疫病とはれ物 出エジプト記9章1-12節 2015年5月31日礼拝説教

今日は第五の災い(疫病)と第六の災い(はれ物)です。第五の災い(1-7節)はJ集団、第六の災い(8-12節)はP集団の書いた記事です。家畜が病気に罹るという点で重複記事です。似たような物語が続きますが、少しずつ話が前に進んでいることを今日も確認できます。

前置き・第一の災い・第二の災いでは、天地創造の第五日の動物が登場しました。大蛇や魚や蛙です。第三の災い・第四の災いでは天地創造の第六日の動物が登場しました。ぶよとあぶと家畜と人間です。第五の災いは家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊が疫病に罹るというものです。また第六の災いは家畜と人間が皮膚病に罹るというものです。大地が生み出す生き物の登場という点で継続し、家畜と人間に焦点がしぼられていることが分かります。生き物による被害ではなく、生き物(家畜・人間)そのものが苦しむという点で、話は進んでいます。

ぶよとあぶ(虱と羽虫の大群)は人間と家畜に不快感を与えましたが、直接に生き物を殺害するものではありませんでした。しかし疫病は家畜を殺す力を持っていました。旧約聖書のギリシャ語訳は、3節の「疫病」を「死」と翻訳しています。古代人の疫病に対する恐怖が表れています。はれ物は人間を立ち上がらせることすらできなくする猛威をふるっていました(レビ記13章18節以下の「炎症」と同じ単語)。影響の程度が強まっていることが分かります。影響の程度はファラオが出エジプトを許可するように働きかける力の程度です。

第五の災いでは、第四の災いと異なり、ファラオにとって事態は好転しません。あぶが飛び去ったというように好転せず、死んでしまった家畜は戻らなかったのです。それでも同じように「ファラオの心は重くなりました」(7節直訳)が、好転しなかったという点に影響の程度の強まりを確認することはできます。

第六の災いはエジプトの魔術師たちの最後の登場場面でもあります。今までアロンの杖と競合していた彼らは、今回何もなさないまま、「はれ物のためにモーセの前に立つことができなかった」(11節)のでした。かつてエジプト民衆を苦しめて加害者ともなっていた魔術師は、完全に被害者の立場に追いやられています。申命記(D)において膿みの出るはれ物(シェヒン)はエジプト特有の病と記されています(申命記28章27節)。エジプトの魔術師ならば同じことができそうなものです。にもかかわらず単なる罹患者とされていることに皮肉があります。エジプト国家とファラオは追い詰められています。

また、前回に引き続き(8章18-19節)、ヤハウェはイスラエルの人々の家畜だけを区別して守りました(4-7節)。このことは12章で起こる「過ぎ越しという救い」の前兆です。今回、虫がまとわりつく不快感を避けたという程度ではなく、疫病による殺害を避けたというように程度が上がっています。今回はエジプト人の財産・健康が奪われたのです。エジプト人の長男が軒並み殺され、イスラエル人の長男が殺害を避けたということと、近づいてきています。

出エジプトという夜明けが近いことを読者は悟らなくてはいけません。夜明け前は最も気温が低いものです。冷酷な現実のたとえとして夜明け前は相応しいものです。しかし明けない夜はありません。わたしたちは義の太陽であるキリストの夜明けを希望して、最も苦しい時を過ごすことができます。

今日の箇所は最も苦しい時の一例です。ファラオはモーセとアロンをだましました(8章24-28節)。非常に不誠実な態度です。行うと約束した自分の言葉を守らなかったからです。また知的ではない態度です。気に食わないことについて任意に「心を重く」し、感情的に腐るだけだからです。今日の箇所の結末も出エジプトの不許可処分です。またもやファラオの気分次第によって。ここにファシズム(全体主義的国家主義)の特徴があります。不誠実・反知性こそが問題の中心です。言葉が軽んじられていると言っても良いでしょう。

「疫病」(デベルd-b-r)は、「言葉/事柄/出来事」(ダバルd-b-r)と子音の語根字が同じです。ファラオが言葉を軽んじ誠実な対話相手ではないことが判明したので、第五の災いが「疫病」だったのではないかと推測します。ちなみにダバルは、1節と12節に動詞の形で登場し(告げなさい/仰せになった)、翻訳上見えない形で4節にも登場しています。聖書はデベルという災いを用いて、読者にダバルの重要性を訴えています。

だから不誠実かつ反知的な相手にヤハウェという神は、なおもモーセとアロンに「ファラオの前に立つこと」(10節)と、「ファラオのもとに行って・・・告げること」(1節。次週冒頭の13節も)を求めます。対面して対話して交渉をし続けることを、神はなおも要求いたします。ファシズムに対抗し乗り越えるために必要なことは、逆のことを行うことです。不誠実・反知的な相手に、誠実に知性をもった言葉で応答し主張することです。

たとえば5節にあるようなヤハウェの言い方は、相手に考える時間を一日与えています。「(猶予の)時を定め、明日、この地でこの事を行われる」という予告は、知的に考え直すための相手への配慮です。そして現在ある法律(言葉)を重んずる態度です。「イスラエルの人々が自由に礼拝できるようになるためにエジプト出国を許可するという勅令」が公式に発せられることが、アロンとモーセの目標です。その勅令・言葉を出す権限はファラオにあります。だからファラオを言葉によって説得する必要があります。この知的な作業を誠実に行わなくてはいけません。同じ土俵に招き入れなくてはいけません。騙す相手よりも、騙される者たちの方が高度な倫理観で対処しなくてはならないのです。ファラオの傍若無人な振る舞いを見ると、これは不公平な要求ですが、アロン・モーセに課された任務の本質的な部分です。

