生まれ故郷へ 創世記30章25-36節 2019年6月2日礼拝説教

「そしてヨセフが生まれた時以下のことがあった。すなわちヤコブはラバンに向かって言った。『あなたは私を放て。つまり、私の場所に向かって・私の土地のために、私は行きたい。あなたは、私の妻たちと私の子どもたちを与えよ。その彼女たちにおいてあなたと共に私は働いたのだが。重ねて、私は行きたい。なぜなら、私があなたに仕えた私の労働をあなた、あなたこそが知っているからだ。』」(25-26節)。

ヤコブは舅であり伯父であるラバンに、「家族ともどもカナンの地に帰りたい」と突然切り出しました。ヤコブはなぜヨセフが生まれた時に合わせて、このような申し出をしたのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目の理由は、母リベカを思い出したというものです。ヤコブの母親のリベカは妊娠しづらい女性でした(25章21節)。妻ラケルと同じです(29章31節)。ラケルの出産はヤコブに母リベカと、母との約束を思い出させました。「兄エサウの怒りが治まるまで伯父ラバンの家に居候をする(表向きの口実は結婚相手をラバン家の中で探すこと)。程よい頃を見計らって母リベカがラバン家に人を遣わしてヤコブを呼び戻す」。これがヤコブとリベカの交わした約束でした。母からの使者がいつまでも遣わされていないことをヤコブは不審に思っています。「遣わす(シャラハ)」は、ここで「放つ(シャラハ)」と訳した語と同じです。誰も遣わされて来ないので、自分自身が遣わされて行こうとヤコブは考えました。まったく使者を遣わさない母親が達者なのかどうか、ヤコブも母親の身を案じているように思います。

二つ目の理由は「雇われていた14年間」が満了したことです。レアとラケルの結婚という「報酬」を得るために、ヤコブはラバンと共にラバンの家畜を飼いました。12人の息子・娘を順次授かっていることを考え合わせると、ヨセフの誕生の時点で14年以上ヤコブはラバン家に居候していると推測できます。

労働契約期間は満たされました。この期間中、4人の妻と12人の子どもは、厳密には雇い主ラバンの所有する「もの」です。しかし14年の労働が終わったのですから、ラバンは「報酬」として4人の妻と12人の子どもを、ヤコブに「与え」なくてはいけません。ヤコブからすれば本当は7年のはずだったのが、ラバンに騙されて14年に引き延ばされたという恨みもあります。そして14年を超えているにもかかわらず、ラバンは超えた部分の報酬をヤコブに何も与えず、ただ働きを続けていたのでしょう。

確かに14年間ヤコブは一種の「債務奴隷」でした。しかし債務はもはやありません。ラバンがヤコブを縛る理由は無いのですから、ヤコブは自由となるべきです。当然の権利を使おうとして、ヤコブは自分の場所に向かって・自分の土地のために行くことを願います。パダン・アラムは自分の場所ではないとヤコブはいつも考えていました。外国人の感じる疎外感が常にありました。ヤコブは家族と居ながらも孤独でした。必死にアラム人になろうとするのですが、自分だけがカナン人だからです。

そして自分の帰国は、イサク・リベカのためになるとヤコブは考えています。イサクは結婚のためにヤコブがラバンのもとに行ったと信じています。リベカはヤコブが元気でいるだけで喜んでくれるでしょう。両親に妻と孫と自分の顔を見せることは、この上ない親孝行です。「私は行きたい」という願望が二回も繰り返されているところに、ヤコブの強い願いが表されています。

「そしてラバンは彼に向かって言った。『もしもお前の目の中に私が恵みを見出すのなら…。私は占った。そしてヤハウェはお前のゆえに私を祝福した』」(27節)。ラバンにとってこのヤコブの要求は突然のものだったようです。ラバンはうろたえます。特に一文目は未完成な文です。支離滅裂なことを言いながら、会話の間をつなごうとしています。そうしてラバンは言葉を継ぎます。「お前は、私に関するお前の報酬を明示せよ。そうすれば私は与える」(28節)。

この言葉はヤコブにとっては想定内でした。似たような言葉を14年前にラバンから聞いたことがあるからです(29章15節)。またぞろ同じように騙そうとしているラバン。狐と狸の化かし合いが火花を散らします。なるべく有利な条件を引き出してヤコブは出ていこうとし、逆にラバンはなるべく有利な条件を引き出してヤコブを引きとめようとします。

「あなた、あなたこそが知っている、私があなたに仕えたことを、またあなたの群れが私と共にいたことを。なぜなら、私の前にはあなたに属するものはわずかだったのだから。そしてそれは多くに広がった。そしてヤハウェが私の足に応じてあなたを祝福した。そして今がある。わたし自身が私の家のために働くのはいつなのか(今でしょ)」(29-30節)。

ヤコブは恩着せがましく、自分の働きに応じてラバンの財産が増えたことを強調しています。「これはかなり高くふっかけられるな」とラバンは覚悟しました。「お前のために私は何を与えるべきか」(31節)。しかし意外にもヤコブは次のように言います。「私のためには何も与えるな」(31節)。この言い方は、十戒のような強い命令とも取れるし、逆に「どうせあなたは私のために何も与えない」とも取れる言葉です。ラバンは揺さぶられました。ヤコブが報酬を高くふっかけてこない。真の望みは何か。本当に出て行くだけなのか。ただ働きをどうすれば継続させることができるのか。心理戦です。

黙るラバンを前にヤコブは続けます。「もしもあなたが私のためにこの事をするならば、私は考え直したい。私はあなたの群れを飼う。私は守る」(31節)。何だ、急に帰国するわけではないのか。要するに条件交渉か。よろしい、それは私の得意分野だ。何でも言ってみろ、切り返してやる。「この事」とは何か。何が条件か。何が望みの報酬か。ラバンはヤコブの言葉に聞き入ります。

