い」(ルツ記4章15節)と評されたルツが、「おやまあ八人目かね」とユーモアを込めて、かわいがった曾孫だとしたらどうでしょう。父祖ヤコブが末子ベニヤミンを惜しんだように、「この子だけは危険にさらしたくない」と思って、エッサイがあえて隠したかもしれません。そのようなところにヤハウェの籤は当たるものです。神は「最も小さくされた者」をあえて選ぶのです。

 愛息を惜しむ心を見抜かれたエッサイは、やむを得ず祖母ルツには内緒でダビデを連れてくる手はずを整えます。その場にいた全ての人が、つまり人事の才能がない鈍いサムエルでさえも、はっきりと分かりました。エッサイの息子たちは他にいないのですから、末子ダビデが王となるべき人物です。長老たちは神の意思を知りながらも、この後の展開に思いを巡らします。どうすればダビデ王の誕生が平和裏になされるか。ベツレヘムの村が戦火に巻き込まれない政策を搾り出さなくてはいけません。

12 彼は遣わし、彼は彼を来させ、彼は赤かった、目の美しさと姿の良さと共に。そしてヤハウェは、「あなたは起きよ。あなたは彼に油を注げ。なぜならこの男性が彼だからだ。」と言い、 13 サムエルは油の角を取り、彼は彼の兄弟たちの真ん中で彼に油を注ぎ、ヤハウェの霊がダビデに向かってその日からまたその後も襲い、サムエルは起き、ラマへと行った。

 ダビデという人物がこの時何歳だったのかは分かりません。この時点のダビデが長身ではなかったことだけは、長男エリアブとの比較で推測できます。両者は共に見た目が優れていますが、ダビデは背の高さをほめられていません(7・12節)。10歳未満の子どもかもしれません。「彼は赤かった」(12節)という謎の言葉が、頬が赤い元気な子どもを連想させるからです。ちなみに「赤い」は、ヤコブの兄エサウの別名「エドム」の語源です(創世記25章30節)。エサウは毛深い人物であり、また全身が赤く日の焼けた「野の人」(同27節)だったのでしょう。同じようにダビデも羊を世話する「野の人」だったことを、ここで言い表している可能性があります。ダビデはエサウの再来です。

「赤い」ことは後のダビデ王が、曾祖母の生地モアブだけではなく、さらに南のエドムをも支配下に置いたことを暗示しているのかもしれません(サムエル記下8章12-14節)。アブラハムとロト(モアブ、アンモン)との葛藤、イサクとペリシテ人との葛藤、ヤコブとラバン(アラム)の葛藤、ヤコブとエサウの葛藤(エドム)、レアとラケルの葛藤、ヨセフと兄弟たちとの葛藤、これらをすべてまとめあげた人物としてダビデは描かれています。それがダビデの統一王国の支配領域の意味するところです。このように創世記とイスラエルの歴史を重ね合わせて読むことをお勧めします。

ヤハウェはサムエルに今油をダビデに注げと命じます。食事の前という任命は珍しいことです。「兄弟たちの真ん中で」(13節)油を注がれることの意義は、人間社会における葛藤に対する神の意思を示しているように思います。聖書はユダヤ民族主義も語りますが、同時にイスラエルの周辺諸国はすべて「親戚」であるという歴史観も持っています(セムの家)。同胞でありながら敵対しがちな人間社会に向けて、神は平和を望んでいます。一人ひとりに平和を創出するようにと励ましておられます。親戚同士の醜い葛藤を解決していく人物こそが、ヤハウェと向き合い、ヤハウェが油を注ぐ者なのです。

ただしダビデが行ったように軍事力によって葛藤を解決していくことが良いことなのかが現代的には問われます。アフガン戦争というもの(米国による任意の軍事侵略と撤退)は何を解決したのでしょうか。

ここに「ベツレヘムの長老たち」が果たす役割があるでしょう。誰が王の候補者に任ぜられるにせよ、穏便にことを進めるべきです。子どものダビデが選ばれたことは「不幸中の幸い」です。長期に渡る目立たない仕方で、またダビデがベツレヘム住民と切り離された形で、王になる道を創る必要があります。それが音楽家ダビデの出世という道です。聖書はゴリアトを倒した武人ダビデの出世物語(17章)と、サウルの心を癒す琴奏者ダビデの出世物語(16章14節以下)を掲載しています。史実としてはゴリアトを倒したのは別人です(サムエル記下21章19節)。長老たちは音楽家ダビデをプロデュースします。

その一方で長老たちはベツレヘム住民をサウル王朝対ダビデ王朝の内戦に巻き込みません。ベツレヘムを南王国の首都にさせません。若者をダビデ軍に入れさせません。ダビデは逃げる時もベツレヘムに帰らず、常に自分の私兵・傭兵と共に行動をします。パンの家ベツレヘムは、政治・軍事の中心と離れて独自の自治を保っています。「不当に思える」神の油注ぎに対する消極的協力が、モアブ人ルツを助ける判決を出したベツレヘムの長老たち(ルツの孫含む)の知恵です。かつての「非武の島」沖縄のようです。

今日の小さな生き方の提案は、神の意思には逆らえないというある種の諦めを持つことです。神は神の心のために動きます。神は世界で最も小さくされた人をご自分の器として選ぶから、「明日自分が油を注がれるかもしれない覚悟」が必要です。しかしそれと同時にこのような強引な神の持ち運びについては、消極的に協力するだけで良いとも考えられます。聖書には戦争記事も含めてさまざまな暴力がむき出しのまま記されています。それを是とする「聖戦思想」「英雄願望」を批判すべきです。穏便な長老たちに倣いたいです。鋤を剣にさせないでパンを作り続ける、パンの家を共につくりましょう。