ここにわたしたちの模範があります。安倍政権の本質にはファシズムがあります。なぜかと言えば不誠実で反知的だからです。戦争法案の審議が始まりましたが、およそ質問に誠実に答える政府答弁はありません。繰り返しとはぐらかしばかり。そして知的に批判されると「知らなくて何が悪い」「あなたたちが誤解している」と開き直り感情的に攻撃するだけです。答弁席からの野次を行い続ける総理大臣や、野次文化を改めようとしない国会議員たちは、不誠実かつ反知的であり言葉を軽んじています。言論の府であるはずの国会が機能していません。審議時間を空費し強行採決をするならば、形式的には民主的手続きに則りながら実質的にはファシズムの実践がまかり通ります。

この邪で曲がった時代にあってわたしたちに求められていることは、誠実で知的であることです。国会議員一人ひとりの前に立ち、良心に働きかけて、この戦争法案が必要ではないことを諄々と言葉で説き、仮に必要であるとすればどのような場合なのかを対話の中で説明させ、「それは憲法が許容しません」ということを個別具体的に明らかにすることです。

身の回りの一人ひとりが安倍政権の高支持率を支えていることを考えれば、身の回りの一人ひとりに働きかけることも必要でしょう。そして一人でも多くの人が「誠実かつ知的」に言葉を用いる人にならなくてはなりません。ここで言う知的とは「偏差値が高いという意味で学力がある」とか「学歴が高い」とかということではありません。品位を保ちながら論理的に語るという振る舞いを知的と言っているのです。野次る相手に野次り返してはいけません。

今日は今まで登場していたけれども取り上げなかった言葉について掘り下げます。人間の罪とは何かということを考え、罪からの救いとは何かということを考えるためです。「去らせる」(1節)、「とどめる」(2節)、「かたくなにする」(12節)の三つの単語です。2節と12節は同じ動詞、ハザクch-z-qです。「掴む」「固くする」という意味です。7節「頑迷になる」は別の単語カベドk-b-d(重くなる)です。ハザクの方が一般的にファラオの心がかたくなになる時に用いられます(4章21節、7章3節・13節、8章15節)。まず2節・12節から考えます。ここに罪というものが説明されているからです。

罪とは相手を掴んで離さない行為です。把握し続ける支配です。2節は珍しく動詞の分詞-ingが使われており、現在進行中の行為であることが示されています。イスラエルを自分の支配下に握り続けることがファラオのしている悪です。「現人神と下々の者」という上下関係・「王と奴隷」という上下関係において、隣人を掴んで離さないということを永続させても良いと考える勘違いが、罪というものです。Jらしい言い方です。

ところで罪という支配欲はすべての人の心にあります。なぜなら、ヤハウェという神がファラオをも把握し、ヤハウェがファラオの心を固くしているからです(12節)。自分自身ではどうしようもない支配欲をすべての人は持っています。理由もわからないし自分でも解消しきれないので、神がそのように創ったとしか言いようがありません。Pらしい言い方です。

この両面を併せて聖書は罪という言葉で表現します。根本的な倒錯です。本当は愛すべき隣人や神を愛せないという逆立ち状態を罪というのです。聖書は罪からの救いを主題にしている本です。どうすれば人間は神と隣人とを愛することができるのでしょうか。またどのように生きることが救われた人の振る舞いなのでしょうか。

2節「去らせる」が救いを教えています。直訳は「投げる」「放る」「派遣する」です。エジプトから脱出することは救いです。脱出は奴隷が自由になることでもあるので、贖いとも言います。債務奴隷の買い戻しが贖いの原意です。この贖いを新約聖書では贖罪と言います。放り投げるという解放が、聖書の語る「罪からの救い」の原点です。

ヘブライ人は苦しみの中で神に叫びました。すると神は降っていきその力強い手で、荒野へ奴隷たちを放り投げたのです(3章7-10、19-20節)。「主よ、あわれんでください」という叫びだけが、苦しむ者にとって救いの「条件」です(マコ10章46-52節)。

支配者ファラオにとっては罪を自覚し悔い改めて掴んでいる手を離すことが救いです。相手を放つ時に自分が解放されます。このことは苦しめられているヘブライ人にも当てはまります。ミディアン人や言語的少数者への差別を持っているからです。弱い者がさらに弱い者を痛めつける現実や、被害と加害が複雑に絡み合う現実があります。この点で支配欲という罪に普遍性があります。

ヤハウェという神・イエス(ヤハウェは救うの意)という救い主は、この諸々の罪から自分の民を救い出す方です。その方法は、自らのいのちを放るというものです。生き様・死に様を含めて全存在を天から地に投げ下ろしたのです。いのちを犠牲にすることの最後とするために、十字架と復活によってすべてのいのちの生きる道を教えたのでした。唯一無比の買い戻しでわたしたちは罪が贖われました。苦しみから解放され・苦しめる生き方から解放されました。

この体験をした者たちをキリストは放ります。この世へと派遣します。「今、行け。わたしはあなたをファラオへと放る」(3章10節)。神と人を愛する生き方の実践にわたしたちは派遣されています。神に放られる人生に、罪からの救いがあります。明日もそれぞれの生きている場で小さな愛を行いましょう。