「私は今日あなたの全ての群れの中を巡る。そこからぶちとまだらの羊全てと、子羊たちの中で灰色の羊全てと、山羊たちの中でまだらとぶちのものを、あなたは除け。そしてそれが私の報酬となる。そして明日私の正義が私について証明する。なぜなら私の正義が、私の報酬に関してあなたの面前に来るからだ。山羊たちの中でぶちとまだらのないものや羊たちの中で灰色でないものは全て、私によって盗まれている」(32-33節)。

ここには新しい労働契約が示されています。この労働条件をラバンに呑ませるためにヤコブは策を練りました。まず、ヤコブに対する報酬はラバンが必ず賛成する内容でなくてはいけません。ぶちとまだらと灰色は、真っ白ではないという共通点を持ちます。白一色ではない毛皮は見栄えの点や、加工するのに難しいという点で商品価値が低いとされていたようです。「白(ちなみにラバンとは「白」という意味の言葉)ではない羊・山羊ならば、安いものだから報酬として与えても良いか」とラバンに思わせることに一つの意図があります。

さらにヤコブはずる賢い策を練っています。ヤコブは、ラバンが騙すことを誘発する内容をわざと含めています。それはまた、損得勘定で人を騙す癖を持っているラバンが賛成してくれる可能性も高めます。つまり、ヤコブはわざと、白一色ではない家畜を除外する作業をラバンにさせています。通常ならば、両者立会のもとに行う作業です。また、「今日全ての群れを自分が巡る」とか、「明日自分の正義が証明される」という言い方は、あたかもヤコブが除外する作業をするかのように読めます。新共同訳聖書を読んでも、ヤコブが安い家畜を除外する作業を行うかのように読めます。しかし原文は、「あなた(ラバン)は除け」(32節)とラバンを名指ししています。

「しめしめここで不正を働こう」とラバンが考えることを想定し、ある意味その不正を誘発させているのはヤコブです。「『よし。是非ともお前の言葉通りになるように』。そしてラバンはその日に除いた、縞とまだらの雄山羊を、またぶちとまだらの雌山羊の全てを――そしてそれは白いものがある全てと子羊たちの中の灰色のもの全てだったのだが――。そして彼は彼の息子たちに与えた。そして彼は三日の道を彼とヤコブの間に置いた。そしてヤコブはラバンの残りの群れを飼い続ける」(34-37節)。

ラバンはヤコブの言葉通り自分で白一色ではない家畜を除きました。そしてヤコブの言葉をはみ出してその家畜を息子たちに与えました。ラバンは念入りに距離を取って、これ以上白一色ではない家畜が生まれないようにします。次の日ラバンは「お前の報酬は存在しない」と、ヤコブに告げたのでしょう。こうしてヤコブのただ働きは継続されます。報酬が無いので出て行けなくなったのです。ラバンは息子たちと祝杯を挙げたことでしょう。「愚かな甥・婿をまた騙してやったぞ」というわけです。しかし、実はラバンの方がヤコブの掌の上で転がされていることが後で判明します。驕れる者は久しからず。

ヤコブの狙いは、ラバンと新しい労働契約を結ぶことです。それは、今後白一色ではない家畜が生まれたら、全てヤコブのものとなるというものです。「それが私の報酬となる」(32節)。この「なる」は預言の完了と呼ばれる表現です。直訳すれば「なった」という完了形です。しかし特別に、必ず起こる未来について強い口調で断言するためにも完了形は使われます。特に預言者たちは頻繁に使います。だから、この時点だけの約束ではなく、将来起こることも全て含まれる言い方なのです。ラバンが距離を保ったのも、この契約が将来に渡るものだということを知っているからです。

ヤコブは新労働契約締結のためには一時損をしても良いと考えています。ヤコブにしても、何も財産が無いままにカナンの地に帰ることは難しい。家族を養いながら何日も旅をし、カナンの地でもそれなりに暮らすためには、家畜という財産が必要です。どうすればラバンから合法的に家畜を得て、凱旋帰国することができるのか、ヤコブは長年考えていました。騙しにかかるラバンを騙す。二度と苦杯は舐めない。完璧な人ヤコブの面目躍如です。人の良い兄エサウや父イサクを騙すのではありません。母リベカの兄でありリベカ級の策士である伯父ラバンが相手です。交渉の入り方から出口の設定まで、ヤコブは入念に準備をして、相手を想定通りの行動に誘導しています。ヤコブには、白い家畜ばかりになったラバンの群れから、白一色ではない家畜を増やす知恵がありました。ラバンも知らなかった知恵。その保証があっての交渉だったのです。

今日の小さな生き方の提案は、中長期的計画を練ることの重要性です。一時損をするかもしれないけれども、最終的には得をするという道を入念に準備し計画することは、人生において重要です。人生100年時代、どうすれば有意義に生きることができるのでしょうか。聖書は世俗的な利得・幸せについても肯定しています。それを「俗っぽい」として斥けてはいけません。この場に集まる全ての人は世俗的な意味の「幸せ」を得る権利を持っています。それを否定する律法はありません。本日のような箇所が示す通り、蛇のような賢さも必要です。特に家族を持っている場合には、家族全体の人生設計も必要となってきます。人生には寄り道や、それによる葛藤・苦労もあります。どのように修正したり克服したりして幸せに立ち戻り幸せを維持することができるか。わたしたちはヤコブの賢さ(強敵を克服する息の長い知恵)に学びたいものです。